7−13
空は分厚い雲に覆われていて、月明かりどころか星の瞬きすらもない。
重苦しい闇の中、湿った風だけがびゅうびゅうと木々を揺らしている。
そんな面白みのない夜に特筆すべきことがあるとすれば、夜闇の中に無数の呪術師たちが佇んでいることくらいだ。
(三十名……いえ、もっとでしょうか)
春陽宮でこうなのだから、紫霄宮にはもっと大勢の術師が詰めかけていることだろう。
それとも、皇帝のそばには鬼通院の長である淵春明がつくだろうから、その分、術師の人数は春陽宮に裂いたのだろうか。
どちらにせよ、ご苦労さまとしかいいようがない。
(まあ、劉生兄さまの幽鬼本体があらわれたら、彼らに指一本触れさせる気はありませんけどね……)
闇が深くて互いの顔が見えずらいためか、術師たちが藍玉を機に止める様子はない。彼らと適度に距離をとりながら中庭を歩いていく途中、藍玉はなぜ詠唱が不意に止んだのか理由を理解した。
(なるほど。この場を統括する、親玉がおいでになったんですね)
木のかげに隠れて様子を伺いながら、藍玉はふふんと鼻を鳴らす。ボス猿よろしく呪術師たちを集めてふんぞりかえるのは、尹嘉仁だった。
藍玉が尹嘉仁を見るのは、ひとつ目の狐事件の夜以来だ。あの時はひとつ目の狐にやられて伸びていたが、今日は偉そうに鼻の穴を膨らませてふんぞりかえっている。
いやに得意げに、尹嘉仁は部下たちに向けてご高説を垂れ流していた。
「よいか! 淵法師は、春陽宮の守りは我々に任せると仰せだ! その意味を深く胸に刻み、ひとりひとりが最大限に力を尽くそうぞ!」
見回りのために呪術師たちが散った隙を見計らって、藍玉はこっそり尹嘉仁に近づく。そして「言ってやったぜ」とでも言いたげな満足げな背中に、飄々と声をかけた。
「こんばんは、尹法師。お見事な号令でした」
嘉仁は飛び上がった。ギョッとして振り返った赤髪の大男は、藍玉を見下ろすと、人相の悪い顔を驚きに染めた。
「お、お、お前は〜〜〜っ!」
「覚えておられましょうか。前回お会いしたのは、城下にございました。たしかその時、あなた様はひとつ目の狐にやられて宙を舞っておられたような……?」
「覚えているわ! 貴様、なぜここにいる!?」
口から泡をを飛ばして、尹嘉仁が勢いよく藍玉を指さす。たった二回しか顔をあわせていないのに、向こうもばっちり(変装中の)藍玉を覚えていた。
興奮に顔を真っ赤にするか嘉仁に、けろりと藍玉は肩をすくめた。
「なぜって。私もあなた様と同じです」
「同じだと!?」
「陛下よりご下命いただいているのです。園遊会に現れた霊より、陛下と春陽妃様をお守りせよと」
藍玉の言葉を聞くと、嘉仁は嫌いな虫をみつけてしまったかのような顔をした。同時に、いよいよ怪しげに藍玉を見る。
「……以前より不思議だった。あの夜、ひとつ目の狐を祓ったのはお前か? お前が我らと同じ呪術師だとして、その力はどこで手に入れた?」
「お答えする前に、ひとつよろしいですか?」
「なんだ」
「私のこと、お前、と呼ぶのはやめていただけませんか。先ほども申し上げましたが、私は皇帝陛下じきじきに、ご下命をいただいてここにいるのです」
尹嘉仁はますます渋い顔をした。内心にやりと笑いつつ、藍玉は澄ました顔で続ける。
「いえね。陛下が鬼通院にもじきじきに宮中の警備をご依頼なさったのは伺っていますよ。ですけどね。私も、陛下よりじきじきにお声がけいただいているんです。『じきじき』仲間なのですから、私だけ尹法師をあなた様とお呼びするのは、どうにも釣り合っていないような気がいたしまして……」
「わかった。わぁかった!! 貴方様は! いったいどこのどちらさまで! どこでそのお力をお手に入れやがりましたんでしょーか!?」
やけくそに叫んだ嘉仁に、藍玉は顔を隠してニヤニヤと笑った。
前回は鬼通院への不快感が勝って噛みついてしまったが、なかなかどうして、この尹嘉仁という男はからかいがいがある。
下手くそなりに敬意を示してくれた以上、無視するわけにはいかない。ギリギリと音が出そうなほどこちらを睨む嘉仁に、藍玉はこほんと咳払いをしてから嘉仁を見上げた。
「秘密です」
「なあ!?」
「呪術使いなのはあっています。鬼通院とは別の流派ですね。これ以上は私の口からはどうにも」
「おま、それは礼儀知らずだろう! こちらも、それなりの態度を示したのだ。少しはこちらの質問に答えてくれても……」
「私、皇帝陛下の『秘密』で『特命』な家臣なもので。そもそも呪術師というもの、流派が違えば深入りしないのが当たり前でしょう」
人間界の決まりを持ち出せば、嘉仁は「ぐぬう」と呻いた。実際、呪術はいくつかの流派に分かれており、その教えは門外不出のため互いに深く関わらないようにするのがマナーである。
嘉仁は不満そうに赤髪をかきまわしていたが、やがて諦めたように舌打ちをした。
「まあ、いい。お前さんは皇帝の秘密の家臣で、公には存在していない。そんで今夜は、俺たち鬼通院とは別に、例の幽鬼から宮廷を守るように皇帝に遣わされた。そういうことだな」
「話が早くて助かります。印象に反して、頭の回転が早くていらっしゃるんですね」
「ああ!?」
「ご挨拶に伺ったのは、今後の行動に支障が出ないようにするためです。なにせ私は、これから貴方がたの獲物を掠め取り、件の幽鬼を祓うのですから」
藍玉がそう告げると、尹嘉仁のまとう雰囲気がガラリと変わった。太い眉根を寄せて、嘉仁は鋭く目を細める。
「……言うじゃねえか。ひとつ目の狐の時と同じく、お前さん一人で手は足りるってか」
「そこまでは申しませんが、相性的に私に利があるのは確かです。――手柄はさしあげます。ですので、件の幽鬼が現れたら私に任せていただければ……」
「やなこった」
藍玉を遮り、嘉仁が吐き捨てる。藍玉が小首を傾げると、嘉仁は挑戦的に鼻を鳴らした。
「あまり俺たちを舐めるなよ。中身のない手柄なんざ、こっちから願い下げだ。秘密だが特命だか知らねえが、お前さんはお前さんで好きにやれ。こっちもそうさせてもらうからよ」
そう言って、嘉仁は藍玉を置いてさっさとどこかに言ってしまった。風がびゅうびゅうと吹く夜空の下、藍玉は仕方がないと肩をすくめる。
もとより、嘉仁が素直に幽鬼を譲るとは考えていない。声をかけたのは、姿を隠したままでいるより行動しやすいと判断したからだ。
曇天の下、藍玉は息を吸って、長いまつ毛に縁取られた目を閉じる。そうやって感覚を研ぎ澄まし、この夜のどこかに身を潜めるか華劉生の幽鬼に思いを馳せる。
――瞼の裏に浮かぶのは、叔父の柔らかな笑みだ。
叔父の優しい笑顔が好きだった。じゃれつく自分を「はしたないですよ、姫さま」と諌めながら、華劉生は困ったように目を細めて微笑んでいた。
あんな……園遊会で見せた、恨みと憎しみにそまった歪んだ笑みを浮かべるような人ではなかった。
(そもそも、園遊会に現れた劉生兄さまは、いつの姿なのでしょう)
華劉生の幽鬼は、分厚い鎧を身につけ、手には長い矛を持っていた。生前の彼は馬上で矛を振るって戦うのを得意としたから、その名残りだろう。
大抵の幽鬼は、命を落とした時と同じ姿で現れる。だけど華劉生の幽鬼は、戦場にいるかのようだった。
(劉生兄さまが命を落としたのは、お母さまの処刑を行った直後のはず。なのに、なぜ劉生兄さまの幽鬼は鎧など着ているのでしょう)
伝承によれば、阿美妃の首を落としたのは処刑人だ。華劉生はそれを見守ったが、直接手は下していない。彼が鎧を身につける必要はない。
もっとも、幽鬼が生前を象徴する姿で現れる――たとえば名のある武人の幽鬼が戦場で目撃される場合もある。
華劉生の場合、大軍を率いて王都を制圧したのち、その手で皇帝の首を刎ねた経緯がある。幽鬼として現れたのは、その時の姿かもしれない。
(劉生兄さまがなぜあの姿をしているのか。それがわかれば、兄さまの幽鬼を形作る想いの核が何かも、明らかになりそうですね)
そして、おそらくそれは、千年前に母と劉生の間に何があったかも解き明かしてくれる。そんな予感が、ひしひしとした。
藍玉は姿勢を正し、感覚を研ぎ澄ます。ここ春陽宮だけではなく、こっそり隠した札を通じて紅焔のいる紫霄宮の気配も確かめることができる。
少しの異変も見逃さないよう、藍玉は一晩中気を張り詰めた。
――しかしながら、藍玉や鬼道院の淵春明の予想を裏切って、ついに華劉生の幽鬼は朝まで現れなかった。




