7-23
俊宇は、父の右腕である義弟が連れてきた、蘇家の分家の八男だった。
“ご覧、凛風。これから、この子供が凛風を護衛するからね。ちゃんと顔を覚えるんだよ”
わずかに灰色の混じる髪に、子供ながら精悍な顔。父に肩を押され、少々不貞腐れたような表情でこちらを見ていた俊宇を、今でも覚えている。
後に乳母らが隠れて話していたことから察するに、俊宇はほぼ売られるようにして、蘇家に奉公に出されたらしい。よくわからないが、貧乏な家の八男ともなれば、よくある扱いだという。
だが、遠い分家の出とはいえ、俊宇の体には蘇家の血が混じっている。おまけに凛風とは年も近い。
そこに目をつけられ、凛風の従者兼、用心棒という役職を与えられた。――つまりは、目下のところ、彼の役目は凛風の見張り役である。
なんにせよ、凛風にはどうでもいいことだった。子供たちの笑い声が消えて、がらんと広く感じる屋敷の静けさも。以前から過保護な母が、ことさらに凛風を目の届く場所に置きたがるようになったことも。凛風は、もはや興味がなかった。
お前も私と同じ、窮屈ね。父が馴染みの商人から譲り受けた、瑠璃色の羽を持つ美しい小鳥が籠の中で鳴くのをみて、そう同情するくらいだった。
そんな凛風の乾いた心が揺らいだのは、ほんの些細なきっかけだ。瑠璃色の羽の小鳥が死に、俊宇が庭にその墓を掘っているのを見た時だ。
母に命じられたのだろう。使用人たちが使う水場の裏手の隅に、俊宇は小鳥を埋める墓を掘っていた。小鳥が死んだのは、病気だった。水か気候かが合わなかったらしく、あっけなく逝ってしまった。俊宇が情を覚える間はなかったはずだ。
なのに、俊宇は泣いていた。唇を真一文字に結んで、小さな鼻を時折すすって、泣いてなどいませんと誰かに言い訳するようなしかめ面のまま、俊宇はぽろぽろと泣いていた。
俊宇がなぜ泣いたのか、尋ねたことはない。小さな生き物が命を落としたことをに胸を痛めたのかもしれないし、彼もまた、籠の中の小鳥を自分に重ねていたのかもしれない。
だけど、理由は重要ではなかった。小鳥が短い生を終え、俊宇がそれに涙した。凛風にとってはそれがすべてで、それだけで何かが救われた気がした。
“私も一緒に弔うわ”
庭に降りた凛風がそう告げると、俊宇は茶色の瞳で、なにか言いたげに凛風を見上げた。けれども結局、彼は凛風の好きにさせてくれた。
二人はもくもくと、無言のまま白く乾いた土を掘った。空から注ぐ強い日差しにじわりと汗が滲み、額から落ちた汗が地面を茶色く染めた。
小鳥の小さな体を埋めてやってから、凛風は俊宇と並んで、小鳥が無事に楽土に渡れるように手を合わせて祈った。
あの日を境に、俊宇と自分の間に、確かな絆のようなものが芽生えた。少なくとも、凛風はそう思っている。
小鳥の墓を作った日を境に、凛風は俊宇と話すようになった。初めは戸惑っていた俊宇も、徐々に打ち解けて笑顔を見せるようになった。
強面とも言える鋭い細目を和らげ、不器用に笑う俊宇の笑顔が、凛風は好きだった。真面目で実直な彼は、凛風にも正直に話した。その言葉の選ばなさが、凛風は心地よかった。いつしか凛風は、俊宇と過ごす時間をこの上なく愛おしく感じていた。
一方で、芽生えたその感情が、よくないものということはきちんとわかっていた。父は自分を政略結婚させる気だし、俊宇はあくまで従者だ。だから、想いはそっとしまい込んで、彼といられる時を大切に過ごした。
月日は流れ、凛風は16歳になった。成長するにつれて、凛風はますます多くの作法やしきたりを叩き込まれた。領地に時々戻ってくる父は、上機嫌に「そろそろ、皇太子殿下も後宮を開かれるとのことだ」と話した。「皇太子の後宮」とやらに凛風を入れるのが、父の望みらしい。
どうせ自分は父の道具だ。後宮に皇太子妃として召し上げられることは、すぐに受け入れた。唯一心残りがあるとしたら、後宮に入れば俊宇と会えなくなることだけだ。
……流れが狂い出したのは、そのあとだ。皇太子が、第二皇子を暗殺しようとした咎で捕えられた。父から母に宛てられた文で、凛風はそれを知った。
ちょうどその年の秋、凛風は都にある屋敷に移る予定だった。皇太子の事件により、それも見送られた。
母は嘆き、屋敷の者たちも不安がった。皇太子はどうなるのか。皇太子が失脚したら、凛風の後宮入りはどうなるのか。皇太子を支持してきた蘇家は大丈夫なのか。皆、そればかりを気にした。
だけど、俊宇だけは違った。彼だけは苦虫をかみつぶしたような顔で、「狂ってる」と吐き捨てた。
誰も凛風を案じる者はいないのか。凛風が巻き込まれなくてよかったと、安堵する者はいないのかと。そう憤る俊宇を見たとき、凛風の胸に魔が差してしまった。
俊宇と共に生きたい。そう、願ってしまったのだ。
「お願いよ、俊宇。私と一緒にここから逃げて。私、添い遂げるならあなたがいいわ」
そうすがった凛風に、俊宇は驚いて目をみはった。一瞬だけ言葉を失くした彼だが、すぐに覚悟を決めたように頷いてくれた。彼に抱きしめられた時、俊宇も同じ想いだったのだと、凛風は嬉しさに涙が滲んだ。
その日の夜、ふたりは人目を避けて屋敷を抜け出した。実はずっと、凛風を連れ出すことを考えていたのだと。照れくさそうに笑う俊宇の手は、大きくて暖かかった。荷物は最小限でも、なにも不安はないと心から信じられた。
それこそが過ちだった。なにもかもが愚かだった。
「俊宇殿は亡くなられました」
蘇家に出入りする商人・胡伯に告げられた時から、凛風の中で何かが凍ってしまった。
都では皇太子が死に、皇帝が変わった。第二皇子であった李紅焔が、父親に譲位を迫ったのだという。屋敷の者たちの不安に反して、父は情勢をうまく泳ぎ抜き、大臣の座を守り抜いた。
それらすべてを、凛風はどこか遠い国の出来事のように聞いた。目を閉じても、目覚めていても、思い浮かぶのは俊宇の不器用な笑顔だけだった。
(私のせいだ)
新しい皇帝が即位してしばらくして、父が、凛風を皇帝に嫁がせると言いました。
(……私のせいだ)
無事に大臣職を守り切り、父は上機嫌だった。大急ぎで凛風の都上りの準備が再開し、あっという間に凛風は安陽の屋敷に映った。
(私があんなことを言わなければ、いまも俊宇は……)
――その日、安陽は朝から雨が降っていた。
凛風は、父と牛車で大通りにきていた。ずっと塞いでいる凛風を見兼ねて、父に屋敷の外に連れ出されたのだ。
道中、父は新しい皇帝への不満を何度も口にした。このところの父は、凛風の後宮入りの話が進まずに、よく苛立ちを募らせている。若き皇帝が香家から嫁いだ姫君を深く寵愛し、ほかの姫を妃に迎えるのを拒んでいるというのは、有名な話だ。
「これで春陽妃が身籠りでもしたら、ますます香家がつけあがる。そもそも皇帝ならば、すみやかに後宮を開いて家々から姫を迎えるのが道理だろうに!」
父が吐き捨てたちょうどその時、牛車の御簾の向こうに周光門が見えた。あの中に、若き皇帝が住まう天宮城がある。そう思った途端、不意にどくりと血が沸騰する心地がした。
……違う。
違う、違う、違う!
そもそも、皇帝などいなければ。後宮などというものがなければ。――あの時、現皇帝が、皇太子だった李焔翔を捕らえたりしなければ。
急速に高まる激情に、唇が震えて、指先が凍えていくのを感じた。それでも、凛風は周光門から目を離すことができなかった。
あの奥に、皇帝がいる。
存在しているだけで周りを振り回し、かみきだし、それによって誰を不幸にしたか知りもしない男がいる。
そんな男が、そんな罪深い人間が、自分だけはのうのうと幸せを享受している。俊宇の死を知らず、凛風の苦しみを顧みず、寵妃を愛し、愛され暮らしている。
許せない。そんなこと、許せるわけがない。
「凛風! 戻ってきなさい、凛風! お前、娘を牛車に連れ戻せ!」
父の制止を振り解き、凛風は牛車から、雨の降りしきる周光通りに飛び降りた。
全身を冷たい雨が叩き、ゆかるんだ地面に足を取られそうになった。何事かと通りをいく者たちが目を向ける中、凛風は無我夢中に周光門を目指して駆けた。
追いついた従者らに前を塞がれた時も、凛風は額に張り付いた髪の隙間から、周光門を睨みつけていた。
牛車にお戻りください。従者らに懇願される凛風は、ふと、彼らのすぐ後ろに黒い影が浮かぶのを見た。
ソレは周光門を凛風から遮るように、地面からゆっくりと煙のように昇ってきた。影は徐々にひとの形となり、見目麗しい細面の武人の幽鬼となった。
その幽鬼に、凛風は親しみを覚えた。青白く血の気が引いた幽鬼の光は、光を喪ってはいたが、凛風と同じ強い怒りと絶望を感じた。
「……わかりました」
凛風に触れられず困り果てた従者たちに、凛風は頷いた。促されて牛車へと戻る刹那、凛風はぼんやりと佇む幽鬼に微笑んだ。
「参りましょう。あなたも、一緒に」
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