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1.訪れ

 いきなり自宅へ押しかけてきて、お前は俺の家来だから一緒に来い、なんて言われて、はいそうですかと応えるヤツがどこにいると思ってんだ。


 市師(いちし)玄也(げんや)は、その少年を眼鏡越しに睨みつけた。

 歳は十五だと聞いている。けれど、その年齢よりずいぶんチビだし幼く見える。しかも、肩先まで伸びた髪とハッとするほど整った綺麗な顔立ちのおかげで、黙って立っていれば女の子かと思ってしまうようなルックスだ。

 なのに、その態度は果てしなくデカく、おまけにとんでもなく口汚い。


「ったく、稲荷のクセに依坐(よりまし)も置いてねえのかよ」

 そのチビはあからさまに舌打ちした。

「はあ、申し訳ございません」

 宮司が白髪頭を下げている。「十五年前に私の姉が亡くなりましてからは、私どもの神社では依坐を置いておりませんで」

「依坐がいなきゃ、どうやって大白狐(おおびゃっこ)と話をつけろっつうんだよ」

 チビはまた舌打ちをした。


 拝殿脇の住居の前なので、一般の参拝者は居ない。

 居るのは、この稲荷神社の宮司と玄也、そしてふんぞり返ったチビと警察官が一人。

 玄也はその警察官を……この春に大学生になったばかりの自分より二つ三つ年上らしい制服姿の警察官を、少しばかり奇妙な感慨を覚えながら見てしまう。

 こいつが、僕の()()だって言うのか。


 全く事情が呑み込めていないらしいその若い警察官は、途方に暮れたような顔つきで、自分をここまでひっぱってきた少年と、宮司や玄也の顔を見比べている。

 どう見たって、補導された悪ガキとお巡りさんって図だよね。

 玄也は鼻を鳴らした。

 確かに、警察官の方からも、本当にわずかだが『(けもの)』の匂いがする。


「こうやって獅子と狛犬がそろったんだ。朱狐(しゅこ)が手をこまねいているワケねえんだ。それは大白狐だって百も承知のはずだ」

 チビがまた尊大に顎をそらす。「この鎮守(ちんじゅ)(もり)の中は安全だとしても、一歩外に出れば、どこで朱狐が罠を仕掛けてくるかわかったもんじゃねえ。しかも、こいつはまだ覚醒もしてねえんだ。一刻も早く『お山』に連れて帰らねえと、危なっかしいことこの上ねえだろ」

 自分の横に立っている警察官を指差しながら言うチビに、宮司は困惑しながらもうなずく。

「はあ……それはまあ、左様でございますねえ」


「だったら、そっちの狛犬さんだけ連れてけばいいでしょ」

 玄也が口を開いた。

「これ玄也」

 たしなめる宮司を無視して、玄也は続ける。

「ご存知の通り、僕は大白狐さまの養い子でね。この杜を離れる気は、これっぽっちもないんだよね」


 その顔に思いっきり不快感をあらわにしている玄也を、チビが見上げた。

「ナニ言ってんだ、獅子と狛犬はセットだ。お前らはセットで俺の眷属(けんぞく)なんだから、どっちか片っぽを置いてくなんて、できるワケねえだろ」

 口をへの字に結んで顎を上げるそのチビからは、玄也がいままで嗅いだことのない独特な獣の匂いがぷんぷんとしてくる。


 こいつがフツウのチビっこじゃないってことは、それだけで充分わかる。

 僕自身、自分がフツウじゃないってことも、嫌になるほどよくわかってる。

 でもだからって、いきなり勝手に僕を自分の家来にしないでくれ。

 玄也は、自分の胸の辺りまでしか届かないチビの顔を、負けずに睨み返した。


「ちょっ……ちょっと待ってくれ」

 声を上げたのは警察官。

 彼は本当に困惑し、途方に暮れきった表情で額に手を当てた。

「一体なんの話だ? カクセイ? セット? 俺をどこへ連れて行くって?」


「俺の領地だ、お前の先代が張ってくれた結界が残ってる。朱狐は絶対入れねえ」

 イラついたように応えるチビに、警察官はそれまでためていたものを吐き出すようにまくしたてた。

「だから、なんの話なんだ、俺にわかるように説明してくれ。なんで俺がそんな所へ行かなきゃならないんだ? だいたい俺はいま勤務中なんだ、事件でも事故でもないなら、俺は交番に戻る!」


「馬鹿言うんじゃねえ、獅子と狛犬がそろった以上、朱狐はすぐに罠を仕掛けてくるぞ! お前が自分の正体を知っていようがいまいが、お構いなしだ!」

 警察官が一瞬、ぎょっとした表情を浮かべた。

「いや……正体って……だからシシとコマイヌ? シュコってなんなんだ?」


「まあまあ」

 割って入ったのは宮司だ。「こちらのお巡りさんは全く事情がおわかりではないようですから、まずは説明差し上げないと、納得いただけないでしょう」

 チビは不服そうに口をとがらせ、それでも黙った。警察官もだ。

「とりあえず、お巡りさんは今日のお仕事が終わられたら、またここにご足労いただけませんか? 莫奇(はくき)さまにはお待ちいただくことになって、誠に申し訳ございませんが」


「しゃあねえな」

 莫奇さま、と呼ばれたチビがまた舌打ちしながらうなずく。

 警察官の方も、顔をしかめながらもうなずいた。

「玄也もそれでいいね?」

 しぶしぶ玄也もうなずいた。




「しかし、莫奇さま自らウチにおいでになるとはねえ」

 宮司の感嘆したような声に、玄也は眉をしかめた。

「莫奇さまったって、まだてんで(ひな)じゃん」

「これ玄也」

 困ったようにたしなめる宮司に、玄也は片方の眉を上げる。

「おじいちゃん、僕、大白狐さまのとこへ行って来る」


 玄也はそのまま拝殿の裏、鎮守の杜の奥へ向かって歩き出した。

 杜の奥は街中とは思えないほど静かで、ただ降るような蝉の声だけが響いている。重なり合う木々の枝葉が濃い影を落とし、真夏だと言うのに空気がひんやりと感じられる。


 この杜は、街中に浮かぶ島のようだ。

 ごちゃごちゃと建ち並ぶ古い商店や住宅のど真ん中に、ぽんっと緑の小山が陣取っている。杜の入り口には石造りの白い鳥居が建ち、そこから奥へと参道が続く。参道の突き当たりが拝殿、そしてその拝殿のさらに奥、杜のちょうど中央に、本殿とも言うべき岩屋がある。


 岩屋の中は完全な禁足地(きんそくち)だ。つまり、人が入ってはいけないエリアだ。

 けれど玄也だけは、入ることを許されている。

 玄也は岩屋の前の小さな朱色の鳥居をくぐり、太い注連縄(しめなわ)の張られた木戸を開けた。木戸の奥は小さな洞穴になっていて、奥に一抱えもある真っ白な石が置いてある。


 岩屋に踏み込むと同時に、玄也は自分の『獣』を開いた。いまではもう、眼鏡を外して瞬きするだけで、簡単に切り替えることができる。

「あ、カマさんもタマさんもここにいたんだ」

 岩屋の中には真っ白な狐が二頭、寝そべっていた。その大きな狐たちは玄也が入ってくると身体を起こし、ふんふんとしきりに鼻を鳴らす。

「そうだよねえ、あいつ、狐の天敵のクセに稲荷になんか来るなよって話だよねえ」


 洞穴の低い天井に頭をぶつけないように身を屈めながら、玄也はしきりに話しかけてくる白狐たちを抱きとめてうなずきながら応える。玄也は、霊体であるこの眷属たちを実体として視ることはもちろん、こうして互いに触れ合うこともできてしまう。

 ただ、種族が違うので直接言葉を交わすことはできない。それでも、おおまかな意思の疎通には不自由しない。


「大丈夫だよ、あんなヤツに好きになんかさせないから」

 玄也は白狐たちの頭を撫で、身を屈めたまま白い石の後ろへ回る。

 石の後ろの岩壁には細い裂け目が走っていた。その裂け目に、玄也は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく身体を滑り込ませた。


 裂け目ははるか下へと続いている。

 百八十センチと背は高いが玄也の身体は薄い。その上、獣を開けばまるで骨がなくなったかのように自在に身体を曲げられる。だから玄也にとってはどれだけ狭かろうが全く苦にならない。おまけに玄也の目は光なんぞなくてもちゃんとモノが見える。真の闇の地底であろうが、これまた玄也は全く苦にすることなくどんどん降りていく。


 その玄也の黄色い目の真ん中で、黒々と開いていた瞳が反応した。

 白く淡い光。

 玄也の瞳がみるみる細く閉じて行く。地の底からあふれ出してくる白い光の方へさらに降りていくと、玄也の足が底に着いた。


 そこは驚くほど大きな洞窟で、その中央にこれまた驚くほど大きな白い狐が座っていた。その身体の下には平らで滑らかな大きな石、この地を守る要石(かなめいし)がある。神獣(しんじゅう)大白狐は、千年以上この石の上に座り続け、この地を護り続けているのだ。


「大白狐さま」

 呼びかけながら玄也は側へ歩いて行く。

 見上げる玄也の黄色い目を、大白狐の真っ黒な目が見つめ返す。神の目を見つめるなどとんでもなく失礼なことなのだが、それさえも玄也は許してもらっている。

 言葉は通じなくても、玄也にとっては誰よりも自分をわかってくれる相手だ。眷属たちに導かれ、物心ついたときにはもうここを訪れていた。以来玄也はずっと、何かあるたびにこうして大白狐に会いにきた。その柔らかく温かい舌で顔を舐めてもらい、ふかふかの尻尾にくるまって眠ったことも、数え切れないほどある。


「大白狐さま」

 再び呼びかけたとたん、何故だか玄也の胸がしめつけられた。

 玄也はそのまま、大白狐の胸にぼふっと顔を埋めた。嗅ぎなれた獣の匂いが胸いっぱいに広がる。


 しかし、大白狐はその玄也の頭を、鼻面で押した。

「大白狐さま」

 見上げる玄也を、大白狐も見つめ返す。

 そしてまた、その黒い鼻面で、玄也のくしゃくしゃに跳ねた巻き毛の頭をぐいっと押し戻した。

 玄也は諦めて大白狐から身体を離した。


 何度もため息をつき、のろのろとあの細くて狭い裂け目の中を登り、玄也は岩屋に戻った。

「……やっぱり、ダメなのかな……」

 思わずつぶやいてしまった玄也を慰めるかのように、眷属たち二頭の白狐がその鼻先を玄也に擦り付けてくれる。その二つの頭を撫で、玄也は唇を噛んだ。

 僕はなんで獅子になんか生まれたんだろう。

 せめて狐だったら、とっくに大白狐さまの眷属にしてもらえただろうに。

 ヒトの身体に獣の魂だなんて……結局、僕はヒトにも霊獣(れいじゅう)にもなりきれないじゃないか……。




 約束の時刻になっても、例の二人は稲荷神社に現れなかった。

「何かあったのかねえ」

 心配そうにつぶやく宮司の横で、玄也は正直に、もう来なくていいのに、と思ってしまう。

「携帯も通じないし……玄也、お前、様子を見に行ってきてくれないかい? 交番へ行ってお巡りさんの名前を言えば、教えてもらえるんじゃないかね」

「勤務中は携帯に出られないって言ってたじゃん。何か事件でも起きて駆り出されたんじゃないの?」

 そう応えながらも、しぶしぶ玄也は腰を上げた。


 あの狛犬さん、名前は胡摩(こま)幸成(ゆきなり)っていってたよな。

 その名前に、玄也は思わず苦笑してしまう。全く、そのまんまだよね。僕の、シシのクロナリもそのまんまって言えばそのまんまだけど。


 商店街を抜け駅前に出たところで、玄也はその匂いに気がついた。

 おいおい、なにをやらかしたんだ?

 駅前の通りの真ん中に、人だかりができて救急車まで停まっている。

「すみません、通してください、知り合いなんです」


 玄也が人混みを掻き分けて進むと、案の定二人がいた。

「救急車なんて大げさな」

「なに言ってやがんだ、お前絶対骨が折れてっぞ!」

 脇腹を押さえて路上にうずくまっているのは、私服姿の胡摩警察官。その横で相変わらず偉そうに怒っているチビっこが莫奇さま。

 その二人の前で、大泣きしているスモック服姿の幼稚園児とその母親らしい女性。さらにすぐ側のガードレールにぶつかって停まっているワゴン車と、そのドライバーらしき青ざめた顔の若い男。


 おおよそ事態は呑み込めた。

 玄也はひょいっと腰をかがめ、例のチビ、いや莫奇さまの後ろからいきなり言った。

「コマさんってば、この坊やを助けるために車の前に飛び込んだとか?」

「そうなんだ、こいつ全く躊躇しやがらなくてよ!」

 莫奇もいきなり振り向いて応えた。


 やっぱこのチビさんも、とっくに匂いで気がついてたんだな、僕が来てるってことに。

 玄也はちょっとばかり感心してしまった。


「とにかく救急車に乗れ」

 莫奇はまた幸成の方へ振り向いた。「お前だけじゃねえ、この坊主もどっかケガしてねえか、病院でちゃんと診てもらわねえとダメだろ」

「その子だけ、搬送してあげてください」

 幸成は、困惑顔で様子をながめていた救急隊員に向かって言った。

「いや、でもあなたも間違いなく負傷されていると思われますし……」

「自分は現場検証が終わるまでここに残ります」

 救急隊員の言葉を遮るように幸成が言う。その言葉に応じるように、パトカーがやってきたのが見えた。


 顔を見合わせている救急隊員たちに、玄也は思わず補足説明をしてしまった。

「このヒト、警察官なんです」




 玄也は一旦稲荷神社に戻り、自分の車に乗り込んだ。大学入試が終わってすぐに運転免許を取った玄也が、この春に購入したばかりの小型車だ。


 結局、幸成は律儀にも本当に現場検証が終わるまでその場に残り、そしてパトカーで病院に搬送されていった。莫奇は一緒にパトカーに乗り、玄也は帰りのこともあるので自分の車を取りに戻ったというわけだ。

 幸成は少し遠くの病院へ搬送された。近くの総合病院に重篤な別の救急患者が搬送されたばかりだとかで、遠い方へ回されたらしい。


 病院の駐車場に車を停めた玄也が、時間外受付を通ってロビーに入ると、まばらな人影の間に莫奇が一人でイスに座っていた。

「コマさんは?」

「なんか精密検査するっつって、どっかの検査室に連れてかれた」

 いかにも不服そうに口をとがらせるチビっこに、玄也は思わず訊いてしまった。

「もしかして、今日あれからずっと、コマさんに貼り付いてたの?」

「ったりめーだろ、なんかあったらどーすんだよ」


 いや、なんかってさ……。

 玄也は失笑しそうになった。

 そんな玄也にお構いなしに、莫奇は真剣な顔で言葉を続ける。

「玄也、お前も気をつけろよ。いくら杜の中は安全だっつっても、杜から一歩も出ねえワケにもいかねえもんな。まあ、お前の場合、大白狐の眷属がガードしてくれてるようだけど、本体が来ちまったら太刀打ちできねえだろうし、用心に越したこたぁねえ」


「いや、用心って……」

 玄也は本当に笑ってしまいそうだった。「そりゃ莫奇さまは天敵だから、朱狐に狙われてんのかもしれないけど……」

「俺だけじゃねえ、お前も、幸成も間違いなく狙われてる」

 莫奇の顔は真剣そのものだ。「向こうも本音を言えば、俺の手からお前らを奪って、殺さずに自分のいいように使いたいんだろうが……それができないと思えば、平気でお前らを殺しにかかるぞ。お前は、その理由を知ってるはずだ」


 いや、確かに朱狐が僕ら……獅子と狛犬を欲しがる理由も知ってるけど、それは同時に、莫奇さまが僕らを欲しがる理由でもあるはずだ。

 それってつまり、莫奇さまも僕らをいいように使いたいって、思ってるってことじゃないの?


 玄也がその問いを実際に口にする前に、莫奇が何気なくまた言った。

「あ、それから俺は(はる)でいいぞ。莫奇ってのは俺個人の名前じゃねえし、俺は自分の御ケ代(みかしろ)(はる)って名前がすげえ気に入ってんだ。母さんが遺してくれた名前だしな」

 そうだった、こいつのお母さん、こいつを産んですぐに亡くなったって……それにお父さんも、二年ほど前に……。


 それを思い出し、玄也は言葉を呑み込んだ。

 あれは、本当の話なんだろうか。

 本当に……狐が人を殺すだなんて、あり得るんだろうか。


 玄也は大白狐に養われ、その眷属である白狐たちに育ててもらったようなものだ。玄也の知っているお狐さんというのは、みんな陽気でおしゃべりで優しくて……ときどき悪戯(いたずら)はするものの、人を殺すなどというイメージからは程遠い。もちろん、人を(たた)ったり(おとしい)れたりする狐もいるということも聞いてはいるが……どうにも実感として理解できない。

 その狐が……朱狐という特殊な狐だとは言え、自分の命を狙っているなどと……どう考えてもピンとこないのだ。


 思わず考え込んでしまった玄也の身体が、ビクッと跳ねた。

 煙草と、ライターの匂い。

 しまった、病院だと思って油断した。その男が、煙草を持っていることには気が付いていたのに。まさか、病院のロビーでその煙草に火をつけるだなんて。

 身体を退こうとしたが遅かった。玄也の視界に、赤い小さな炎が飛び込んできてしまった。


「うっ!」

 うめき声を上げて飛び退(すさ)り、うずくまった玄也を、その男はぽかんとながめている。指先に、たったいま火をつけたばかりの煙草をつまんで。


「玄也!」

 晴も飛び上がった。「どうした玄也、大丈夫か?」

 まばらとは言えまだ人が残っていたロビーにざわめきが走る。

 落ち着け、落ち着くんだ。

 玄也はうずくまってうつむいたまま眼鏡を外した。


 獣が開いてしまっている。息が上がり、全身が細かく震え、耳の中でドッドッと激しく脈打つ音がうるさく響いている。

 ちくしょう、上手くコントロールできない。

 落ち着け、あれは……あの火は、()()()()()()()()()()()()


「玄也? 玄也! 大丈夫か?」

 晴が何度も呼びながら玄也の腕をつかむ。


「ちょっと君、大丈夫?」

 若い女性の声も聞こえた。

「そこの人、いますぐ煙草消して出て行って! ここは禁煙ですよ! アレルギー持ってる人だっているかもしれないんだから、うかつなことしないで!」

 その女性がまくしたてている。そして、煙草の匂いも遠ざかっていく。


「君、ホントに大丈夫? 看護師さんか先生を呼ぼうか?」

「いえ……大丈夫、です」

 玄也はなんとか応えた。

 でも顔を上げることはまだできない。

「玄也、ホントか? ホントに大丈夫なのか?」

 うずくまる玄也の顔を、チビの晴がのぞき込んでくる。

 あ、でも、こいつには見られてもいいんだ……僕の目。


 そう思うと、フッと玄也の気持ちが軽くなった。

 そして指の隙間からのぞいた晴の顔は、本気で真っ青だった。しかも、いまにも泣き出してしまうんじゃないかと思うほど……ひどく、幼かった。

「玄也?」

「あ、ああ……うん」


 瞬きすると、ようやく獣が閉じた。

 長い息を吐き、玄也はゆっくりと立ち上がった。

「……お騒がせしました。僕、どうにも煙草が苦手で」

 苦笑を浮かべ、眼鏡をかけ直しながら、玄也はそつなく頭を下げる。

 目の前の小柄な女性は、それでも心配そうに玄也を見上げていた。玄也はその顔に見覚えがあった。名前も何も知らないが、ときどきウチの稲荷にお参りに来る人だ。

 玄也は、一度見た人の顔は絶対に忘れない。


「本当に大丈夫? ここ病院なんだし、診てもらったら?」

「大丈夫です。ご心配いただいてありがとうございます」

 ロビーの中でなんとなく遠巻きに見ていた人たちの視線も、玄也から離れて行く。


 晴が、玄也のシャツをひっぱった。

「とにかく座れ、玄也。まじで顔色悪いぞ?」

 ひっぱられるがままにおとなしくイスに腰を下ろした玄也の顔を、晴はまた心配そうな顔でのぞき込む。

 その顔はあまりにも真剣でまっすぐで、玄也は思わずうろたえてしまいそうになった。

 なんなんだ、こいつ。さっきまであんなに偉そうで憎たらしかったのに。なんでこんな顔で僕を見るんだ?


「玄也」

 晴は真剣な表情のまま言う。「もし俺の力が必要なら、いつでも言えよ? いつでも食ってやるからな」

 食ってやるって……。

 一瞬の後、玄也はハッとした。

 そうだこいつ、『(ばく)』なんだった……。


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