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7-19


 南宮殿はその名の通り、安陽の都の南に位置する。


 その昔は離宮のひとつだったが、西朝の情勢が不安定になる過程に廃棄された宮殿で、数年前まで荒れ果てたまま放置されていた。否。今だって、人が住めるだけの最低限の手入れは成されているが、決して良い環境とは言えない。


 —―紅焔の兄、李焔翔の忘れ形見、李翔龍とその母・麗鈴が住まうのは、そんな場所だ。


「よくぞおいでくださいましたわ、陛下」


 橙色の瓦がところどころ剝げた正門に入ってすぐ、南宮殿の麗しい女主人――麗鈴が、たおやかな笑みで紅焔らを出迎えた。


彼女の背後に控えるのは、筆頭侍女と思われる老齢の侍女と、もうひとりの侍女だけだ。自分たちが立つ石畳の道も、あちこちにヒビが入って青々と伸びる雑草が顔をのぞかせている。


 そんな寂れた南宮殿にあっても、麗鈴の美しさは少しも損なわれることがない。それどころか、彼女のどこかもの悲しく儚げな美貌を際立たせ、一層の輝きを彼女に纏わせている。


 やはり、強い女だと。紅焔は兄嫁への評価をあげる。

 見た目通りのかよわい女であれば、こうは輝くことはできまい。


 思わず内心で唸る紅焔に、麗鈴は長い睫毛に縁どられた目を悲しげに伏せる。


「申し訳ございません。あろうことか、皇帝陛下が来られたのです。本来であれば、もっと盛大にお出迎えをするべきですのに……」


「気にする必要はありません。南宮殿に足を運んだのは急なことだし、そもそも私は、皇帝としてここに立っていない」


「使いの方からも、そのように伺っております。ですから私、驚いておりますわ。まさか紅焔様が。個人的に南宮殿を訪ねてくださる日がくるなんて」


「本当にそうでしょうか」


 声をあげたのは、紅焔でも麗鈴でもなく、紅焔の後ろに控える従者のうちのひとりだ。――否。本当に従者であれば、皇帝と皇帝の義姉の会話に割って入ることなど許されない。


 目を瞬かせる麗鈴に、声をあげた最も小柄な従者――男物の衣に身を包み、変装した永倫ら近衛武官の中に紛れていた藍玉が、掲げた腕の上から薄水色の瞳で麗鈴を見据えた。


「私には、麗鈴様が旦那さまのお越しを予想していたように思えるのですが」


「――二度目まして、ですわね。あなた様にもお越しいただけるなんて。嬉しゅうございますわ、春陽妃様」


 男物の衣に身を包んだ春陽妃を前にしても、麗鈴の余裕は崩れなかった。警戒が滲む藍玉の眼差しを微笑みで受け流して、麗鈴は優雅にお辞儀をする。


「積もるお話は、道の途中で。まずは皆さまを、ご案内いたします」




*      *         *



 紅焔が梁大将ら近衛武官を外で待たせ、麗鈴は侍女らを下がらせた。互いに人払いをした今、石畳の上を歩くのは藍玉と紅焔、そして麗鈴の三名だけだ。


 さすがに南宮殿の手入れをする人間が先ほどの二人だけということはないだろうが、あたりはひっそりとしていて人気(ひとけ)がなく、外界から完全に隔絶されてしまったような心もとなさを覚える。


 そういえば、夫の甥っ子である李翔龍はどこにいるのだろう。利発そうに見えた少年の姿が藍玉の頭をよぎった時、謳うような軽やかな声で麗鈴が口火を切った。


「私が陛下のご来訪を予想していたと仰いましたね。差し支えなければ、なぜそう思われたのか教えていただいても?」


 優雅な足取りを止めることなく、麗鈴はわずかに振り返って微笑みを向ける。その目が問うているのは、夫にではなく自分へだ。それを理解した藍玉は、少しだけもの言いたげな顔を向ける夫を目で黙らせてから答えた。


「偶然にしては出来すぎているからです。まるで、旦那さまが南宮殿に足を運ばざるを得ないよう準備されていたみたいに」


「まあ! たしかに都合のいい巡り合わせではございますが、この世は常々、人の思惑を外れた悪戯(いたずら)のような偶然で回っておりますでしょう?」


「では、逆におたずねいたします。なんの利があって、彼の御人を客人として南宮殿に招かれたのです? 彼の方はこれまで南宮殿を出入りした記録はないようですが?」


「藍玉」


 言葉の強さを窘めるように、皇帝が自分の名を呼ぶ。きっと彼は、あの柘榴石(ざくろいし)のように美しい深紅の瞳でこちらを見つめているのだろうが、今は麗鈴から視線を外すわけにはいかない。


 夫を無視して藍玉が息を詰めて見つめること数秒、麗鈴はにこりと微笑んだ。


「ただの勘ですわ。あの御方を南宮殿でお招きすべきだと、そんな気がしたのです」


「勘って……そんな曖昧な」


「彼女の言うことは本当だ。義姉上は昔から、妙なところで勘が働く」


「あとは……哀れに思ったのかしら。園遊会からこちらに戻る途中、怪我をされたあの方を見かけましてね。彼の方が怪我をした理由は、私と翔龍にとっても他人ごとではなかったはず。もちろん、私の想像通りなら、ですけれど」


 白絹のような頬に美しい手を添えて、麗鈴が悩ましげに嘆息する。わざとらしさの拭えない仕草に、藍玉はますます噛みつこうとしたが、口を開くより先に再び夫から制止が入った。


「もういい。義姉上のおかげで、奴を探す手間が省けた。それでいいじゃないか」


 さすがの藍玉も二度目は無視できず、紅焔を見上げてキッと睨んだ。目が合った紅焔は、見惚れてしまいそうなほど整った尊顔を気まずげにしかめると、そっと視線を逸らした。


 契約婚とはいえ、夫が妻ではなく、他の女を庇うとは業腹だ。だが、美しくも不器用な夫の胸中は推しはかれないでもない。


 彼は亡き兄に償いたいのだろう。償うといっても、過去の非道を泣いて詫びるという意味ではない。奪い取った『皇帝』の地位をもってして新たな世を築き、そこに兄の忘れ形見たちにも居場所を与えてやりたいのだ。


 この甘さは、彼――本来の李紅焔の美徳でもある。しかし同時に、必要とあらば、紅焔がその甘さを完全に殺せる人間であることも藍玉は知っている。


 それが、夫が麗鈴をこれ以上追求したくない理由だ。疑いを抱いたら、皇帝として火種を排除しなければならなくなるから。


 少し迷ってから、藍玉は仕方なく矛を収めた。


「旦那さまがそうおっしゃるなら。麗鈴様、過ぎた無礼をお許しください」


「とんでもないことですわ。むしろ、姉妹喧嘩みたいでワクワクしました」


 今のやり取りのどこをどう切り取ったら、姉妹喧嘩などという可愛らしいものに納まるのかわからないが、麗鈴がそう言って微笑む。なんだか子供のようにあしらわれた気がして、藍玉はムッとした。


 実際、子供じみていたかもしれない。普段の冷静さを、欠いてしまうくらいには。


(やっぱり。ほんの少しだけど、麗鈴様から呪いの匂いがする……)


 麗鈴の背中を見つめて、藍玉は確信した。


前回――園遊会で彼女が挨拶に訪れた時も違和感を覚えたが、あの時は気のせいかと思った。けれども、たしかに目の前の彼女から、微かに毒々しい気配が漏れている。


 呪いの気配といっても、麗鈴が呪われているわけではない。その逆だ。

 春の花のように清らかな笑みの下、麗鈴は燃え滾る呪い(怒り)を隠している。


 問題は、その呪いが誰に向けられたものかだ。


(旦那さまと麗鈴様は旧知の仲。それに、焔翔様を含めた三人で深く親交があったと伺っています。焔翔様が亡くなった際は、麗鈴様もさぞや無念だったことでしょう……)


 彼らの身に起きたことを思えば、麗鈴がいまだに紅焔を憎んでいても不思議はない。


だからこそ、あの笑顔が不気味なのだ。無意識に漏れ出てしまうほどの呪いを抱きながら、ひとはあんなにも、美しく笑えるものだろうか。


 ――とはいえ、だ。


 実際、今日この地に足を運んだ理由は麗鈴ではなく、別の人物が目的だ。彼女はその人物をたまたま(・・・・)運よく(・・・)客人として近くに留め置いていたにすぎない。


 さらに言えばだ。誰かを憎んだり、恨んだりすること自体は罪ではない。呪術師を雇うなどして呪詛すれば罪に問われるが、大概は生霊や呪いを無自覚に飛ばしてしまうものだ。


 何より夫はいま、華劉生の幽鬼以外に呪いを受けていない。まだ呪われてもいないのに、麗鈴をどうして責められよう。


 だから、今日は目を瞑ろう。藍玉が抱く麗鈴への不信も、今はまだ夫に伝えないでおこう。大丈夫だ。呪いや呪術が相手なら、見逃すような自分ではない。


 ……そうこうしているうちに、主殿から渡り廊下をいくつか超えた先、とある大扉の前で麗鈴が足を止めた。


「どうぞ。お客人はすでに中でお待ちいただいておりますわ」


 美しく拝礼してから、麗鈴は音もなく滑るように去っていった。その姿が完璧に見えなくなるのを確かめてから、夫が目の前の大扉を押した。


 古い見た目通り、ぎぃと軋んだ音を立てて大扉が開く。外光が差し込んだ先、ちょうど扉の正面に位置する椅子から、その『客人』は立ち上がる。


「驚いたぞ。まさか、お前とこの場所であいまみえることになるとは思わなかった」


 隣の夫の声に反応して、客人がゆっくり顔をあげる。――この顔は、一度しか見たことがない藍玉もよく覚えている。


白皙の細面に、紅を差したような薄い唇。流し目の似合う切れ長の目元に、完璧に配置された泣きぼくろ。自分の魅せ方をよく心得た魔性の商人に、春陽宮に勤める宮女たちも熱をあげていた。


「それを言うなら、(わたくし)も同じにございます。まさか私めの話を聞くために、陛下、ならびに春陽妃様にまでお越しいただくなんて」


 宝石のあしらわれた異国の耳飾りが、しゃらりと揺れる。青みがかった瞳に藍玉らを映して、男は――大商人・胡伯が胸に手を当てた。


「それほどまでに重要とあらば、腹を括りましょう。この胡伯、今日はなにひとつ隠し立てせず陛下にお答えすると、お誓いいたします」



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