攻防戦
グレースは、恋をしたことがなかった。
憧れ程度ならばあったが、こういう人になりたいな、であって、恋仲になりたいというものではない。そもそも婚約者がいるからとそういうことを意識しないようにしていたところもあった。
言うなれば、これは初恋である。
それなのに難攻不落の相手であった。別に嫌われているとは思っていないが、今後関与したくないという意志がひしひしと感じられる。
そばにいるうちにちゃんと自覚して、手を回しておけばと思っても遅い。
「ネコイチロウ、フィデル殿を落とすにはどうすればいいと思う?」
「あー、それはー、無理ではないかと思いますな」
「ひどい」
うにゃと鳴いてネコイチロウは動きを止めた。そうしているとやはりただのぬいぐるみである。
グレースはため息をついてばたりとベッドに倒れ込む。
「挑むなら短期戦。時間をかけると領地に戻られてしまいます。そうなったらてこでも動きませぬ。
まずは、ドレスの依頼でもされてみてはいかがでしょう。
それから、あまり焦るとよその女と結婚されてしまうので親の方に先に手を打っておけばより良いでしょう」
仕方ないなぁと言いたげな声にがばりとグレースは起きた。
「ネコイチロウ?」
「うにゃ?」
寝ぼけたような声が聞こえてきた。
グレースは周囲を見回した。ほかに誰もいない。
「ああ、そうそう。
振られたら諦めてね。無理強いはするもんじゃない」
「精霊様?」
返事はなかった。その代わりというようになにかが降ってきた。
それはグレースの頭を直撃し、床に落ちた。
「……どんぐり?」
どんぐりをグレースは拾った。
艶、形ともに美しい逸品だが、この都会のど真ん中で季節外れにあるものではない。ましてや空から降ってこない。
つまりなにかがこの部屋にいて落としていったということだ。
いつからいらしたのかしらとグレースは思いながら、どんぐりを見る。なんだかちょっと草っぽい匂いがする気がした。
助言してくれたとみるべきだろうか。
「お父様、お願いがございますの」
そう駆け込んだ娘を見た侯爵は先の言葉の予想ができた、と後に語ったらしい。
グレースは父親の許可をもらいグノー家当主へ手紙を書いた。
隣国の戴冠式へ赴くためのドレスが必要になること。戴冠式は一年以上先なると思うが、失礼のないようきちんとしたものを仕立てたいため依頼すること。よければ採寸に伺いたいと。
返事はほどなく届いた。
日付がいくつか書いてあり、グレースの都合の良い日においでくださいとあった。
グレースは当日、店に馬車を乗り付けるようなことはせず、離れたところで降りた。店までは徒歩ではある。危ないからという名目で護衛がついている。
騎士団から人を借りるまでのことかとは思ったが、なんか、逃げそうと思ったのも確かだ。
「なんかちょっとあいつに同情したくなりましたね」
そうこぼしたのはクリスである。指名したわけではないが、騎士団の中でなんとなくグレースへの対応をすることになっていた、らしい。
「振られたら、次はあなたよ」
「いやぁ、頑張ってもらわないとな」
クリスはくるりと手のひらを返した。
グレースにとってクリスは別に恋愛対象ではないが、付き合いやすいという点では構わないと思ったからだ。領地経営などに面倒なことをいいだしそうにないところがとても良い。
「普通は侯爵令嬢との結婚って喜ばない?」
「末端になると恐れ多すぎて逃げますね」
「そうかしら」
確かにグレースが町娘だとして、いきなり貴族から求婚されたら逃げるかもしれない。しかし、これはいきなりではない。
「どうしてもというなら、若いやつを紹介しますよ」
「あなたも言うほど年よりでもないくせに」
「向う見ずに飛び込むほどの年でもないですよ。ほらつきました。裏口は押さえておきます」
「よろしくね」
店内に入ったのはグレースだけだった。
広い店内に若い娘が一人だけいた。グレースに気がつくと彼女は軽く会釈する。
「あ、どうも。妹のクレアです。この店の店主を任されています。
その、それっぽいお迎えしたら察してだめになるんで、今日はお休みにしちゃいました」
こそこそと声を潜めてそういった。いつもは大人数が働いているであろうなと思える店内はがらんとしている。
「グレースよ。
ごめんなさいね、急に押しかけて」
「いえいえ。うちも持て余しちゃってたんですよ。
あの兄が、ずどーんと落ち込んでるから」
「落ち込んでる?」
あの軽く何事も振舞いそうなフィデルが。グレースには想像がつかない。
「俺役立たずとか言ってましたね。じゃあ、役に立ちなさいと家の仕事押し付けておきましたけど」
そういってクレアはからりと笑った。
「採寸はちゃっちゃとしちゃいましょう。仕事はちゃんとしないと」
「よろしくね」
クレアはてきぱきと作業を進めた。想定よりもずっと早く採寸は終わった。
布地などは好きな色を聞き、デザインは数案出しておくので屋敷で検討をしてほしいという話で締めくくる。
「兄は作業部屋にいます。朝から縫物を押し付けておきました」
小さく笑ってクレアは店の裏へ案内する。王都のど真ん中に作業部屋を複数用意できるというグノー家にグレースは驚いた。クレアはグレースの驚きを古いからだと思ったようだった。
王都がこれほどに大きくなる前からあるから古いんですよねとのんびりと語った。この規模の店は今ではお金を出しても買えないのだが、そこは知らないらしい。
この家と比べれば侯爵家もまだ新しい部類に入ってしまう。その重みがあるはずなのに、クレアからもそういった背負ったものを感じることはなかった。もう、古いんで、程度の軽さはグレースからしたら信じがたいところはある。
「どうぞ」
グレースは案内された部屋の前で、固まってしまった。
クレアは少し扉とグレースを見比べ、どーんと扉を開けた。
「兄さん、追加のお仕事だよ!」
「はぁ!? 朝から何枚ぬ……」
そういってフィデルは固まった。
なお、グレースもあまりのことに動けないままだ。
「じゃあ、あとはお二人でどうぞ。
父さんと母さんはお出かけしているし、私もこれからお出かけするね!」
「ちょ、待て、なんだ、その闇討ち」
「煮え切らないできのこ生やしてるのの鬱陶しい」
では、ごゆっくりとクレアは声をかけて立ち去った。
「……久しぶりね」
「どうも。わるいですけど、お帰りください」
「嫌よ」
グレースは腹をくくって押し入ることにした。フィデルは立ち上がりかけて少しよろめいた。
「大丈夫じゃなさそうね」
「ええ、ほら、そういう顔するから嫌なんですよ」
「心配するなというほうが無理ね。
良くなるの?」
グレースは作業用のテーブルの向かい側に置いてあった椅子に座った。
「頑張ればもうちょっと歩けるようにはなります。
ご心配には及びません。ちゃんと生活していけます」
「そう」
「ネコイチロウはもっていてください。母の了解もとれましたし」
「わかったわ」
それきり会話は途絶えた。じっと見るとフィデルのほうが落ち着かなさそうしていた。
「少しやせた?」
「まあ、多少は」
「寝不足そうな顔」
「ほっといてください」
「ミラでないのは本当に久しぶりな気がするわ」
やはりきちんと男性の体つきなのだなとついグレースは観察してしまった。部屋着という感じで薄着なのでより差がわかる。
「もう、いいでしょう? 大丈夫です」
「そうね。
じゃあ、これに名前を書いてもらえる?」
グレースは鞄から無造作に紙を取り出した。
ペンとインク壺も用意してある。
「……何もってきてんです」
「結婚届」
普通は婚約期間を設けるものだが、グレースは無視することにした。評判など放り投げてでも、捕まえておきたいのだ。
「お断りです。
帰れ」
「そこまで断る理由を言ってくださるなら」
いっそがっつり振ってくれとグレースは覚悟を決めた。
「利益がないでしょう。
あなたのためにも役にも立たない」
役に立たないから、断る。
というのは、別に嫌いだからではない、ということだけではない。グレースは口元に笑みが浮かびそうになった。
裏を返せば、あなたの役に立ちたかった、である。
どういう意味であれ、かなり好意的と考えていいのではないだろうか。
「……別に、いるだけでいいのだけど。家のことは私が采配するし、あ、屋敷の使用人についてはお任せ出来たら嬉しい。領地の件も口出ししないというのはとてもありがたいわ」
「夜会で踊ることもできませんよ。こんな足じゃ」
「踊るのも夜会も苦手だからいいわ。
正式にさぼれる」
「社交もできません」
「うちは母がいないから、ほとんど女性相手の社交してないの。幸い困ってないわ」
いいわけに窮したようにフィデルは黙った。
「あなたくらいよ。私に美しいと言ったのは。責任を取ってちょうだい」
「これから先いくらでも言われますよ。安心してください。あなたはお付きのメイドのおすすめに従うだけで美女になれます」
「あなたがお付きのメイドになってくれるってこと?」
「しませんよっ! 二度と」
「あら、残念。楽しかったのに」
意外という顔で見返された。グレースは前もこんなことがあったなと思う。
「いつもなんか、怒ってたじゃないですか」
「からかうようなことばかりしたからよ。
ほんと、腹の立つ人ね」
「じゃあ、結婚なんて馬鹿な真似しなくていいじゃないですか」
「私にとっては都合がいいのよ?
まず、文句付けられない血統、伝統がある。国内で適齢期でというと他にいないわ」
「古いだけで、なんとなく続いただけで、それだけなんですが」
「普通はなんとなくでそんな続かないわ」
「古くても弱小ですし」
「それは事あるごとに、お断りしてきた先祖に文句を言いなさい。
なんかあるんじゃないの? と調べたらさらっとあちこちに名前が残ってましてよ? 連名でついているかんじではあったけど、功績があったなら褒賞もと思えば特になし。
この度の褒賞も断ったんですって?」
「任務上の負傷なので、騎士団からもらった以上は過分です」
グレースは肩をすくめた。この調子では今後もこのグノー家が大きくなることはなさそうである。
欲がない、というよりは、もらったものの扱いに困るので断るという雰囲気がした。身の程を知るというところだろうか。
その意味で言えば、グレースと結婚するというのは身の程を超えていると思っているのだろう。
「私が、褒賞、とでもいえば受け取っていただけるのかしら」
「断りますね。いい男探してください」
「探してもいなかったので拾いに来たのよ。さあ、書いて」
フィデルは何とも言えない表情でグレースを結婚届を見た。
「あのですね、俺、ほんと何もできなくなったんですよ。
普通の生活は出来ますが、それ以上は無理です」
「人に困ってないから、大丈夫」
「……俺のいる意義って何?」
「夫としてそこにいて、まあ、変なことしなければいいわ」
「置物ですか」
「好きなことしていていいのよ。そうね、ほかには子を作」
「ちょ、ちょっとストップ」
「なにかしら」
「ご令嬢がなに言い出してんですか」
「後継者がいるから、必要でしょう?」
軽薄そうなのに純真なところがあるのねとグレースは意外に思った。えげつない淑女会の内容は知らないのだろう。グレースは端っこですごいですわねぇと聞き流す役目だったが、それなりに耳年増に育っている。
「…………。
俺と、嫌じゃないですか」
「優しくしてくださる?」
「わかってなくて煽ってくるのが、とってもグレース様らしいですね!」
「どうもありがとう?」
「褒めてませんからね! ほんと俺じゃなきゃ、どうなってたと思ってんですか……」
じっとグレースを見た後にフィデルはため息をついた。
「ペンをください。
本当に、知りませんからね」
「ありがとう」
ささっとグレースは結婚届を回収した。あとで返せと言われてはかなわない。
「俺の愛情は重たいんで、そのあたり、覚悟しておいてくださいね」
愛情って言った? と驚くグレースにフィデルは微笑む。
なんだかぞくっとしたのはグレースの気のせいだろう。たぶん。
クローゼットの中身を新調し、毎日の服を選び、一番かわいいにしたい、という方面の重さ。夜更かし、健康に悪そうなことはほどほどにねと言いつつスケジュール管理とか始めたりするので、執事とか向いていると思う。
なお、外出時はほどほどで調整されます。夜会での経験が生きる防御術デス。
時々悪いことしたいのよね、ホールケーキ一気食いとかと後にグレースは嘆いているとか。




