第一話 腐りながら笑った老婆の死体
連日の猛暑、独居老人の殺人事件が発生。
所轄の刑事であるわたしは相棒の女性警官・水戸刑事とともに捜査にあたるが、酷暑のなかどうも捜査員全員がおかしい。
相棒の水戸刑事をはじめ、誰もがわたしの聞いたことのない噂「39度超え連続殺人事件」の話をする。
なんでも気温が39度を超えた日には必ず高齢者が殺害され、それが管轄外も含めてずっと続いているという。
しかし誰もその「噂」について詳しいことは知らず、発生しているとされる「事件」の関連性も随分曖昧だ。
ただ、上層部までがその「噂」に基づいて捜査を進めようとする。
半信半疑で捜査を進めるわたしと水戸刑事……
とにかく暑い日が続き、太陽が本気でわたし達を根絶やしにきているように思えた。
光が強すぎて、暗い場所から出ると辺りが真っ白に反転する。
視界が戻ってきても、景色の彩度は高く、ほぼ真っ白だ。
その日がとくにそうだった、というわけではない。
ずっとそんな日が続いている。
その下で動き回るわたしたちは事実、日々殺されつつあった。
まだ午前の早い時間だが、いったい今日はどこまで暑くなるのだろう。
すでに下着もワイシャツもスラックスもぐっしょりと濡れ、全身にまとわりつくようだ。
「あ、高津巡査部長! おはようございます! いいお天気ですね!」
現場の規制線の前に立っていた巡査が、そんな灼熱の空の下で満面の笑みを浮かべ、敬礼しながらそう言った。
「あ、ああ……」
思わず怯んでしまった。
わたしに同行している女性警官、水戸巡査は彼に答礼すらしない。
「ごくろーさんっす……」
と、わたしの背後でだるそうに言った。
体育会系柔道部出身の一七〇センチを超える長身で、質実剛健な女性警官。
いつもグレーかダークグレーのパンツスーツで、今日はグレーだ。
いつもスーツに白いスニーカー。
髪はいつも無造作に後ろにまとめ、化粧っ気はない。それ以上に愛想はまったくない。
「はいっ! お疲れ様ですっ!」
その若い警官はまた笑顔で元気よく答える。
わたしは軽く答礼して彼の脇を通り過ぎた。
なんであんなに愛想が良いのだろう。それに元気が良すぎる。
前も現場で会ったことのある、まだ20代の若い巡査だった。
ここは殺人現場だ。
元気が良くて明るいのはいいが……
いくらなんでも殺人事件の現場で「いいお天気ですね!」はないだろう。
まあわたしにも、そんな巡査の態度にどうこう考えを巡らせるほど、気力が余っているわけではない。
とにかく暑かったし、これからその暑さのなかで数日放置されていた死体と対面するわけだ。
それだけでずいぶん気が滅入る。
事件現場は私鉄沿線の住宅街。
商店街に立ち並ぶ店のシャッターはほぼ閉じているが、かつてはそれなりににぎやかな地域だった。
そんな商店街を幹として、枝分かれするようにいくつもの横道があり、事件の現場はそんな横道に並ぶ木造二階建ての一軒だ。
雄に築50年は過ぎている。
狭い通りにぎっしりと並んで建つ古い家々は、倒れないようお互い必死に支え合っていた。
その一軒の前に非常線が貼られ、その奥には現場を隠すブルーシートが掛かっている。
「…………はあ」
気が重いので思わず露骨にため息をついた。
まだわたしが駆け出しの頃は、こんな現場に入るのがイヤで仕方がなかった。
誰だってそうだろう。
若い頃も今日のように殺人現場に足を踏み入れる前、露骨なため息をついた。
わたしの教育を担当してた警部補に、それをたしなめられたのを覚えている。
しかし、いまではどうだろう。
この異様に強烈な陽の光の下から逃げられるなら、死体が横たわる事件現場でもいいから一刻も早く日陰があるところに逃げ込みたいと願っている。
ちらりと背後の水戸巡査を見た。
普段から不愛想な水戸だが、そのせいか特に事件現場に入ることに不快感を抱いているようには見えない。
「じゃ、入るよ」
「あ、はい……はあ」
投げやりな返事が返ってきた。
いつもこうなので、とくに何も感じない。
いや、水戸がこんなふうになったのはいつからだろうか?
うちの署にやってきたときは、さっきの巡査なみに暑苦しいほど元気だったような気がするが……
「部長、これ」
水戸に手渡されたものを受け取る。
「うん」
手袋、ヘアキャップ、足カバー。
いつもの手順で……ほぼ惰性でそれらを無意識に身に付けられるようになっている。
シートをくぐると、日差しの下から暗い場所に入った。
一瞬視界が暗転する。
日差しから逃れられたと思ったら、叩き込まれるような臭気が鼻孔を襲った。
目にも染みるような匂いだ。
「おはようございます高津巡査部長。いいお天気ですね」
青い制服にカメラを首から下げた馴染みの鑑識班員が、マスクの下から言った。
「いいお天気……?」
思わず鑑識係に聞く。巡査と同じことを言ったからだ。
「いいお天気でしょ? ここんところお天気続きですよね」
「そうだけど……この現場と天気、関係あるかな?」
「え……」
鑑識班員がマスクの下で怪訝な顔をしているのがわかる。
「……部長」
背後で水戸が言った。
その声の調子で『余計なこと言ってないでさっさと済ませましょう』と言っている。
「ああ……で、被害者は……」
話が本筋に戻ったことで鑑識係は安心したようだった。
「この家に暮らしていた80過ぎのおばあさんです。部屋で布団で寝ていたところを、メッタ指しにされたようで……匂いでだいたいわかると思いますが、検視官の話では死後3日は経ってます」
「3日……この炎天下で……」
と言ったところでまた水戸が背後でつぶやく。
「部長」
とにかく、さっさと終わらせたいらしい。
もちろんわたしもそうだ。
「やれやれ……じゃ、拝見するよ」
暗いのにも目が慣れてきた。
玄関のたたきを上がるとガラス戸があり、その奥がキッチン、さらにその奥が八畳間らしい。
殺されたのは老婆だということだがら、足腰が弱いのでほぼ二階建ての家の一階で生活していたのだろう。
老人の一人住まいらしく、やたらとモノが多い。
菓子の空き箱や古新聞・古雑誌、何かが入っていた段ボール箱やカタログ、薬の瓶や調味料の瓶などなど……そういうものが雑然と、ではなく整然と暗い部屋にひしめいていた。
ここに生きた人間が……孤独に暮らしていたことを示す無意味で無数の品、品、品。
気乗りしない足取りで奥の八畳間に向かった。
遺体が横たわる布団のあたりを、鑑識の連中が取り囲んでいた。
「ああ、高津部長……いいお天気ですね」
「そうだね」
また天気の話か。もういちいち反応するのもバカバカしくなってきた。
鑑識たちがしゃがんでいる上から、死体を覗き込んだ。
こういう強烈な匂いにはもう慣れている。
慣れたくて慣れたわけではないが。
血糊や飛び出した腸にも慣れている。
老婆の全身で、蛆虫がうごめいているのも。
警察に長くいると、こういうことにはだんだん無感覚になる。
無感覚になっていくことも自覚せずに、いつの間にか平気になる。
ただ、その老婆の死体に関してはどうしても気に留めなければならないことがあった。
「部長……これ……」
背後から水戸が、相変わらず抑揚のない声で言った。
「うん、なんというか……」
両目を、唇を、鼻の孔を蛆に食われながら、老婆は満面の笑みを浮かべていた。
目を食われていても、死体が笑顔を浮かべているのはわかる。
にっこりと笑った口が、東から顔を出したばかりの上弦の月の形をしていたからだ。
笑顔の口からぞろりと除いた歯……たぶん入れ歯だろう……にも、蛆が這いまわっていた。
「これ……噂になってるやつじゃないですかね?」
と水戸がまた背後から言った。
噂?
ここのとろこなにか噂になっているようなことはあっただろうか?
もともとわたしは組織内の噂には疎い。
「噂って……どんな噂?」
「あれです……“39度超え連続殺人”……これもそうかも」
振り返って見た水戸の表情は、特段不快そうでもなく、いつもと同じだった。