7-15
その夜、紅焔は夢を見た。
華劉生の幽鬼は、今夜現れる。藍玉からそんな予言を受けておいて、我ながらよく眠れたものだと思う。けれども緊張とは裏腹に、気が付いたときには「俺は夢を見ている」と紅焔は自覚をしていた。
夢には、華劉生が出てきた。
華劉生がいるのは、抜けるような晴天と赤茶けた荒涼とした大地が目の前に広がる、無骨な高台だ。周囲は見渡す限り田畑も民家もなく、ここが楽江の最果てであることを紅焔は知る。
ヒヤリと肌寒い風が、高台を吹き抜ける。その風に長い髪を乱しながら、華劉生は何者かに声を荒げた。
“ありえない! あの方が、阿美妃が、モノノ怪の類であるなどと……!”
握りしめた手を石塀にうちつけて、華劉生がギリ……と歯を噛み締める。
苦悩する若き武人を見守るのは、これといって特徴のない男だ。おそらく天宮城内を検めたら、似た男を三人は見つけられるだろう。
その男が、気遣わしげに華劉生に告げる。
“にわかには信じがたい……。果たしてそうでございましょうか”
“……どういう意味だ、鄧慧云”
“華将軍は、阿美妃の里である『白の里』を発見された方と伺っております。その頃より、あの方や、あの方の一族が普通とは異なることに、気付いておられたのではないですか?”
男の指摘に、華劉生が苦しげに目を逸らす。その表情では、もはや頷いたも同じだ。
しかし――鄧慧云か。その名に引っかかりを覚えて、紅焔は考え込んだ。
最近ではない。だが確かに、どこかで見かけた名だ。
考え込む紅焔の肌を、砂埃の混じる乾いた風が撫でる。その風が、カビ臭い書庫の匂いを思い起こさせ――唐突に、思い出した。
(鄧慧云……! 阿美妃のために蘇芳帝が呼び寄せたという、腕の立つ医官か!)
その名を見たのは、鬼通院の管理する書物庫にあった記録の中だった。無限書庫に閉じ込められたあの日にいくつか記述を見かけたが、今日の今日まで存在も忘れていた。
記録に初めて鄧慧云が登場するのは、阿美妃が二人目の子を死産したあとだ。阿美妃の体を案ずる蘇芳帝が国中の医者を集めさせ、その中で特に覚えのめでたかった鄧慧云が、阿美妃専属の医官となった。
だが、妙だ。
目の前の景色や、先ほどの鄧彗云の発言から察するに、二人がいるのは北領のハズレにある軍事砦あり、時期的には華ノ国の末期だ。
王都で寵妃の専属医官として重宝されていた鄧慧云が、なぜこんな場所にいるのだろう。
その疑問は、続く鄧彗云の発言ですぐに解消された。
“陛下は華将軍が都におわした時に増して、阿美妃の祈祷に入れ込んでおられます。異を唱える者はすぐに処刑し、最近では、医官であろうとも阿美妃に近づくことを許しません。まるで、阿美妃の力を誰かに奪われるのを恐れるように……”
“だから、お前も宮廷を追い出されたのだと。北の砦を訪れた日に、お前はそう話したな”
“陛下の阿美妃への熱のいれようは異常にございます。阿美妃のみの言葉を聞き、阿美妃のみを傍に置き、逆らう者は誰であれ命をもって償わせる。阿美妃が、あの摩訶不思議な力を使って陛下を狂わせているのは、火を見るより明らかにございます”
なるほど、と紅焔は納得した。たしかに、この国は滅ぶ直前だ。
皇帝は阿美妃――あるいは阿美妃の力に入れ込むあまり、医官である鄧慧云をも阿美妃から遠ざけさせた。そんな皇帝の姿に危機感を覚えた鄧慧云は、皇弟である華劉生を頼った——。流れとしては、ざっとこんなところだろう。
“もう限界にございます。狂った皇帝とモノノ怪の好きにさせたら、より多くの血が流れ、大勢の命が失われることになりましょう”
鄧慧云の言葉に、華劉生は悩ましげに美しい顔をゆがめている。その葛藤が、紅焔には手に取るように分かった。
華劉生は白の里を見つけ出し、蘇芳帝と阿美妃を引合せた張本人だ。以来、阿美妃の様子を気にかけ、麓姫のことも可愛がってきた。
同時に、間近で見てきたからこそ、阿美妃の人ならざる能力に気付いていたに違いない。その力を頼りにする兄帝が、どんどんおかしくなっていることも。
阿美妃を信じたい。だが、皇族に名を連ねる者として、狂った王に悲鳴をあげる華ノ国の現状を放っておくこともできない。
似ている、と思った。
華劉生の姿は、兄を討ったかつての自分と重なって見えた。人としての情を取るか、皇族としての責務を果たすか。その分岐点に華劉生はいる。
逡巡する華劉生に、鄧慧云はそっと寄り添うように告げる。
“華将軍はお優しい。蘇芳帝の凶行を知り、御身も不当な扱いを受けていながら、兄君に正気が残っていると信じておられる。――ですが、時間の問題にございます”
“なに?”
“この地に向かう途中、各地で物資や人を集める動きを見ました。目立たないように気をつけてはいましたが、戦の準備であるのは明らかにございました”
戦を起こすには準備がいる。それは武器の類であったり、食料であったりするが、注意深く観察すればきな臭い動きはそれとなく伝わるものである。
表情を硬くする華劉生に、鄧慧云はなおも言い募る。
“貴方様が動かずとも、誰かが近いうちに狂王を討つでしょう。ですが、その役目に最もふさわしい者は貴方様をおいて他にいません。だからこそ私は、はるばる北の砦まで足を運び、都の現状をお伝え申し上げたのです……!”
“……俺ではない誰かが、あの方を”
土壁に手をついた華劉生がそう呟くのを、紅焔は確かに聞いた。
一度伏せた瞼をあげた時、華劉生の瞳には静かな決意が宿っていた。
荒涼とした大地を見下ろす華劉生の横顔を見た時、紅焔は察した。兄帝も、阿美妃も。他の誰かが終わらせるくらいなら、せめて自分の、この手で。そう華劉生は覚悟を決めたのだ。
だから彼は挙兵した。その身を鎧に包み、大軍を率り、都に攻め入った。
なのに。――なのに。
立ち上った真っ黒の炎が、不意に紅焔の視界を遮る。激しい怒りが、絶望が、憎しみが、空も大地も人も関係なく平等に包んでいく。
『許すものか』
地を這うような声と共に、底なし沼のように落ち窪んだ漆黒の双眼が、目の前に現れた。
漆黒の闇の中で、メラメラと燃える炎の熱気が揺れているのを感じる。
暗闇の中で、いつのまにか紅焔は倒れていた。その上に、青白い顔の幽鬼――華劉生が、じっと紅焔に覆いかぶさっている。
紅焔の喉がひゅっと鳴った。
生前の眉目秀麗な武人の姿は、そこにはない。おぞましい怨念を全身から迸らせ、悪霊となり果てた華劉生が呻く。
『――許すものか。俺が見送るはずだった。俺が弔うはずだった。なのに、奪われた。お前が奪った。お前が、お前が、お前がお前お前お前オマエオマエオマエオマエェェェェ!』
後になるにつれて華劉生が激昂し、視界がビリビリと震えた。熱をはらんだ空気が重くなり、全身を潰されるような息苦しさに襲われる。
だが。
(生憎。悪霊とやらに祟られるのは、これが初めてではないんでね)
指先ひとつ動かせないまま、それでも紅焔は、自分を鼓舞して笑みを浮かべる。
一度目は自らを呪う己自身が。二度目は大妖狐から溢れ落ちた呪いのかけらが。
ひとりでは身がすくんでしまうような悪意に晒され、だけどその度に紅焔はひとりではなかった。
今度だって、きっと同じ。姿は見えなくたって、きっと彼女も、この夜のどこかで戦っている。
妃が勇ましく戦っているのに、この地を統べる皇帝が怯えて縮こまってはなんとする。
「お前とは誰だ?」
体が動かない中、紅焔は叫んだ。一応は、言葉が耳に届くくらいの理性は残っているのか。枝垂れのような黒髪が揺れて、華劉生が口をつぐむ。その隙を逃さず、紅焔は続けた。
「華劉生。都に登ったそなたが蘇芳帝を討ち、阿美妃を処したと伝わっている。違うというなら示せ。1000年前何があった。そなたが阿美妃の命を断ったんじゃないのか?」
『違う!』
再び、華劉生が吼えた。感情の昂りによるものか。長い黒髪が青白い炎となって燃え上がり、牢獄のように紅焔を閉じ込める。
『俺にあの方が殺せるものか。俺にあの方が奪えるものか。ああ、そうだ。俺は出来なかった。出来なかったのだ!!』
「だが、事実として阿美妃は処刑され、彼女の呪いが華ノ国を滅ぼした。そなたではないなら、誰が阿美妃を殺した? なぜ阿美妃はこの地を呪った?」
『あああーあアアアアアアアアアァァァァ!!!!』
華劉生が身をよじり、絶叫する。
その裏で、紅焔は何者かが自分を呼ぶ声を聞いた気がした。直感的に、夢の終わりが近いことを紅焔は悟る。
まだ、何か情報を引き出せないか。焦る紅焔の視線の先で、華劉生は両手で顔を覆った。
『……殺してやる』
骨ばった手がゆっくりと下がり、鋭い爪が青白い肌を裂く。鮮血が二筋、まるで涙のように、くっきりと華劉生の頬に浮かぶ。
呪うように。泣くように。華劉生は、短く吐き出した。
『殺してやるぞ、鄧慧云』
「お目覚めを、陛下!!!!!!!」
聞き覚えのある声が響き、ぐいと腕を引かれる心地がした。息を呑んだ次の瞬間、紅焔は見慣れた紫霄宮の寝所で目覚めた。




