7−14
鬼道院は、七日七晩宮廷に入った。
けれどもその間、華劉生の幽鬼は一度も目撃されなかった。
(一体どうなっているんだ?)
園遊会で発見された木彫りの人形を眺めて、紅焔は困惑する。
人形のひとつは淵春明、ふたつは尹嘉仁が管理してきた。今は春明が預かっていたほう――つまりは紅焔の前に現れたものを、一時的に取り戻している。
淵春明と藍玉の両名が、人形に宿る強い念から、日を待たずに幽鬼が現れると見立てた。にもかかわらず、園遊会での混乱が嘘のように、宮中で幽鬼の気配は微塵もしていない。
紅焔とて、好んで幽鬼に襲われたいわけではない。だが、出ないは出ないで面倒もある。
その筆頭が、蘇大臣だ。
「蘇大臣はなんだって、娘の凛風姫を春陽宮から出せなどと言うんだろう」
紅焔の横で首を傾げるのは、近衛隊長の梁永倫だ。今は近くに他の護衛武官がいないため、幼馴染として口調は砕けている。
蘇大臣から「娘を連れて帰りたい」との訴状が届いたのは、これで2度目だ。今朝は御前会議で本人から直接紅焔に訴えまであった。
はじめはひどく取り乱していた蘇大臣だったが、幽鬼が一向に現れないことで気が大きくなったらしい。厄介なことに、蘇大臣だけではなく、他の大臣も凛風姫を春陽宮に留めることに首を傾げ始めている。
蘇大臣からの訴状を呪いの人形の横に投げ捨てて、紅焔は椅子の背にもたれた。
「蘇大臣は香家を目の敵にしているからな。香家の息がかかる春陽宮に、長く娘を留めたくないんだ」
「娘が呪い殺されるかもっていう一大事だよ。そんな意地をはっている場合なの?」
「意地というより被害妄想だ。藍玉や香家からついてきた女官たちが、幽鬼騒動にかこつけて、凛風姫を害そうとするのではと不安になったに違いない」
香家も蘇家も、共に朝廷に高官を大勢送り込む名家だ。けれども、同じ有力貴族の間にも、優劣の差というのは存在する。
李家が瑞国を統一する前、楽江の地は大別すると四つの国に分かれていた。現在瑞国の政治を支えているのは、もとはそれぞれの国で力を持っていた有力貴族だ。
まずは李家。言わずと知れた、四朝を統一してひとつの国家にせしめた、瑞の皇族である。
続いて香家。旧北朝に支えた家だが、紅焔の父、李流焔が前西朝を倒して楽江統一を掲げたとき、まっさきに同調して李家と手を組んだ。
そして梁家と、孫家。梁家は旧西朝、孫家は旧南朝に支えた家だが、両者は共通して楽江統一の戦いで武勲をあげ、いまの瑞国でも重要な地位を与えられている。
それらの家とはいくらか劣ったところに位置するのが蘇家だ。
蘇家が支えた東朝は、楽江統一に反発して激しく抗った。最終的に戦乱を抑えて瑞国に降る際、旧東朝をまとめ上げた立役者が蘇家だ。
その功績により蘇家は瑞国中央に迎え入れられたが、いかんせん他家に比べて合流が遅かった。そのせいで、朝廷内の勢力争いという意味では他三家に劣っている。特に、同じ外様であるはずの香家には、大きく差が開いてしまっている。
唯一、その大差を埋めうる方法。それはもちろん、自分の娘が皇子を産むことである。
だからこそ蘇大臣は、凛風姫を紅焔の妻にすることを切望しているのだが。
「なのにコウ様は、香家の藍玉姫を春陽妃に迎え入れただけで、ほかの姫の後宮入りは拒んだまま……」
「疑心は後ろめたさの裏返しだろう。唯一の妃である藍玉を疎ましく思っているから、相手も同じと思い込む。だから、藍玉や香家の女官たちが凛風姫に害をなすかもなんて、被害妄想を思いつくんだ」
「コウ様のせいじゃないですか! どうすんのさ、ほんとに蘇大臣が凛風姫を連れ帰ってしまったら!」
「ふむ……」
永倫の懸念は本当になった。その日の昼過ぎ、蘇家の者たちが輿を携えて春陽宮の正門前に現れ、「凛風姫をお迎えに上がった」と取り次ぎの女官に告げた。報せを受けた紅焔が駆けつけた時には、すでに凛風姫は蘇家に屋敷に発ったあとだった。
「なぜ蘇凛風を行かせた」
思わず紅焔が詰め寄ると、藍玉は逆に紅焔を睨んだ。
「文句を言いたいのは私のほうです。なぜ、蘇家の好きにさせたのですか? 突然押しかけられ、『皇帝陛下も承知である』などと外で粘られたら、凛風様も出て行かざるを得ないでしょう」
「俺が承知だと!? 連中、よくもそんなことをぬけぬけと……!」
「その様子ですと、旦那さまが凛風様を蘇家に戻すのを了承したというのは嘘なんですね」
「当たり前だ。華劉生の霊のことはまだ何も片付いてはいない。人形の呪いが消えたわけでもあるまいし、いつ彼女が狙われるか……」
「全くその通りですので、手は打ちました」
嘆息する藍玉に、紅焔は口をつぐむ。その時になって初めて、そういえばいつもならとっくに茶々を入れてくる二人の姿が見えないことに、紅焔は気付いた。
「玉と宗はどこだ。今日はまだ一度も顔を見ないが」
「鋭いですね、いい着眼点です」
「俺が君に理不尽な物言いをして、あの二人が黙っているわけがない」
「ご推察の通りです、旦那さま。ここに玉と宗はおりません。私が、凛風様をお守りするよう二人をついていかせました」
「……よく蘇家の者が了承したな。春陽宮に仕える者が、蘇家の屋敷についていくなど」
「二人は変化の術で、蘇家の従者の中に紛れ込ませています。あの姿なら、問題なく凛風様のおそばにおれますでしょう」
それを聞いて紅焔はいくぶん安心した。玉と宗は見た目こそ幼いものの、立派な妖狐だ。淵春明も、鬼通院の術師を蘇家に送って守らせると話していたが、玉と宗もいるなら心強いことこのうえない。
ほっと息を吐く紅焔に、藍玉が小さく微笑む。けれども彼女は、整った顔をすぐに険しくした。
「ですが、旦那さま。油断は禁物です」
「もちろん、俺は油断などしない」
「そうではなく。なにやら胸騒ぎがするのです」
立ち上がった藍玉がそっと紅焔の手にふれて、紅焔は一瞬どきりとした。驚いて顔をあげれば、藍玉の真剣な薄水色の瞳が自分を見つめている。
美しい瞳に魅入られそうになる自分を押し留めて、紅焔は務めて平静に尋ねる。
「気配を感じたのか? 華劉生の……あるいは、君の母君の霊力を」
「そうではありません。ただ、予感がするのです」
「予感?」
首を傾げる紅焔を大きな瞳でまっすぐに見上げて、藍玉ははっきり告げる。
「気をつけてください、旦那さま。劉生兄さまは、今夜現れます」




