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藍玉の薄水色の瞳がかすかに潤んでいるのを見て、紅焔は息を呑み——首を振った。
(阿美妃と華劉生、ふたりを間近で見てきた藍玉が、華劉生が処刑したことに疑問を持っているんだ。いったん、藍玉の直感を信じよう)
華劉生は、阿美妃の処刑に関わっていない。あの『夢』を真実と受け入れるなら、幽鬼としての華劉生のあり方に対する予想も大きく変わってくる。
紅焔はこれまで華劉生の幽鬼の核は、兄王を堕落させ、祖国を滅亡に追い込んだ阿美妃への怒りや憎しみといった感情だと予想していた。もちろんそれは、阿美妃の首をはねた直後、妖狐として蘇った阿美妃に華劉生が殺されたと伝わっているからだ、
だが、阿美妃の死に関わっているのは別の人物であり、夢に現れた華劉生が口にしたのは別の「怒り」だった。
弔うはずだった。見送るはずだった。だが、できなかった。自分にはあの方を殺せなかった。――なのに奪われた。お前に。あいつに。あの男に。
鄧彗云に、阿美妃を奪われた。
縋りつく藍玉が倒れてしまわないよう、支えて歩く。辿り着いた四阿に並んで腰かけ、紅焔は藍玉の頬にかかる髪をそっと指でどかし、美麗な顔を覗き込んだ。
「華劉生が母君の仇でなかったとしても、あの幽鬼を放置することはできない。彼の霊は、俺たち二人で祓うと……その軸にぶれはないと信じていいよな」
長い睫毛を震わせ、藍玉は目を閉じた。次に目を開けた時、藍玉の大きな薄水色の瞳は、いっそう強い輝きをもって紅焔を見つめた。
「むしろ今まで以上に、決意を固くしました。劉生兄さまが、私の知っている兄さまのままなら、尚更これ以上、あの人の魂が歪むのを放置するわけにはいきません」
「そうだな」
まっすぐな藍玉の美しい眼差しに、紅焔も強く頷き返す。藍玉の決意は固い。であれば紅焔も、その想いに全力で向き合わなければならない。
少しだけ座る位置をずらして、紅焔は藍玉と正面から視線を合わせた。
「幽鬼を祓うには、幽鬼の核となる憂いの根を取り除くか、相対する陽の気をぶつける必要がある——。華劉生の幽鬼も同じだとしたら、希望が見えてきたかもしれない」
「本当ですか?」
「俺には華劉生の気持ちが、理解できた気がするんだ」
華劉生の核となるのは、大切な者の命を奪われた怒り。……そしておそらく、それ以上の、守れなかった己への憎しみだ。
直接言葉を交わしてわかった。燃え滾る激情が、胸を裂く絶望が、一怒りを一層『敵』に向けさせる。そうやって無意識に己を守ったまま、狂い果ててしまった成れの果てがアレだ。
辿った道は異なっても、本質的に華劉生と自分は似ている。あの短い邂逅だけで、十分にそれを理解した。だからこそ、アレが抱える絶望もまるで自分のことのように推測できた。
「母さまを守れなかった怒りと悲しみ。それが、劉生兄さまの核となるもの……」
「あくまで推測だが、君の口から聞く華劉生の人柄とも一致する。あの幽鬼は、母君――阿美妃の仇を探して彷徨っていると、そうは考えられないだろうか」
困ったように薄水色の瞳を揺らして、藍玉は考え込んだ。藍玉の迷いも当然だ。華劉生を信じる彼女は、紅焔の推測に飛びつきたいに違いない。だけど間違っていた場合、あれだけ強力な幽鬼にほぼ丸腰状態で挑むことになってしまう。
ややあって、藍玉は思慮深く言葉をつむいだ。
「旦那さまの夢が真実かどうか判断するには、もう少し、劉生兄さまの謎を解くべきだと思うんです」
「何か気になることが?」
「なぜ、劉生兄さまが、私たちを呪ったのかです」
基本に立ち返ったというべきか。やはり、その謎を放置したまま結論を急ぐことはできないらしい。
呪われたのは三人だ。楽江の地を統べる現皇帝、李紅焔。その唯一の妃であると同時に、麓姫の生まれ変わりである香藍玉。そして、園遊会に集っていた高官の一人、蘇大臣――
「……明らかに、蘇大臣だけ異質だな」
「旦那さまもそう思いますか」
「最後のひとりが凛風様であったなら、選ばれた三人にギリギリ関連性を見出すこともできた。だが、蘇大臣に変わった途端、なんの理屈も通らなくなってしまう」
紅焔は自分たちが呪われた理由に、二つの可能性を考えていた。
ひとつめは、「阿美妃の呪いが、華劉生の幽鬼としてのあり方に影響を与えてしまった」というもの。
藍玉も淵春明も、呪いの人形からは阿美妃の気配も感じられると言っていた。そこから、華劉生は阿美妃の呪いに影響――つまりは、人の世を破滅に導くという性質を持っていると仮定した。
そのため、前世で関わりの深い藍玉だけではなく、人の世の王である紅焔と、その妃候補である蘇凛風を呪ったのだと。……なぜ複数いる妃候補の中で、蘇凛風だけが呪われたのか謎は残るが、そういう仮説だ。
もうひとつの可能性は、「華劉生の最期の行いの再現」というもの。
長らく、華劉生は華ノ国の皇帝と妃を処した男とされている。それゆえ、いまの皇帝と妃候補の、妃候補である自分たちを呪ったと。もっとも、この説は華劉生の幽鬼の告白により、前提が崩れてしまったが。
いずれにおいても、蘇凛風が「皇帝の有力なき妃候補であるために呪われた」という推測に基づいている。
しかしながら、本当に呪われたのは蘇大臣だった。当然、彼は妃候補ではないし、皇族の外戚でもない。国家繁栄に多大に影響を与えうる超重大人物かというと、まったくそんなこともない。本人もそれを自覚して、香家を敵視していたくらいだ。
ゆえに、浮いている。まるで、偶然紛れ込んでしまった異物のようだ。そのくせ、華劉生の幽鬼はほか二人よりも優先して、まっさきに蘇大臣の命を奪いに行った。
まるで蘇大臣こそが本命であり、紅焔と藍玉こそがおまけだったかのような……
「…………まさか、蘇大臣を、阿美妃を奪った仇だと。華劉生はそう認識したのか?」
ぽつりと、まとまらないままに紅焔が呟くと、藍玉が「え?」と目を瞬かせた。純粋に不思議そうだった彼女だが、すぐにハッとしたように目を大きく開く。
「劉生兄さまの幽鬼の本質が旦那さまの言うとおり、母さまの仇を探して彷徨っているなら……」
「ああ。アレが呪いをかける相手も、同じ基準で選んでいてもおかしくはない」
「待ってください。母さまの仇は、医官の鄧彗云なのですよね。……いえ。私も、その情報に完全に納得したわけではないですが」
一旦疑問を飲み込もうとするように首を振ってから、藍玉は美しい薄水色の瞳で紅焔を見上げる。
「とにかく、なぜ兄さまは蘇大臣を母さまの仇だと……鄧彗云と誤認したのでしょう。医官と大臣では立場が異なりますし、顔や背格好も全く似ていませんのに」
藍玉の疑問はもっともだ。紅焔自身、中肉中背で初老の男であった鄧彗云と、恰幅のいい中年である蘇大臣が似ているとは思わない。
(外見や肩書きではないとすれば、何か俺たちの知らないきっかけで、蘇大臣を鄧彗云と結びつけるに至ったのか…‥)
そこまで考えた紅焔は、ふと、園遊会での華劉生の勇気の態度に違和感を覚えた。
「そもそも華劉生の幽鬼はいつ、呪いの対象を俺たち三人に定めたのだろうな」
「といいますと?」
「周公門の幽鬼だ。あの幽鬼が華劉生だったとしたら、園遊会に現れた時とは随分と様子が違うと思わないか?」
雨が降る夜、道行く者たちの背後に現れ、足音だけを響かせる姿の見えない怪異。それが、周公門の幽鬼だった。
幽鬼騒ぎが起こっていた当時、周公門の近くで永倫に保護された子猫のミミから、生前の華劉生に似た気配を藍玉が感じ取っていた。当時は藍玉も半信半疑だったが、状況から判断して、周公門の幽鬼は華劉生だったに違いない。
「周公門での華劉生は、特定の誰かを狙うでもなく、それこそ宵闇を彷徨っていた。だが、園遊会に姿を現した時、彼は明確に獲物を定めた目をしていた」
「……周公門を彷徨っていた劉生兄さまに、何かがあった。その何かのせいで、劉生兄さまは旦那さまと私、蘇大臣を呪いの対象とした……?」
大きな瞳を揺らして考え込んでいた藍玉だが、不意に何かに気付いたように息を呑んだ。薄紅色の薄い唇をわななかせて、藍玉が「まさか……」と呟く。のっぴきならない藍玉の様子に、紅焔は彼女を案じて顔を覗き込む。
「どうした、藍玉? 何か気づいたのか」
「お願いがあります、旦那さま!」
「っ、!」
勢いよく顔をあげた藍玉と、あわや額がぶつかりそうになる。慌てて紅焔は体を引くが、藍玉がさらに前のめりになって紅焔を追いかけてきた。
こんな時だが、紅焔はぐいぐいと迫る藍玉にどきりと胸が跳ねてしまった。さっきまで真剣な光を宿していた薄水色の瞳が、今はキラキラと輝いている。
中身はわからないが、こんな愛らしい妃に『おねだり』されたら、紅焔としては断るという選択肢はない。こほんと咳払いで誤魔化してから、紅焔はせめて厳かに答えた。
「俺にできることなら、なんでも叶えよう」
「むしろ旦那さまにしか、このお願いは頼めません」
藍玉がそこまで言うのは、なかなかだ。思わず姿勢を正す紅焔に、藍玉は鈴の音のように澄んだ声で告げた。
「――――今すぐに、お話をお伺いしたい方がいるのです」




