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第八話 異臭が噎せ返る部屋


 翌日も、もう繰り返して述べるのもいやになるくらいの日差しだった。

 水戸とともに、もう一度“不審人物”魚谷が住んでいるアパートに出向く。


「はあ……意味あるんすかね、こんな聞き込み」


 と水戸。

 それはわたしも今朝、目を覚ましたときから思っていたことだった。


「どうだろうな……わたしにもわからんよ……」


 まったく日陰のない住宅街の一本道のはるか向こうに、陽炎が見えた。

 あれはほんとうに、発生しているいわゆる気象現象のひとつ、陽炎だ。


 わたしの頭のなかが歪んでいるのではない。

 そう思わないと、もうやってられない。


「世間じゃ、もう夏休みなんっすね……」


 児童公園の脇を通り過ぎるときに、水戸が言った。

 食べているとき以外はあまり無駄口を叩かない彼女だったが、何か喋っていないと正気を保てない状況なのだろう。わたしも同じだからよくわかる。


「ああ……そうだな……」


 ブランコにジャングルジムに砂場。

 日本国中、あらゆる町にある同じような児童公園だ。


 たっぷり濃い緑の葉をつけた桜の木の陰に3人の少年の姿があった。

 ハーフパンツにTシャツ姿の小学生男児。木の下でぼんやり座っている。

 


「あの子ら、何やってんすかね? この暑いのに……」


「いや、暑いのに外で遊ぶのが子供だろ? ……君だってそうだっただろ?」


「いやいや……自分の頃は夏もここまで暑くなかったっすから……まあ、あの子らの歳の頃は兄や弟とセミ取りに行ってましたけど……」


 いやに能弁だったが、喋っていないと歩く気力が止まってしまいそうになるのはわたしも同じだった。


「セミ取り? ……君が……あ、ん……?」


 そこでわたしはあることに気づいた。


「どうしたんっすか?」


「そうだ……セミ……セミだ」


 まるで、同僚の何気ない言葉から事件解決のヒントを得たドラマの刑事みたいな口調だった。


「セミが……どうかしたんっすか?」


「そうだ……セミが鳴いていない。というか、この夏はセミの鳴き声を一度も聞いていない……」


 事件の解決……いまわたしたちが担当しているのがほんとうの事件で、それに解決があるとするならば、だが……には何の関係もないことだった。


 水戸を振り返ると、ぽかんと口を開けている。

 しばらくの沈黙のあと、彼女が教えてくれた。


「知らないんっすか部長? ……気温が35度を超えると、セミは鳴かないんです」


「え? そうなの?」


「ミンミンゼミは35度以上で泣かなくなるそうっす……クマゼミは32度です」


 知らなかった。

 そうか……この夏の違和感はこれだったのか。


 いや、この夏にはじまったことではないのかも知れない。

 ここ数年来、ずっとそうなのかも知れない。

 しかし今年、わたは確かにセミの鳴き声を聞いていない。


「着きましたよ」


「あ……」


 水戸に言われて我に返った。

 しばらくセミのことを考えながら、ほぼ自動機械のように歩いていたらしい。

 思わず通り過ぎるところだった。

 いつの間にか、みすぼらしい二階建てアパートの前に立っていた。


「居ればいいっすけどね……」


「そうだな」

 

 ドアの前に立って電気メーターを眺めた。

 やはり冷房を稼働させている動きではない。

 窓は閉め切っていて、部屋の明かりも点いていない。


「いないっすかね? ……今日も」


「いないね、帰ろう」


 反射的にそう答えてしまった。

 一刻もこの容赦ない太陽の光から逃れたい意思がそう言わせたのだろう。


「いや、いちおう……ベルくらい鳴らしません?」


 水戸が言った。

 確かに、それくらいしないとこの炎天下をここまで歩いてきた意味がない。


「まあ……そうか。そうだな」


 ベルを鳴らした。


「はあーーーーーい」


 中から声。

 思わず水戸と顔を見合わせる。


 がたがたと部屋の奥から音がして、チェーンと鍵を外す音が聞こえた。

 ギイ、とドアが奥から押される。


「うっ」


「うっ……」


 わたしも水戸も、思わず顔を背けた。


 これまでに何度も……ちょうど3日前にも、腐乱死体の横たわる事件現場を共にしたわたしたちだ。

 それ以前にも何度も何度も、さらにおぞましい死臭のこもった現場を体験してきた。


 しかし、すこし開いたドアの隙間から漏れてきた匂いは、強烈すぎる。

 死臭ではない。

 それくらは、さすがにこれまでの経験からわかる。


「なんですか……」


 暗い部屋から、ぎょろりと血走った目が覗いていた。

 長い髪と混然一体になって絡み合った髭。

 脂と汗でてかりを帯びた浅黒い顔。


 それだけでこの部屋の住人が“不審人物”とされ、近所の人間はおろか管区内の巡査にまで、根も葉もない噂を立てられている理由がわかった。


「し、失礼しました……け、警察です……う、魚谷さんですね?」


「はい……そうですが……」


 ちらりと横目で見ると、水戸がハンカチで鼻と口を覆っていた。

 さすがに参考人に対して失礼すぎるとは思ったが、わたしも気持ちは同じだ。

 できるだけ口だけで呼吸するようにして話した。


「付近で起きました事件に関してご近所の方にお話しを伺っておりまして……いま、お時間よろしいでしょうか……?」


 『時間がない、帰れ』と言ってくれることを、心ならずも願った。

 あと、この部屋を家宅捜索させられる成り行きにならないことを願った。


「いいですよ……」


 前者の願いは叶えられなかったようだ。

 またちらり、と横目で水戸を見ると、さっきより2歩ほど後ろに下がり、口と鼻にハンカチを当てたまま顔を背けている。

 腐乱死体よりも耐え難いらしい。


「近所……この町内の商店街の近くで、高齢女性が殺害される事件がありましてね……ご存じですか?」


 ぎい、とドアがさらに押し開けられる……やめてくれ、と思った。

 さらに耐え難い匂いが、むわっ、と湿気とともに押し寄せてくる。


「いえ……知りません。そうなんですか……?」


 太った男だ。

 グレーの……もともとの色は白かもしれない……汚れが目立つTシャツを出っ腹ではちきれんばかりに膨らませ、その下にグレーの……たぶん、元の色はグレーだろう……同じく汚れ切ったジャージズボンを履いている。


 肩までの長い髪、長い髭……いったいいくつなのか……長いこと刑事をやっているが、見当もつかない。


「……はい、ここのところ管轄内で、高齢者が殺害……というか不審死する事件が相次いでおりまして……まあ、なにかご存じのことがあればお伺いしようかと……」


「はあ……なぜ、僕に?」


 “近所じゅうの人間がお前のことを不審者だと言ってるからだよ”という言葉を、なんとか飲み込む。

 飲み込むと部屋から蜷局を巻いて這い出してくるような、この悪臭も体内に取り込んでしまいそうだ。


「い、いえ……このあたりのご近所のみなさんにお話をお伺いしているだけでして……ここのところ、なにかと妙ことが多いご時世ですからね……近日中に、なにか不審に感じられるようなことがあればお聞かせ願えればと思いまして……」


 お話にならないくらい、この男に話を聞くような必然性も意義もないことを言っている。

 それは自分でもわかっていた。

 いまの自分の口調は、かれこれ何十年も事件捜査をやってきた人間の語り口ではない。


 しかし鼻からこの耐え難い臭気を吸い込まないように、口だけで話すようにするにはこれが精いっぱいだった。


「ああ……あれですかね」と“不審人物”魚谷が言った「“39度超え連続殺人”……その捜査ですか?」


 ……まただ。こいつも噂のなかにいる。


 近所で怒った殺人事件に関しても話題の蚊帳の外にいるような世捨て人。

 なのに、わたしも良く知らない噂について知っている。


「そうですよ」


 水戸が顔を背けながら言った。

 

 その日の午後遅く、また新たな“事件”の知らせが入った。


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