第11話 封じた歌声
「ラララー♪」
詩羽が歌うようになったのは、まだ幼い頃だった。
小さなアパートの一室。父がギターを弾き、母が口ずさむ。その横で詩羽も真似をするように歌っていた。
正直、意味のある言葉を発していたわけではない。ただ声を合わせることが楽しくて、二人の笑顔を見るのが嬉しかった。
「しーちゃん、いい声だねぇ~」
「ほんと!将来は歌手かな~!」
そんな冗談を言われ、幼い詩羽は嬉しそうに笑った。
その頃の母は、まだ柔らかい人だった。父と一緒に笑い、詩羽を抱きしめ、歌うことを褒めてくれた。
――でも、それは遠い日の話。
小学校高学年になるころには、家の中に笑い声は消えていた。
父は夜遅くまで働き、疲れた顔で帰宅する。母は苛立ちを募らせ、些細なことで怒鳴るようになった。
詩羽は自然と声を出すことが減っていった。歌うと母が「うるさい」と言うからだ。
「詩羽ちゃんの声、きれいだね!」
だが、学校で歌う時間だけは違った。音楽の授業で歌えば、先生も友達も褒めてくれた。
褒めてくれることに、心の奥がじんわり温まった。
中学に入ると、合唱コンクールがあった。クラス代表を決めるオーディションに、自然と周囲が詩羽を推した。
本人は戸惑ったが、担任や友達に背中を押され、渋々前に立った。
ピアノの前奏が流れる。
息を吸い、声を響かせる。
最初は震えていた。でも、曲が進むにつれて、音が自然と喉から溢れ出す。
教室の空気が変わるのがわかった。みんなが自分を見ている。その視線は重いのに、不思議と心地よかった。
歌い終わったとき、拍手が湧いた。
先生が目を細めて言った。
「すごいな、詩羽。君の声は人の心を動かす。」
結果、詩羽はクラスのソロパートに選ばれた。
本番の体育館。数百人の前に立ち、歌声を響かせた。
大きな会場の空気が震える感覚は、今でも鮮明に覚えている。
――けれど、それが転落の始まりだった。
「なんで詩羽ばっかり」
「調子乗ってるよな」
陰口が聞こえるようになったのは、その直後だ。
中には、わざと歌の練習を邪魔してくる同級生もいた。プリントを隠されたり、靴を隠されたり。
最初は我慢していたが、心は少しずつすり減っていった。
そして、決定的な出来事があった。
ある日、教室でソロパートを練習していると、背後から「下手くそ!」と叫ばれたのだ。
声が裏返り、歌が止まる。
振り返ると、同じ女子が笑っていた。
「調子に乗るなよ!お前なんかいなくても歌えるんだから…!」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。
何も言い返せなかった。怖くて、唇が震えて、声が出なかった。
それ以来、詩羽は人前で歌えなくなった。
授業でも声を小さくし、家では絶対に歌わなかった。
あんなに好きだったはずの歌が、喉を塞ぐ枷のように重くなった。
家に帰っても、母は変わっていた。
父が家にいないからか、母は酒を片手にため息をつき、詩羽に向かって言った。
「どうせお前なんか、歌ったって意味ないよ。誰も聴いてくれやしない」
かつて「歌手になれるかも」と笑ってくれた人と同じ人物とは思えなかった。
その言葉が、詩羽の胸に最後の蓋をした。
――だから、歌わなくなった。
誰かに届くはずの声を、自分から封じた。
そうしなければ、壊れてしまいそうだったから。
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(…だめだ)
湊斗はあれから楓真とライブハウスに行き、バンドのみんなと練習していた。
いつもなら楽しく歌い上げるはずなのに、今日は何かが突っかかっていて、喉の奥がうまく開かない。
「ねぇ湊斗くん、今日、どうしたの?」
「だよな。湊斗、最初会ったときからこんな感じで…」
心配してくれる仲間の声が耳に届く。
本来なら嬉しいはずなのに、湊斗はそれを自分を責めるきっかけにしてしまった。
(……みんなを心配させてる)
(俺は……やっぱり、詩羽みたいには歌えないのか?)
胸にわだかまりが広がり、呼吸さえ浅くなる。
「もう一回合わせてみることを強く推奨する」
真剣な眼差しで遥斗が言った。
「湊斗。お前は、何も考えずに歌うことを強く推奨する」
そのまっすぐな視線に、湊斗の心は少し揺れた。
(何も考えずに……?)
けれど、脳裏には詩羽の声が残像のように響いている。比べてしまう。自分は、あの声には敵わないんじゃないかと。
上からの電気が、ギターやドラムを照らす。
黒単色のギター、ところどころにステッカーが貼ってある色とりどりのベース、ドンドンとバスドラを奏でるだけでキュッと鳴ってしまうドラム。
楽器たちが音楽を奏で、その中で息を吸って自分のパートを待つ湊斗。
そして何も考えずに湊斗は歌い始める。
――けれど、やっぱり何かが引っかかる。
自分の声が、どこかで詩羽の歌声と重なってしまう。
さっきまで一緒に合わせたメロディが、頭の中で流れてくる。
(違う……俺の声じゃない……)
声を張れば張るほど、喉が苦しくなる。
リズムがずれ、メロディがぶれる。
「……っくそ!」
歌い終えた瞬間、湊斗はマイクをスタンドに乱暴に押し付けた。
バンド仲間たちが驚いた顔でこちらを見る。
「おい湊斗、どうしたんだよ」
「音程もリズムもズレてる。こんなのじゃ合わせられない」
「俺はなにも考えずに歌うことを推奨したんだがな…」
楓真と遥斗の声が重なる。
それは責めるというより心配の色が濃かった。
けれど、湊斗には鋭い刃のように突き刺さった。
「……わかってるよ!!」
声を荒げる自分に驚きつつも、止められなかった。
「わかってるのに……できねぇんだよ!」
スタジオに、重苦しい沈黙が広がる。
「お前らはいいよな。楽器でカバーできる。間違えてもやり直せる。」
「でも俺は……!歌しかねぇんだよ!それができなきゃ終わりなんだ!」
言葉が止まらない。
仲間の顔が、どんどん強張っていくのに気づいても。
「湊斗くん……」
悠梨が絞り出すように名前を呼んだ。
「それでも俺たちは――」
「俺は……俺は、もう自信ねぇんだよ!!」
湊斗は叫ぶように吐き出し、マイクを掴んだままスタジオの扉を乱暴に開いた。
ドアがバンッと音を立てて閉まり、残された空間には気まずい沈黙だけが残る。
――外の冷たい空気を吸い込みながら、湊斗は頭を抱えた。
(何やってんだよ、俺……)
仲間に八つ当たりしただけ。
詩羽の歌声を思い出すたび、自分がちっぽけに思えて仕方ない。
けれど、その声が頭から離れなかった。
温かくて、柔らかくて、どこまでも真っすぐな――詩羽の歌声が。
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