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10.悪夢

※幼い子どもが虐待されるエピソードが出てきます。

※残虐な表現があるため一部伏字にしてあります。

ご注意ください。

 玄也の悲鳴が響き渡ったのは、その日の深夜だった。


 隣室に眠っていた幸成が真っ先に駆けつけると、玄也は布団の上に突っ伏すように身体を折り曲げ、全身を震わせながら激しく喘いでいた。

「どうした玄也、大丈夫か?」

「玄也、どうした!」

 晴も駆け込んできた。さらに足音が聞こえ、八津女と篠も駆けつけてきた。


 全身を震わせながらようやくわずかに顔を上げた玄也の目が、黄色く光っている。口を手で押さえ、玄也は必死に吐き気と戦っていた。

 口の中いっぱいに広がる血の味は夢とは思えないほど生々しく、その匂いまでもが鼻の奥にこびりついている。


 夢の内容は覚えていない。

 ただ小さな赤い炎が恐くて……心臓が締め上げられてしまいそうなほどの恐怖心と、血の味、そしてぐにゃりとした肉の感触だけが口に残っている。

 いつものことだ……もう何年も忘れていたけれど……幼かった頃、何度も何度もうなされた『悪夢』……。


「玄也、お前が食ってくれって言えば、俺はいますぐに食ってやるぞ。お前のその『夢』を」

 身を乗り出してのぞきこむ晴に、玄也は冷たい汗を滴らせているその顔を横に振った。

「玄也……」

 不安と困惑をない交ぜにしたような顔で、むしろ晴の方が泣き出してしまいそうだ。


「とにかく汗を拭いましょう」

 篠のやわらかな声が響いた。「びっしょりじゃないですか。さあさ、タオルを絞ってきましたからね、これで汗を拭いて」

 玄也が震える手を伸ばす前に、晴が篠から絞ったタオルを奪った。そしてかいがいしく玄也の顔を拭いてやる。

「お風呂、もう一度わかした方がいいですね。本当に汗びっしょりで」


「……だい、じょうぶ、です」

 篠の声に、玄也がようやく応えた。

「全然大丈夫そうじゃねえぞ?」

 そう言う晴の手を押し戻し、玄也は大きく息を吐いた。まだ耳の中でうるさいほど心臓の音が鳴り響いている。

「……こんなこと、本当に、久しぶりで……」

 うめくように玄也は言った。「本当に、子どもの頃、以来で……」


「恐いか?」

 唐突な幸成の声に、玄也はぎょっと目を見張って見返した。

 幸成は布団の脇に膝を突き、じっと玄也を見つめている。

「俺みたいに……晴に『夢』を食ってもらうことで、全部思い出してしまうことが恐いか?」


 玄也の唇がわなないた。

 恐いかって……そんなこと……そんなこと!


 玄也の脳裏にはあの××××××××××顔……幸成の母の顔が浮かんでいた。××××××××××我が子の名を呼びながらゆっくりと死の淵に落ちていくあの姿。


 そりゃ幸成さんだってあんなお母さんを思い出すのは恐かったに違いない。お母さんが死んでいくのを、何もできずただ見つめるしかなかった幸成さんは、どんなに辛く苦しかっただろう。


 でも僕の場合は……僕の場合は、全く違うんだ。

 だって……だって、幸成さんはお母さんに愛されてたじゃないか。思い出すことでそれを確認できたじゃないか……!


「玄也」

 口を開いたのは八津女だった。

「お前さんには酷なことだとはわかっている。だがね玄也、そのときが来たんだ」


 じっと見つめてくる八津女の顔を、玄也も思わず見つめ返した。

「苦しみを受け入れることは辛いだろう。けれど、いまのお前さんにはもうそれができるはずだ」

 八津女は静かに言う。「お前さんはお前さんのその『夢』から、本当の意味で目覚めるときが来たんだよ」


 玄也の身体が震えた。

 わかってる。

 僕だってわかってるんだ。

 僕が見ているのは、本当にただの『夢』だっていうことくらい。


 でもその『夢』を失って、全てを思い出してしまったら……僕には『現実』しか残らない。もう二度と……もしかしたら僕は本当は愛されていたかもしれない、と夢見ることはできなくなってしまう。僕の『夢』が裏返しになって『悪夢』に変わることはなくなっても……親に愛されず虐待されたという『現実』だけが、僕に突きつけられたまま残るんだ……。


 覚えているはずがないのに。

 たった二歳で、覚えているはずがないんだ。だから、僕は夢見ることができた。その夢に救いを求めて何が悪い。その夢がこうやってたまに裏返って僕を苦しめることがあっても……受け入れようのない、救いようのない『現実』に追い詰められるより、その方がいいに決まってるじゃないか……。

 そう、まさにあのとき朱狐が言ったように……。


「玄也」

 晴が泣き出しそうな顔で玄也を見つめている。

「俺は、夢の中身を一切見なくても食えるんだ」


 その言葉に、玄也は思わず目を見張った。晴は必死の様子で続ける。

「あのとき、幸成の夢を食ったときは、九尾を食った後で眠くて上手く集中できなくて……だからぽろぽろこぼしちまったんだけど、今なら大丈夫だ。俺だけじゃねえ、誰にもお前の夢はわからないまま食えるから……だから」

 本当に今にも泣き出してしまいそうに顔をゆがめたまま、晴は玄也の腕をにぎりしめ、必死に訴えるように見つめている。

「食わせてくれ。な、そしたらお前はもう二度と、朱狐の夢に捕まることはなくなるだろ?」


 晴のその言葉に……玄也はまたどうしようもなく怒りがこみ上げてきた。

 そういう問題かよ!

 晴はなんにもわかってない……!


 生まれてすぐお母さんを亡くしているとは言え、晴がお父さんや大伯母の八津女さま、それに乳母の篠さんにどれだけ愛されて育ったか、一目瞭然だ。無邪気で素直で、眷属の僕が主の自分を嫌うだなんてこれっぽっちも思ってなくて……。


 そんな晴に、僕が何を恐れ何に怯え、何に苦しんでいるかなんて、絶対にわかるはずがないんだ。

 なのに、泣く。

 それは僕のためか?

 なんにもわかってないくせに、僕のためだと泣いてみせてそれがどうだって言うんだ?


「玄也……」

「食えよ」

 玄也はうめいた。「食えばいいじゃないか、僕の『夢』を!」

「玄也、俺は……」

「食えって言ってるだろ!」


 玄也はいきなり晴の右手をつかむと、自分の額に押し当てた。

「さあ、とっとと食っちまえよ!」

 見開いた晴の両目の間に、すうっと獏の目が開いた。

 そのとたん、玄也は自分の頭の中に晴の手がずるっと入ってきたのを感じた。




『……ったく、薄気味の悪ィ……お前が産んだんだろうが!』

『あたしだって産みたくて産んだんじゃないわよ!』

 幼い玄也が見つめていたのは、自分の足先だった。

 小さく細く、骨さえ浮き出している、幼い裸足の指先。その指先にさえ、赤くただれた小さな丸い火傷の痕があった。


『泣きも笑いもしねえで……生まれたときから歯がいっぱい生えてるなんて、アリなのかよ?』

 男が吐き捨てるように言う。『しかもこいつ、夜中に目が黄色く光りやがるんだぞ? 本当に人間の子なのか?』

『知らないわよ! あたしのせいじゃないんだから!』

『俺のせいでもないだろ、だいたい、まじで俺の子なのかよ? 他の男の……』


 ヒステリックな女の叫び声。

 食器か何かが割れる音。

 二人がわめきあっているが、玄也はもう言葉として聞いていなかった。ただじっと、汚れて腐臭の漂うカーペットの上に身体を丸めて横たわっている。周りはモノがあふれて、足の踏み場もないような状態だ。


 やがて声が静まり、煙草の匂いがした。

 そのとたん、玄也の身体がビクッと揺れた。

『もう、こんな子、どっかに捨ててきてよ』

 うんざりとした女の声。『どうせ、役所へ届けるとか全然してないし』


『捨てたって、こんな薄気味悪いガキ、すぐにアシがついちまうんじゃないのか?』

『さあ? 誰かに見せたワケじゃないから平気じゃない?』

 強い煙草の匂いに、玄也の胸がむかむかしている。

 そして、足先を見つめたままいっそう身体を硬くした。


『いっそ、××××××××××?』

 玄也の身体が、またビクッと揺れる。

『ふん、そうするか……あの薄気味悪い化け猫みたいな目を××××××××××ちょっとはマシだよな』

 大きな手が、玄也の細い首をつかんだ。


 反射的にぎゅっと目を閉じ、顔を背ける玄也の鼻先に、強烈に煙草が匂っている。

『このガキ!』

 首をつかまれたまま身体を振り回さんばかりに揺すられ、玄也は苦しさに喘ぐ。細い小さな手で、必死に首をつかむ手を掻きむしった。

『この……! 化け猫が爪を出しやがった!』


 身体を放り投げられ、なにかの角にぶつかった玄也の右肩がバキッと音を立てた。

 悲鳴を上げた玄也の口を、さっきの大きな手がふさぐ。

『このクソガキがあ!』

『なにやってんのよ、もう、あたしがやるわよ! 煙草貸して!』


 その瞬間、玄也の『獣』が開いた。

 カッと見開く黄色い目に、赤い炎の先端が映る。

 顔を背けようとする玄也、それを押さえつける手。

 玄也はその手に噛み付いた。


 ××××××××××。

 男の悲鳴。

 同時に、女の悲鳴。

 口の中いっぱいに××××××××××××××××××××が広がる。

 玄也は、男の……父親の×××××××××××××××いた。




「うっ……うぇッ……!」

 こみあげてきた強烈な吐き気に、玄也は口を押さえた。


 額に当たっていた晴の手が離れる。

「玄也!」

「大丈夫か、玄也?」

 晴の声と、幸成の声。

 うつむき、玄也は必死に吐き気をこらえた。


 ばたばたと慌しい足音が響き、やがて篠の声が聞こえた。

「玄也さん、ここに吐いて」

 洗面器と絞ったタオルを押し当てられる。玄也は口を押さえたまま必死に首を振った。

「玄也、吐いておしまい」

 八津女の手が玄也の背中をさすっている。「いいから、吐くんだよ。我慢することなんかないんだから」


 それでもなお拒み続ける玄也の手首を、いきなり幸成が握った。

 幸成は有無を言わさず玄也の口からその手を引き剥がし、もう一方の手で玄也のとがった顎をつかんだかと思うと、指を二本、玄也の口に突っ込んだ。

 幸成の指に舌を押さえつけられ、堪えきれず玄也は吐いた。

 洗面器に溜まっていく胃液の()えた匂いにいっそう気持ちが悪くなり、玄也は吐いて吐いて吐き続けた。


 やがて胃の中が空っぽになり、どれだけえづいても何も吐き出せなくなってようやく玄也は全身の力を抜いた。

「落ち着いたかい?」

 八津女の声に、玄也は顔を上げることもできないまま小さくうなずき、手の甲で口を拭った。


 その玄也の目の前に、篠が水の入ったグラスを差し出してくれている。

「さ、お口をすすいで。すっきりしますよ」

 言われるままに玄也はグラスを受け取り、口をすすいで吐き出す。冷たい水の味と感触に口の中が痺れたようになり、吐き気も血の味も肉の感触も一緒に流れ出していくような気がした。


 でも……これが『現実』だ。

 僕は全部、思い出してしまった。


 吐き気は治まっても、玄也の胸の奥からはまた別のものがこみ上げてくる。

 僕にはもう、文字通り夢も希望もない。

 この現実に救いようなんかどこにもない。


 僕の親は……ただ僕を捨てるだけじゃなく、××××××××××……本当に、下手をしたら、僕は親に殺されて……。

 全身から吹き出してしまいそうなこの怒りも憎しみも、めちゃくちゃに振り回したいのに振り下ろす先すら、僕には与えられていない。憎めば憎むほど、ただ苦しみが増すだけなのだから。


 絶望だけが、玄也の全身を覆いつくす。

 この苦しみを、これから一生、背負って生きていくしかないなんて……。


「玄也ぁ……」

 晴が、泣き出した。

 玄也は全身を震わせる。

「……一人に、してくれ」

「玄也……」

「頼むから、一人にしてくれよ……!」

 うめきながら身体を折り曲げ、布団に突っ伏す玄也の周りから、静かに人の気配が消えていった。




 帰りたい。

 玄也は突っ伏したままにじむ涙を拳で拭った。


 もういい。もう、こんなことたくさんだ。僕は大白狐さまの杜へ帰る。大白狐さまのふかふかの尻尾にくるまって、もう二度と地上になんか出てこない。少しだけ横になったら、構うもんか、すぐに帰ろう。


 そう決めると、少しだけ気持ちが和らいだ。

 玄也は身体を丸めたまま布団に横たわる。鼻の奥にまだ饐えた匂いが残っていて気持ちが悪い。ずっとひきつらせていた身体のふしぶしに痛みを感じる。それでも玄也はまた、ぎゅうっと身体をちぢ込めるように丸め、たったいま鮮明に思い出してしまった救いようのない現実を拒絶しようとするかのように、全身を強張らせ奥歯を噛みしめた。


 やがて、いつの間にか玄也は眠りに落ちていた。

 ああ、この匂い……なんだっけ、大白狐さまみたいな……でも違う……。

 とろとろとまどろみながら、玄也はその懐かしいような獣の匂いと温かい感触に、強張らせていた身体から力を抜いていく。

 まどろみは深い眠りに変わり、二度と悪夢に怯えることなく、玄也はぐっすりと眠り込んだ。


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