第二話 「39度超え連続殺人事件」の噂
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その“39度超え連続殺人”について詳しく聞きたかったので、現場検証のあとは水戸のリクエストで大盛かつ丼で有名な専門店で昼食をとった。
「やっぱ旨いっすねーこの店のかつ丼。並んだ甲斐ありましたっすよねー」
水戸は大柄とはいえよく食べる。
今日も得大盛を注文した。
丼も大きく、でかいカツが2枚乗っている。
「まあ確かに……並ぶの暑かったけど」
わたしは普通盛りにした。
もう年なのでさすがにそんなに食えない。
とはいえ……この仕事をしていて長いが、いまだに事件現場……とくに今日のような殺人事件の現場検証を行った後は、飲食店に入るのは少し気が引ける。
駆け出しの警官でもないのでさすがにものが食べられなくなるようなことはもうなくなったが、どうしても気になってしまう。
事件現場の匂いが自分の身体に沁みついて、店員や他の客が不快にならないかと。
「ほんと、ここのカツ分厚くて最高っすよねー」
「そうだな……うん、まあ、確かに」
水戸は食べているときだけは能弁だ。
そして喋り方がいかにも体育会系になる。
さっき見てきた光景に関して、気にしている様子はまったくない。
たしかうちの署に赴任してきた新人の頃から、水戸は死体発見現場を訪れて気分を悪くするようなことはなかった。
当時はまだ彼女も20代だったので、なかなか肝が据わってるな、と思ったものだ。
で、今日もやはり事件のことなど忘れたようにかつ丼をむしゃむしゃと貪るように食べている。
「月に2回はここで食べないとなんかムズムズするんっすよねー」
「ほんと君、この店好きだなあ」
わたしが新人の頃はどうだったろうか。
死体を見た後、こんなふうに何事もなかったかのようにかつ丼を食べることができただろうか。
その頃のことがもう思い出せない。
刑事になってもう15年になる。
「部長、小食っすねー……また痩せますよ。うらやましいけど」
「あの、ところで……さっき言ってた噂だけど……」
と、わたしは本題を切り出した。
「噂?」
「その、三十何度超え連続殺人……だっけ? それってなに?」
正確には“39度超え連続殺人”としっかり覚えていたが、あいまいに覚えているふうを装った。
「ああ、あれですか……部長、ご存じなかったんっすか? 署内でもけっこう噂になってる話なんっすけど……てかまあ部長、あんまり噂話好きじゃないっすもんね」
「確かにそうかもだけど……それってどんな噂?」
水戸が3分の2ほど空になった丼をテーブルに置き、油まみれの口をナプキンで拭ってから話し始めた。
「いや自分も、真剣に信じてるわけじゃないんっすけど……隣の管轄でも、近郊の県警の管轄でも噂になってるらしいんっすけどね、ここんとこ、暑いじゃないっすか? ……で、気温が39度を超えた日に、一人暮らしの高齢者が殺される事件がここんところ連続してるらしいんっすよ……で、あのおばあさんが殺されたのって確か、三日前って鑑識言ってたっすよね? で、ほら」
そう言って水戸はスマホを見せた。
気象アプリによると、三日前はたしかに……39.5度。
「それ、どれくらい前から広まってる噂なわけ?」
まったく聞いたことがない噂だった。
いくらわたしが噂に疎いとは言っても。
「さあ……自分もよく知らないんっすけど、最初に聞いたのは三か月くらい前かなあ……」
「でも、最近毎日暑いよね? 39度超える日なんてしょっちゅうあるわけだし……」
「あ、たしかに自分もそう思ったっす。だから、まあ噂レベルなんっすけどね……でも先週、駅前の公団で変死体が見つかったじゃないっすか?」
「あ、ああ……そうだな」
「あれも、亡くなったのは先週、39度超えした日っすよ」
その現場にも、水戸と出向いた。
死後一日で見つかった80代の男性遺体。
それでもこの気候なので蛆が湧いて、床に這っていた。
でも……ちょっと待てよ……
「でもあれ、今のところ殺人だと断定されてない……というか、かなり自殺の線が濃い事件だったよな? ……でも、その“39度超え連続殺人”の一環だ、って噂になってるわけ?」
「はあ……だから自分も噂レベルだと思うんっすけど……でもあの死体……」
「あ、うん……そうだな……」
一見すると、いわゆる縊死、事件性はなしで解決。
そんな事件だった。
公団の質素なキッチンが発見現場。
この事件の被害者も高齢者だったが、今日の現場のように部屋にものは少なかった。
きれい好きな人だったのだろう。
部屋には最低限のものしかなく、いやに殺風景だった。
ただ、その小ぎれいに掃除されて整頓されたキッチンの床に……
「首、千切れてたっすよね」
「ああ……」
キッチンの天井の板を外し、屋根裏の梁にこたつのコードがかけられていた。
しかし死体は床に横臥している。
首は千切れ、転がった首はちょうどテーブルの下に収まっていた。
「あれが自然に千切れたのか、誰がが脚を引っ張ったのか、まだいまいちわかんない、って山里先生も言ったっすよね……」
「うん……そうだった」
山里教授はうちの署が司法解剖を依頼している近くの大学の医学博士だ。
人当たりのいいわたしと同年代の男だが、少し慎重すぎるきらいがある。
そういうところがあって、わたしとは気が合っている。
「まあ、自分もあれはどう考えても自殺で、山里先生の考えすぎだと思うんっすけど……あの人、ややこしいから」
「まあ、そうだけど……あの件も、その“39度超え連続殺人”の一環だ、って噂になってる、ってこと?」
「てか、変死も含めて気温が39度超えた日に起こった事件はなんか、噂の一環になってるみたいっすよ」
どうもしっくり来ない話だ。
だいたいあまりにも適当すぎる話じゃないか。
まあ、噂話だから適当なのは仕方ないが……
「あの事件の捜査、いまは……」
「有村班がやってます。とくに進展、ないみたいっすけど……」
有村はわたしの3年後輩だが、うちの課ではもうベテランに差し掛かる刑事だ。
「うちの署でもその噂、かなり広まってるの? というか君、その噂を誰から聞いたの?」
「うーん……誰だったかなあ……けっこう、同期の間ではしょっちゅう話してるっすけどね」
「ふうん……」
たしかにうちのように中規模の所轄署なら、警官の数も事務吏員の数も多い。
だから、水戸の世代とわたしの世代では普段の会話の話題も違うはずだ。
しかしそれにしても……なにか納得いかない噂だった。
「まあ、あくまで噂ですけど……」
そう言うと水戸は、丼に残ったかつ丼の残りをかき込み始めた。
不意に、わたしの鼻に……いやな匂いが帰ってくる。
午前中の現場で嗅いだ、あの老婆の亡骸が放っていた匂いだった。
いや、先週の公団の“変死”現場で嗅いだ匂いかもしれない。
もしくは、これまで何百と見てきた現場の匂い。
思わず、自分のシャツの肩口に鼻を近づける。
大丈夫だ。
気のせいだった。