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11.獣群

 のしっ、と何かが胸の上に投げ出され、玄也はうめいて目を開けた。


 部屋は明るく気持ちのいい風が流れ込んできていて、ああ障子が開いてるんだ、それに完全に夜も明けて日が昇って……ぼんやりとそう思い、玄也は頭を動かして思わず声を上げた。

「いっ?」

 目の前に、晴の顔があった。

 晴は邪気のかけらもないような顔で熟睡している。さっき玄也の胸の上に投げ出されたものは晴の腕だった。


「ああ、起きたか」

 幸成の声がして、ぎこちなく動かした玄也の視線の先で笑っている。

「気分はどうだ? よく眠れていたようだが」

 寝巻き姿のまま縁側に腰を下ろしていた幸成が、部屋に戻ってきた。そしていまだに熟睡している晴の姿に苦笑を浮かべる。


「いや、晴がどうしてもと言ってな」

 首を掻きながら幸成の苦笑が深くなった。「まあ、警察の夜勤の仮眠もこんなもんだしな。さすがに日が昇ってくると男三人じゃ暑苦しくなってきて、さっき縁側を開けたんだが」


 部屋の中には、晴も幸成も自分で持ってきたのだろう、布団がもう二組敷かれていたが、全部ぴったりとくっつけて敷かれていたせいですでにぐしゃぐしゃ、部屋中布団だらけ状態になっている。

 玄也はまたちらりと晴に視線を送り、それからバツの悪そうな顔をしてもそっと身体を起こした。


 なんなんだよ、全く。

 くしゃくしゃに跳ねた巻き毛頭を掻きながら、玄也はうんざりとため息をついた。

 その様子に、幸成がまた困ったような苦笑を送ってくる。

「ま、諦めろ。晴はお前も俺も、放っておくなんて気はこれっぽっちもないようだ」

「でも、僕は……」


 盛大に顔をしかめた玄也が口を開いたとたん、篠がぱたぱたと足音を響かせてやってきた。

「あらまあ、お部屋にいないと思ったらやっぱり」

 篠はとんっと膝をつくなり、晴の身体をゆすった。

「晴ちゃま、ご飯ですよ。起きてください」

 そして顔を上げてにっこりと笑う。「玄也さんも幸成さんもご飯ですよ。顔を洗って着替えてくださいね」


 ひょいっと、八津女も顔を出した。

「ようやく起きたね。お前さんたち、今日は大目に見たが、明日からはちゃんと朝のお務めもやってもらうからね」

「あ、申し訳ありません」

 思わず玄也は両手をついてしまう。

 つくづく、玄也は神社育ちなのだ。


 一人ではまだ袴を身に着けられない幸成の着替えを手伝ってやり、朝食の席についた頃にはもう、玄也はすっかり毒気を抜かれてしまっていた。

 晴は朝からもりもりと食欲をみせ、おかわりを二回もしている。

 玄也はもそもそと食事をとりながら思う。しばらく何も食べられないかと思ったけど……結構食べられるもんだな。当たり前のように篠が用意してくれた肉も魚もないそのメニューを、玄也は残さず食べ終えた。


「玄也、幸成、俺の領地を案内してやる! 行こうぜ!」

 朝食が終わるなり、晴が勢いよく立ち上がる。

 けれど八津女がぴしりと言った。

「晴、お前さん宿題が溜まってるだろ? そっちを先に片付けてからでないと駄目だよ」

「えーっ」


 頬をふくらませる晴に、玄也も幸成も眉を上げた。

「宿題って……」

「俺、高校生なんだ」

 晴は口をとがらせて言う。「『お山』から降りられねえから学校へは通えねえけど、オンラインで授業受けてんだ。中学もちゃんと卒業してるぞ」

「へえぇー」


 考えてみれば『神様』だとは言え、ヒトの身体を持つ晴には確かに戸籍も住民票もあるはずだ。なるほど、だからこの『お山』に光ファイバーと無線LANがしっかり設置されていたわけか。


「ネットもゲームも宿題が終わるまでお預けだよ」

 八津女に追い討ちをかけられて、晴は口をとがらせたままうなだれる。

「宿題、溜まってる分全部なんて、今日中には終わらねえよ……」

「自業自得だろうがね」

 八津女が横目でにらむ。「とにかく半分でもいいから片付けておしまい。それなら、午後には玄也と幸成を案内してやれるだろ」

「はぁーい」


 不承不承に晴は腰を上げる。

「玄也、幸成、後でな。領地を回って、夜はゲームやろうぜ。コントローラーも三つあんだけど、ばあちゃんと篠じゃ相手になんなくってな」

 まったく、このチビ神様ときたらすっかり俗世にまみれているようだ。


 片眉を上げて見送る玄也と、笑いを噛み殺して肩を揺らしている幸成に、八津女が振り返った。

「幸成、お前さんは着付けと作法の練習だよ。篠が教えてくれるからね。神使たるもの袴くらい自分で身につけられるようになってもらわないと」

「あ、はい」

 幸成は苦笑しながら頭を掻いた。


「玄也」

 呼ばれて玄也は無意識に居住まいを正す。

「お前さんは私を手伝っておくれ。全く、晴ときたら宿題だけじゃなく仕事も溜めちまってるんでね」

「はい、わかりました」

 応えてしまってから、玄也はひそかにため息をもらした。


 八津女に割り当てられた仕事は、玄也がいつも稲荷でしている仕事と大差なかった。まあ神社なんだから基本的に同じだよなと、奉納された絵馬を片付けたり、お守りやお札をを整理したり、玄也は慣れた様子で進めていく。


 獏をご神体とするこの御嘉見神社は、奥深い山の上にあるせいも手伝ってか、一般参拝者が訪れることができる日が限定されている。おかげで参拝日以外は社務所に詰めている必要もなく、だからこんなに大きな神社なのに、晴……ご神体を含めて三名でやっていられるんだな、と玄也は思った。


 となりで祈祷願い書を整理していた八津女が何気なく口を開いた。

「晴は、できるだけ『普通』に育てることにしてるんだよ」

「え、あ、はい……」

 突然の言葉に戸惑って曖昧にうなずく玄也に構わず、八津女は続ける。

「それがあの子の父親の方針でね。学校教育を受けさせることもそうなんだが……まあ、しかしあれは晴のことをさんざん甘やかしてくれてしまって」

 八津女は深々とため息をつく。「おかげで叱るのはいつも私の役目だ」


 なんと応えていいのかわからず、玄也はまた曖昧にうなずく。

「本当に……あの子の父親は、あの子を舐めるように可愛がって育てた。だから……父親を目の前で殺されたとき……晴の取り乱しようは信じられないほどで……気がふれてしまうんじゃないかとこちらが恐れてしまうほどだったよ……」


 八津女さまは、なんでこんな話をするんだろう。

 玄也は身を硬くする。僕が、親に虐待されていたことも、すでに聞いて知っているはずなのに。そしてまさにその記憶を、昨夜完全に思い出したばかりだということも……。


「怒りや憎しみは、人の目を曇らせる」

 ぽつん、と八津女はつぶやいた。

「神と言えど……晴はヒトの身体を持ち、ヒトの心を持っている。だからこそ……私はそれが恐ろしい」

 手を止め、息を止めて、八津女はぞくりと身体を震わせた。


「玄也」

 呼ばれて、玄也はまた無意識に居住まいを正して八津女に向き直った。

「お前さんにはどれだけ非道いことを言っているか、私も充分わかっている。けれど……それでも私は、お前さんのその曇りのない目が心底有難い」


 わずかに目を見張り、玄也はじっと八津女を見つめた。

 八津女もじっと玄也を見つめ返す。

「晴だけじゃない、幸成も……自分の内に渦巻いている怒りや憎しみを、そのまま朱狐にぶつけるだろう。そうすることで……私は多くの……しかも大切ななにかを、あの子たちが見失ってしまうのではないかと、恐れているのだよ」

 瞬きすることすら忘れて、玄也は八津女を見つめていた。


 その八津女がゆっくりと目を閉じ、そしてまたゆっくりと開いた。

「玄也、お前さんが大白狐さまの養い子になったいきさつは、稲荷の宮司どのから電話で聞いたよ。お前さんはお狐さんに育てられ、朱狐を憎む(すべ)を持たない。怒りも憎しみも……それをぶつける相手すら得られなかったお前さんがどれほどに辛いか、私には想像もつかない。けれど、だからこそ、お前さんの目は決して憎しみに曇ることはない。それがどれだけ有難いことか……」


 ぎょっと、玄也は目を見張って腰を浮かしかけた。

 八津女が両手をついて玄也に頭を下げたのだ。

「どうか、晴が……我がご神体が道を(あやま)たぬよう……獅子どののその曇りのない目で、見つめ続けてやってくださいまし。どうかお願い申し上げます」


「八津女さま……」

 むしろ脱力したように、玄也はへたっと腰を落とした。

 僕は……いや、僕は……だから……。

 何か言わなければと思うのだが、上手く言葉が出てこない。


 呆然としている玄也に、八津女はまたゆっくりと顔を上げて視線を送った。

「こんなことを、獏の養い親が言ってはいけないことはわかっている。けれど私はね……」

 八津女はささやいた。「やはり人に『夢』は必要だと思っているんだよ。例えそれが『悪夢』に変わることがあるのだとしても、いつかは『現実』と向き合わなければならないのだとしても……『夢』を見なければ生きていけない人がこの世には大勢居る。そのことを玄也、お前さんは誰よりもよくわかっているだろう?」


 ふいに、ぽろっ……と、見つめる玄也の目から涙がこぼれた。

 慌てて拳で拭い、玄也は歯を食いしばって小さくうなずいた。


 その様子を見つめる八津女の口元が、淡くほころんだ。

「どうにもこうにも腹に据えかねることがあったらね」

 八津女がいっそう低くささやく。「構やしないから晴にぶつけておしまい。八つ当たりだろうがなんだろうが、一応神様なんだからね、それくらいは報いてもらってもいいだろうさ。文字通り、バチなんざ当たらないよ」


 一瞬、ぽかんと見返した玄也は、にんまりと片目をつぶって見せる八津女に思わずぷっと吹き出してしまった。




 昼過ぎになって、晴はなんとかある程度宿題を片付けたらしく玄也と幸成を呼びに来た。

「行こうぜ、俺の領地を案内してやる」

 四方に広がる山々……その見渡す限りが莫奇の領地なのだと言う。

「そんで、帰ってきたらゲームやろうぜ! こないだ買ったばっかでまだやってないのがあるんだ!」


「夜はまた勉強だよ」

 しれっと言った玄也に、晴の目が丸くなった。

「八津女さまと約束したんだ」

 玄也は片眉を上げる。「忘れてるみたいだけど、僕は現役の大学生だからね。それに高校時代だってはっきり言って成績はめちゃくちゃよかったの。その話をしたら、八津女さまがぜひ晴の勉強を見てやってくれって言われて」

「えぇぇー?」


 晴の顔が一気にげんなりと色を失った。

 けれど玄也は一向に構わず、それどころかにんまりと笑って見せる。

「僕がここに居る間はみっちりお勉強に付き合ってあげるから、そのつもりで」

 ますます肩を落とす晴に、幸成がくっくっと喉を鳴らして笑った。


 晴は一瞬口をとがらせ、けれどすぐにはーっと大きく息を吐いた。

「ま、いいけどさ。玄也が元気になったから」

 ニッと晴は笑う。「ゆうべはあれからよく眠れたようだし、飯も食えたしな」


 玄也は舌打ちしてしまいそうになったのを堪えた。

 ったく、無邪気っていうのは同時に無神経ってことか。せっかく僕がフツウにしてんのに、わざわざ蒸し返すんじゃないよ。

「どの道、僕は肉は食べられないけどね」

 顎を逸らして玄也はまた片眉を上げる。「口に入れたらまた全部、吐いちゃうから。多分一生、このまんまだね」


 晴が眉を寄せる。

「玄也、俺は……」

 ふんっ、と鼻を鳴らして玄也は晴から視線を逸らした。気まずかろうがなんだろうが、知るもんか。


「で、それで」

 肩をすくめて苦笑しながら声をあげたのは幸成だった。

「行くのか? 今から晴の領地を回りに」


 しょげたように視線を落としている晴に、玄也はうんざりと息を吐き、そして無言で腰を上げる。玄也が立ち上がっても晴はつくねんと座り込んだままで、仕方なく玄也は吐きだすように言ってやる。

「行くんだろ、今から」

 上げた晴の顔が、ぱあっと輝く。

「うん!」


 ったく、晴はわかりやす過ぎるよ。これで『神様』なんだから、八津女さまが心配されるのも当然だ。

 うんざりとまたため息をつく玄也に、晴はまたちらっと口をとがらせた。

「玄也はわかりにくいんだよ。ちゃんと言ってくれねえと……せめて幸成みたいに尻尾振ってくれたら、俺もわかりやすいんだけど」


「えっ?」

 玄也だけでなく幸成本人もぎょっと声を上げた。

「尻尾?」

「尻尾って……もしかして、僕らの獣の姿、晴は見えてんの?」

「見えてるぞ、もちろん」

 むしろ不思議そうに晴は応える。「なんだ、お前らは見えてねえのか?」


「獏の目を開いてなくても、見えてんの?」

 重ねて問う玄也に、晴はまた不思議そうにうなずく。

「うん、ヒトの姿に重なってうっすらって感じだけどな」

「僕ってホントに黒いんだ?」

 思わず玄也は訊いてしまう。


「うん、玄也はホントに真っ黒だ。毛足がくるくる長くて、目だけが黄色い。ライオンっていうよか、巻き毛の黒豹って感じだぞ」

 晴が嬉しそうに応える。

 そしてすぐ、幸成にも視線を送る。

「幸成は真っ白だ。ふさふさの毛並みで耳がピンと立ってて、額に角もある。尻尾が太くて、犬っていうか狼みたいな感じだな」


「へえー」

 玄也も幸成も、そろって感嘆の声をあげた。

「で、幸成さんは、無意識のうちに尻尾振っちゃってるんだ?」

 横目で視線を送る玄也に、幸成はバツの悪そうな顔をして自分の尻を触った。

 その様子に、玄也の口元も思わずゆるんでしまう。


「でも、それじゃあ」

 幸成が珍しく口をとがらせた。「晴はどんな姿をしてるんだ? 獏ってどういう獣なんだ?」

「やっぱ東照宮の彫刻みたいに、象の鼻に熊の身体に虎の脚、って感じなの?」

 玄也の言葉に、晴はへの字に口を曲げる。

「ちげーよ、俺はあんな寄せ集めなんかじゃなくって……」

 言いかけて晴がハッとする。「そうだ、もしかしたらお前らも、自分で自分の姿を見られるかもしれねえぞ?」

「えっ?」


「俺、鏡で見ても自分の獣の姿は見えねえんだ。水に映したときだけ見える。それもなんでか水道の水はダメでさ。だからお前らももしかして……」

 晴は勢いよく立ち上がり、鳥居の向こうに見える峰を指差す。

「あっちに大きな池がある。俺も初めて自分の姿を見たのはその池だ。あそこならお前らも見えるかもしれねえ」


 顔を見合わせる玄也と幸成の腕を、晴はつかんだ。

「行こうぜ、俺たちならひとっ走りだ!」

 つかまれた腕をひっぱられ、玄也も幸成も思わず駆け出した。

 縁側から飛び降り、裸足のまま鳥居をくぐって山道に分け入る。


 晴は本当に嬉しそうだ。本当に、ただもう嬉しくて嬉しくてたまらない、その気持ちが先頭を切って走る小さな身体からあふれ出している。


 その背中を追いながら、玄也は理解した。

 結局のところ、そういうことなんだ。


 晴は主だの眷属だのそういう言葉で言うけれど……結局のところこのチビ神様は、ただこうやって一緒に野山を駆け回ったり、一緒にゲームをしたり……要するに遊んでくれる相手が欲しかっただけなんだ。それ以上のことなんか、なーんにも考えてなさそうだもんな。

 眷属っていうより、僕らは子守か。


 まあ実際、本気で走る獏に併走できるのは、獅子と狛犬だけだろうし。

 この世にたった三人……いや、神の世とヒトの世、全てをあわせてもたったの三人。それが僕ら『サカイの者』だ。神の世の魂を宿し、ヒトの世に身体を得て、ふたつの世の境目で生きる者。


 耳元で風が鳴る。

 飛ぶように駆け抜ける三人に驚いた鳥や小さな生きものたちが一斉に逃げ出していく。

 全速力で……『獣』を開いたまま全速力でこれだけの距離を走るのは、玄也にとっては生まれて初めてだった。誰の目も気にせず、それでいて目の前には晴、並びには幸成がいて……。


 夏の日差しの下、黄色く見開かれた玄也の目、その瞳は針のように細く絞られ、ものすごいスピードで後ろへ流れていく木々の葉っぱの一枚一枚までもが鮮明に映り込んでいく。目だけではない、耳も鼻も……ただ全力で駆けるだけであらゆる感覚が研ぎ澄まされ、身体の内から抑えようもなくたまらない高揚感と開放感があふれ出してくる。


 晴の笑い声が響く。

 幸成も笑っている。

 ぎゅっと奥歯を噛みしめた玄也の口元もひくついてしまう。

 ああもう、ちくしょう。


 高く舞い上がるように岩場を飛び越え、木々の間に水面のきらめきが見えた瞬間、玄也もついに声を上げて笑った。

 三匹の獣は、笑いながら駆けて行った。


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― 新着の感想 ―
めちゃめちゃ面白かった! 朱狐との闘いもまだまだ見たい!そんな感じ
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