2.襲撃
「穂波、来たか」
呼ばれたのはさっきの小柄な女性だ。
けれど、玄也も晴もその声に聞き覚えがあった。
「あ、お父さん」
彼女の声と一緒に振り向いて、玄也は目を見張る。幸成の事故現場に立ち会っていた制服警察官だった。
「なんだ、知り合いだったのか?」
確か岩坂警部、と幸成が呼んでいたその年配の警察官は、自分の娘と、玄也と晴の顔を見比べている。
「知り合いって……いまここで会ったばっかりだけど?」
不思議そうに応えた娘に、父親の岩坂警部も応える。
「いや、この二人は胡摩の友人でな」
「えぇっ? 幸成くんのお友だち? って、幸成くん、お友だちいたの?」
本気で驚いているその女性、穂波の様子に、玄也は思わず吹き出しそうになった。
いや、僕も人のこと言えないけど、コマさんも友だちいなさそうだもんな。
「ホント? ホントにあなたたち、幸成くんのお友だちなの?」
「いや、友だちって言うか……」
なんと説明すべきか玄也が言葉を探しているうちに、晴があっさりと応えてしまう。
「幸成は俺の眷属だ。んで、玄也と幸成は対なんだ」
玄也はうめきそうになった。
穂波も、岩坂警部もきょとんとしている。
「え、あの、ケンゾク? ツイって……?」
ああもう、これだから下界を知らないお坊ちゃまは。
玄也はできるだけさらりと話題を変えた。
「そうだ、コマさ……幸成さんの容態はどうなんですか? 入院は必要なんですか?」
「あ、ああ、肋骨の単純骨折が二ヶ所、全治四週間らしい」
気を取り直したように岩坂警部が応えてくれた。「医者は、幸成が一人暮らしということもあって二、三日入院を勧めてるんだが、本人はその必要はないと言い張っていてな」
「あら、せっかく入院の用意をしてきたのに」
穂波が手に提げていたスポーツバッグを持ち上げた。
ああそうだ……玄也は鼻を鳴らした。煙草のせいで鼻がバカになってたけど、確かにこのバッグからはコマさんの匂いがする。
穂波はバッグを持ち上げたまま困ったようにため息をつく。
「幸成くんって変なとこで意地張るわよねえ。ホント、子供の頃からそうなんだから。まあ、不思議なほど幸成くんの怪我の治りが早いのは事実だけど」
その言葉に、玄也は片眉を上げた。
ってことは、このヒト、幸成さんを子供の頃から知ってるんだ? しかも、幸成さんの怪我の治りが早いことまで知ってる? 幸成さんよりちょっと年上っぽいけど……入院の用意までしてあげてるし、ふつうに考えて単なる上司の娘さんがそこまでしないよね?
そう思ったとたん、玄也のこめかみの辺りにピリッと電流が走った。
えっ、なんだこれ?
顔を上げた玄也の目の前で、晴の表情が一変した。
「幸成が危ねえ!」
叫んだ晴がいきなり駆け出した。
「えっ、ちょっ……なに?」
「玄也、ついて来い! 俺から離れるな!」
一瞬立ち止まって振り返り、晴は苛立たしげに玄也を呼んだ。そしてまたすぐ身を翻して駆け出す。
全くワケがわからない玄也も、思わず晴の後を追った。
晴は迷路のような病院の廊下を迷うことなく駆け抜ける。
ちょっ、待て、そんな本気で走ったら、僕らがフツウじゃないのがバレちゃうじゃないか。
そう思いながらも、玄也も何故だか本気で走ってしまう。夜なので病院の棟内にほとんど人がいないのが救いだ。
廊下の奥の検査室の前まで走った晴は、一瞬のためらいもなくそのドアを引き開けた。
「てめえ、幸成から離れろ!」
一秒後にその検査室へ飛び込んだ玄也が見たのは、注射器を手にした看護師に体当たりをかました晴だった。
呆気にとられているのは玄也だけではない。胸にコルセットを巻いて検査ベッドに腰かけていた幸成もだ。
悲鳴を上げて倒れた看護師にのしかかり、晴は右手を看護師の額に押し当てる。
一体なにを……呆気にとられたままだった玄也の身体が、びりびりと震えた。
開いてる……!
獏の目が、開いてる!
晴の額の真ん中、中央から眉間の辺りにかけてぱっくりと縦に割れ、その中で目玉が……金色の瞳が、らんらんと輝いている。
完全に言葉を失っている玄也と幸成の前で、晴は看護師の額に押し当てた自分の右手をぐいっと持ち上げた。その手にはなにか赤いもの……気体とも液体とも知れない不思議なものがくっついてずるずると出てくる。
あれは……狐?
朱狐だ!
本当に、鮮やかな朱色の狐が、もがきながら引っ張り出されてくる。
同時に、狐の匂いが玄也の鼻を突いた。それは、玄也がよく知っている白狐たちの匂いとは違っていた。明らかに、異質な狐だった。
晴がその手を振り上げると、狐の全身がずるっと完全に抜け出した。晴は即座に宙に浮かんだ狐に向かって口をとがらせ、すうっと息を吸い込む。そのとたん朱狐はしゅるんっと、頭から尻尾の先まで全部、晴の口の中に吸い込まれてしまった。
「何事ですか!」
悲鳴と物音を聞きつけた他の看護師と医師、それに玄也たちを追ってきた岩坂警部と穂波も駆け込んできた。
「こいつ、幸成に変なもん、注射しようとしやがったんだ」
晴は自分の口元を拳で拭い、のしかかっていた看護師の身体から離れた。その額の目はすでに完全に閉じられ、毛筋ほどの跡もない。
「えっ、注射って……」
「ぼ、僕は注射の指示なんて出してないよ?」
看護師と医師が顔を見合わせる。
晴は鼻を鳴らし、床に転がった注射器を見つめ、それから自分がたったいまのしかかっていた看護師の白衣のポケットに手を突っ込む。
「ほら、これだ」
晴がポケットから取り出したのは、使用済みのアンプル(注射用薬液の容器)だった。
医師は晴の手からアンプルを受け取り、看護師が床の注射器を拾う。
「えっ、これは……こんなものをこれだけの量、注射したら……」
薬品名と注射器を確認した医師が絶句する。
「なんでこんな薬を……?」
看護師の顔も青ざめた。そして、床に仰向けに倒れ白目を剥いている同僚の姿に、呆然とした視線を送る。
「この看護師、夢でも見てたんじゃねえか?」
少し苛立ったように晴が一気に言った。「とにかく、未遂で終わったんだ。コトを荒立てる必要もねえだろ。この看護師もすぐ目が覚めるはずだ。幸成、入院は必要ねえんだよな? このまま玄也んチに行こうぜ。玄也、お前、車で来たんだよな?」
「え、ああ、うん」
呆然としていた幸成と玄也が、同時に慌ててうなずく。
晴は玄也の腕をつかんでひっぱり、そして耳元でささやいた。
「頼む、速攻だ、俺はあと10分くらいしかもたねえ。速攻で大白狐の杜に連れて帰ってくれ。大丈夫、大白狐は俺のこと、敵だとは思ってねえから」
あと10分って……?
うろたえたまま見返した玄也は、晴がしかめた顔を何度も手でこすっているのを見て、ようやく思い出した。
眠いんだ。
そうだ、最強の神獣である獏の唯一の弱点、それは狐を食ったら眠ってしまうということだった。
玄也は喉を鳴らした。
「あ、えっと、岩坂さん?」
精一杯の営業スマイルを浮かべて玄也は振り返った。「その幸成さんの入院用荷物、あずからせていただけますか? 幸成さん、もともと今日はウチで一緒にご飯食べる約束だったんです。もうこの際だから、ケガが治るまでウチに泊まってもらってもいいですし」
「えっ、おい?」
声を上げた幸成を、玄也は横目で一瞬だけ睨みつけ、すぐにっこりと笑ってみせた。
「幸成さん、おじいちゃんがご飯作って待ってくれてるんだ。それに今日のことすごく心配してるようだし。僕、車で来てるから一緒に帰ろ? もちろん、晴くんも一緒に」
「うん、幸成、早いとこ服着ろよ。俺もう腹ペコなんだ」
晴はしきりに顔をこすりながら、それでも玄也に合わせる。
玄也はまた岩坂父娘の方に向き直った。
「あ、自己紹介が遅れました、僕は市師玄也と言います。大学生です。家は宮町の盛把稲荷神社です」
「あっ」
穂波がいきなり声を上げた。「どこかで見たことあると思ってたら……君、猫稲荷さんの」
「ああ、僕をお見かけでしたか。時々僕も社務所にいますからね。そうです、その猫稲荷が僕の家です」
玄也はにっこり笑いながら、穂波の手から幸成の荷物を受け取る。
穂波の方も、玄也の身元がわかったので安心したようだった。
「でも意外。どうやって幸成くんと友だちになったの?」
「ああ、それはそのうち幸成さんから聞いてください」
丸投げされた幸成は、いっ? という表情を浮かべたが、玄也は構わず幸成を追い立てた。
「それじゃすみません、お先に失礼します」
慌しく車に駆け込んだときにはもう、晴は半分うとうとしていた。
玄也はエンジンをかけながら後部座席の幸成に言う。
「とにかくウチに帰ろ。晴くん、ちょっとヤバい状態なんだ。さっきのアレ、幸成さんも見たでしょ?」
「いや、さっきのアレって……アレは一体なんだったんだ?」
幸成の喉が鳴った。
玄也は長いため息をつく。
「それについてもね、ウチに帰ってちゃんと説明するから。とりあえず幸成さん、当分ウチの杜から出られないと思っといて」
稲荷に帰りつくと、すぐに宮司が出迎えてくれた。
「無事だったかい? 玄也、胡摩さんも……莫奇さまはどうされたんだね?」
完全に熟睡してしまっている晴を担ぎ出し、玄也は応える。
「大丈夫、眠ってるだけ」
「それじゃあ、やっぱり朱狐が出たのかね? 莫奇さまは朱狐を?」
宮司のその言葉に、玄也はぎょっと目を見張った。
「ちょっ、おじいちゃん、なんで朱狐が出たって……」
「いや、眷属さんたちがひどく騒いでおいでだったし、私も妙に嫌な感じがして……昔、朱狐がこの杜にまで来たときのことを思い出してしまってね」
「朱狐が、ウチにまで来たって?」
玄也は愕然と声を上げた。「いつ? いつ朱狐が来たの? それって僕を狙って来たってこと?」
「もちろんそうだと思うよ、大白狐さまがずいぶんとお怒りになっていたからね」
宮司がうなずく。「ただ、お前はまだ本当に小さかったから、覚えていないんだろう」
目を見開いたまま、玄也は固まってしまった。
まさか……まさか本当に、僕も狙われていただなんて……しかも、そんな小さな頃から。
「とにかく中へ。さ、胡摩さんも。ケガの具合はどうですか? 痛みませんか?」
「あ、大丈夫です。ご心配おかけしまして」
答える幸成の後から、玄也は呆然としたまま晴を担いで家に入った。
宮司が居間に夏蒲団を敷いてくれて、晴を寝かした。
本当に完全な熟睡状態だ。蹴飛ばしても起きそうにない。その様子を、幸成が不思議そうな顔つきでながめている。
「幸成さん、とりあえずご飯にしよ? 骨折れてても普通のご飯食べられるんでしょ?」
「あ、ああ」
うなずく幸成に、玄也は片眉を上げた。
「いろいろ、訊きたいことがあるのはわかってるけど、僕も正直、今日はいろいろショックを受けてんだ。ちょっと考える時間が欲しいんだよね。ま、説明はできる限りするから」
宮司は、居間のちゃぶ台の上に料理を並べてくれた。
「胡摩さんは、何か食べられないものはお有りですか?」
「え、いえ、特にないです」
応える幸成に、玄也は横目で視線を送る。
「じゃ、僕の好みに合わせてもらって大丈夫だね。僕、めちゃくちゃ好き嫌い多いから」
「玄也はお肉が一切駄目なんですよ」
苦笑する宮司に、幸成はちょっと目を丸くした。
「肉がダメって……ホントに?」
「牛豚鶏、全部ダメ。口に入れると全部吐いちゃうんだ。魚もモノによってはダメ。ハンバーグやウィンナーなんかもほぼ全滅。ウチじゃ動物性タンパク質は卵で我慢して」
呆気にとられた幸成は、それでこいつ、こんなにひょろひょろの薄っぺらい体型なのかなと思う。実際、背は玄也の方がかなり高いが、体重は筋肉質な幸成の方がずっと重そうだった。
「莫奇さまも一緒に食べられればよかったのですがねえ」
宮司の言葉に、玄也は熟睡している晴を一瞥し、いただきますと両手を合わせた。
「いいじゃん放っておけば。だいたい、稲荷に獏が寝転がってること自体が間違ってんだから、ご飯の心配までしてやんなくったって」
「玄也、まったくお前は……いましがた、莫奇さまに朱狐から守っていただいたんじゃないのかね?」
「僕じゃないよ、危なかったのは幸成さん」
呆れたように言う宮司に玄也が応えたのと、幸成がビクッと身体を揺らしたのが同時だった。
「あ、すみません、ちょっと失礼」
ジーンズのポケットから携帯を取り出しながら、幸成が立ち上がる。
着信画面を確認して一瞬、うっ、と言うような表情を浮かべ、幸成は縁側へと出て行き後ろ手で障子を閉めた。
なんだろ、警察……幸成さんの職場からかな、と思った玄也は、聞こえてきた会話に思わずニイッと笑ってしまった。
『幸成くん、具合はどう? ご飯は? 猫稲荷さんでご馳走になってるの?』
「あ、はい、あの、いま丁度食事を……」
相手は、あの病院で会った岩坂警部の娘、穂波だった。
『じゃ、そっちの心配はないわね。あ、でも幸成くん、病院で手続きしてなかったでしょ? 事故扱いだから加害者が治療費払うって、手続きは波多野の小父さまがしてくれるそうだから。小父さま、弁護士の仕事はもうほとんど引退してるけど、幸成くんの面倒は自分で見ておきたいんだって。幸成くんも一度連絡入れといてね。あ、保険証はお父さんに預けてあるから……』
穂波は幸成に返答させるヒマも与えないほど、一気にまくしたてている。
幸成がなんだか冷や汗をかきながら、はあ、ええ、と曖昧に相槌をうっている姿が目に見えるようで、玄也はさらに笑ってしまう。
「玄也、全く行儀の悪い」
「だって、聞こえちゃうんだもん」
宮司に小声でたしなめられても、玄也はまだ笑っていた。
「すみません、失礼しました」
通話を終えた幸成が戻ってきた。
玄也はにやにやしながらその幸成に言った。
「幸成さん、ついでだから、いますぐそのハタノさんとかいう人に連絡しといた方がいいんじゃないの?」
「えっ?」
ぎょっとしたように見返してくる幸成に、玄也は笑いながら言った。
「悪いけどこれくらいの距離じゃ、僕、全部聞こえちゃうんだよね。幸成さんの声はもちろん、ホナミさんの声も」
幸成の顔が、さらにぎょっとする。
それはそうだろう、数メートル離れていて幸成の声が聞こえる……のはまだしも、携帯電話の通話相手、スピーカー通話でもないのに穂波の声まで聞こえてしまう……それも内容が完全にわかるまで聞こえてしまうというのは、普通ならあり得ないことだ。
けれど、玄也は平然と訊いてきた。
「それで、あのホナミさんって、幸成さんとどういう関係なの? 単に上司の娘さんっていう以上に親しげだけど、カノジョって雰囲気でもないよねえ?」
「えっ、いや、どういうって……」
幸成はうろたえると言うより、むしろ困惑の表情を浮かべた。
「その……岩坂の親父さんには、子供の頃から世話になってて……だから、必然的に穂波さんにも世話になってると言うか……」
「ふぅん」
玄也は鼻を鳴らした。「で、幸成さん自身はそういう、世話焼いてもらう関係でOKなの?」
「OKもなにも……」
幸成は苦笑する。「いまだに世話焼いてもらってて、いいんだろうかって……」
「イヤなの?」
「えっ?」
玄也の短い問いに、幸成はまるで虚を突かれた様子だ。
「イヤだとか……そうゆうのは……」
なんなんだろ、別に遠慮とかじゃないよね? まるっきり困惑しきっている様子の幸成に、玄也は片眉を上げる。
「これ玄也、人様のことを詮索するのもいい加減にしなさい」
割って入ってくれた宮司に、幸成は思わずすがるような視線を送った。
けれど宮司も、不思議な質問をしてきた。
「しかし、その方、ホナミさんとおっしゃるんですか? しかも姓はイワサカさん?」
「へっ?」
宮司の唐突な言葉に幸成の目が丸くなる。「え、ええ……あの、岩石の岩に坂道の坂、稲穂の穂に波間の波です」
律儀に応える幸成に、宮司がしきりにうなずいた。
「もしよければ、その穂波さんに一度、ウチに来ていただくことはできないですかね?」
「えっ、あの、なんでまた……?」
「あっ!」
さらに困惑している幸成の横で、玄也が声をあげた。
「うわ、なんで気がつかなかったんだろ、そうだよね、こんないい名前のヒト、ちょっといないよね!」
「そうなんだよ、一度試させていただく価値は充分にありそうじゃないかね?」
「しかもあの穂波さん、何度もウチへお参りしてくださってるくらいだから、何かしらご縁はあるんじゃないかな」
宮司はまたさかんにうなずき、玄也もひどく嬉しそうにうなずき返した。幸成だけが、訳がわからず困ったように玄也と宮司の顔を見比べている。
玄也は、笑いながら幸成に説明した。
「つまりね、岩坂穂波さんって、ものすごくお狐さんと相性がいい名前なんだ。境目の依り岩に稲穂の波だなんて……大白狐さまの依坐になってもらえるかも」
「え、お狐さんって……ヨリマシ?」
幸成はますます混乱している。「あの、本当にもう少し、俺にわかるように説明してもらえないか……?」
とりあえず食事を済ませ、それから玄也は口を開いた。
「えーとね、まず要点だけ先に言うね」
うなずく幸成に玄也は指を立てる。
「ひとつめ、いまここで眠ってる晴くんは、神様です」
「へっ?」
幸成の声を玄也は無視する。
「神様である晴くんにはウチのような稲荷の、いわゆるお狐さんを食ってしまえる、つまり消滅させる能力があります。そのため彼は、ある狐の一派から命を狙われています」
口を開いたまま幸成は目を丸くしている。
「そしてふたつめ、僕も幸成さんも身体はヒトですが、中身は霊獣です。霊獣というのは、例えばお狐さんたちと同じ、神様の世界の生きものです。つまり、フツウの人間ではありません」
最早幸成は声を上げることもできずに固まっている。
玄也は三本目の指を立てた。
「みっつめ、霊獣である僕らにも、ある特殊な能力があります。その能力を神様である晴くんは欲しがっていますが、僕らが晴くんに協力すると、晴くんの命を狙っている狐の一派にとってはマズイことになるので、僕らまで襲われてしまうという事態になっています。ちなみに、この鎮守の杜の中に居る限りは安全です」
驚きを通り越して、もう間が抜けたようにぽかんとしてしまっている幸成に、玄也は一切構わず言葉を続ける。
「次に問題点。まず、幸成さんは自分の中身が霊獣であるという自覚がない。つまり、現時点ではその特殊な能力が使えません。だから晴くんは焦っている」
そこで玄也は顔をしかめた。
「そして僕の問題点。僕はこの稲荷神社でお狐さんたちに育ててもらいました。だから、狐の天敵である晴くんに協力なんかしたくない。なのに朱狐は……その晴くんの命を狙ってる狐の一派は、僕まで狙ってるらしいってことです」
長々と息を吐き、玄也は本当にうんざりしたように付け加えた。
「ホント、大迷惑だよ。僕はこの稲荷を離れる気も、お狐さんを手にかける気も、これっぽっちもないってのに」
玄也は自分のとがった顎に手をやり、片眉を上げて幸成を見やる。
幸成はなんだかもう、真っ白、という顔だ。
「んじゃ、ここからは幸成さんの質問タイム、の予定だったけど、なんかもうナニ訊いていいのかわかんないって状態かな」
苦笑しながら玄也は首をひねった。「んー、でもとりあえず、晴くんがフツウのヒトじゃないってことは、もう理解してるよね? 幸成さんも見たんだもんね、彼のおデコに目が開いてたのを」
ようやく、幸成の喉が鳴った。
「じゃあ……アレは、俺の見間違いじゃ、なかったのか……?」
振り返った幸成の視線の先では、晴が大の字になって熟睡している。その額にはもちろん、あの目玉が開いていた形跡すら全くない。
「見たまんまだよ」
玄也はまた片眉を上げた。「まあ、まだ覚醒してない幸成さんに、ナニがどれだけ見えたかはわかんないけど……間違いなく晴くんには目が三つあるし、その三つ目の晴くんが、あの看護師さんに取り憑いていた狐を引っ張り出して食ったことも事実」
「狐……? アレが……? あの、赤っぽいもやっとしたものが……?」
呆然とした幸成のつぶやきに、玄也は感心したようにうなずいた。
「あ、その程度には見えてたんだ? さすが狛犬さん」
「その、コマイヌって……?」
むしろ不安げに問い返す幸成に、玄也はまた苦笑した。
「あ、それ言ってなかったね。さっき言った通り、僕らはヒトの身体の中に霊獣のタマシイが入ってるっていう、ものすごく特殊な生きものなんだ。で、幸成さんにはなんのタマシイが入ってるかっていうと、狛犬なの」
幸成が、またぽかんと口を開けた。
「ちなみに僕は獅子ね」
くしゃくしゃに跳ねた自分の巻き毛をいじりながら、玄也は続ける。
「狛犬の方がメジャーでしょ? ウチは置いてないけど、他の神社とかだとよく参道に置いてあるからね、狛犬さんの像って。ホントはアレ、狛犬二体じゃなくて、獅子と狛犬で一対なんだ」
「え、いや、でも、あの」
うろたえたように幸成が口を開く。「狛犬って……想像上の生きものじゃ……?」
「そうだよ、だって神様の世界の生きものなんだから、本来ヒトの世には存在してないもん」
玄也がまた苦笑する。「それに僕の獅子だって、アフリカにいるライオンとは全く別物だよ? 自分じゃわかんないんだけど僕って黒獅子らしくて、全身真っ黒なんだって。それにホント、獅子って言うよりか」
そう言って、玄也はうつむいて眼鏡を外した。
そして顔を上げながらニッと笑う。
「どっちかって言うと化け猫みたいでしょ?」
「うわっ!」
幸成は飛び上がりそうになった。
目の前に突き出された玄也の顔……そのふたつの目が、黄色く輝いていた。
しかも、そのわずかに緑を帯びた黄色い目玉の真ん中では、黒い瞳が細く閉じられている。それは……本当にどう見ても『猫の目』だった。
「僕の目って、明るいほど雰囲気出るんだよねえ」
玄也は口をゆがめながら笑った。
そして天井の照明に向かって顔を上げ、しばらくして幸成に視線を戻す。その瞳は、さらに細く針のように細められていた。
「まあでも、便利は便利だよ? 真っ暗闇でも赤外線スコープ着けてるみたいによく見えるし。普通の状態でも、あまりにもよく見えすぎるんで抑えるために眼鏡かけてるくらいだし。それにさっきの携帯じゃないけど、耳も鼻も文字通り動物並みによく利くしね」
言いながら、ゆっくりと瞬きした玄也の目がヒトの目に戻った。
眼鏡をかけ直しながら、玄也はニイッと笑う。
「幸成さんも覚醒したら多分、おデコに角が一本生えてくると思うよ?」
「えぇっ?」
思わず額に手を当ててしまった幸成に、玄也は声を上げて笑った。
「狛犬の姿はね、体白色にして直毛、額に一角、って相場が決まってるらしいよ?」