7-12
湿った風が雲を運んできて、その夜は重く息苦しい、曇天の夜空となった。
風は強くなるばかりで、ガタガタと窓硝子を揺らしている。時折、木々の間を吹き抜ける風が獣のような唸り声をあげて、その度に凛風が不安そうにぴくりと肩を揺らした。
(外の術師たちも、この天候では大変ですね……)
玉と宗が火をいれてくれた灯籠を眺めて、藍玉は小さく嘆息をした。
夜はまだ始まったばかり。夫から聞かされていたように、春陽宮の殿舎の中と外には、複数の術師たちの気配がある。
普段は男子禁制の後宮に、皇帝の特別な許しを受けて多数の男が出入りするのだ。女官たちははじめこそ浮き足だっていたが、日が落ちてからは幽鬼に怯えてすっかり大人しくなっている。
だからだろうか。皆が息を潜めているせいで、風の音がやたらと耳につく。
その合間に混ざる、術師たちがつむぐ、聞き慣れない呪術の言葉も。
(主殿に幽鬼が入り込まないよう、結界を上乗せしているようですね。どういう術を使うのかはお手並み拝見ですね)
藍玉はちょっぴり意地悪く、外に耳を澄ませる。そんな藍玉を、凛風がじっと見つめている。
凛風の視線に気づいた藍玉は、こてんと首を傾げた。
「? なにか?」
「あ、いえ。申し訳ありません……」
「謝る必要などありません。それとも、私の顔を眺めながら、何か謝らなければならないようなことを考えていたのですか?」
「そ、そんなことは!」
慌てる凛風に、藍玉は小首を傾げる。
蘇家は旧東朝出の貴族だ。旧北朝出勤の香家とは距離も遠く、付き合いは薄い。
そもそも他の人間との関わりは最低限にとどめてきた藍玉は、凛風とも当然初対面だ。きちんと言葉にしてくれなければ、心中を察してやることなんかできない。
藍玉がじっと見つめれば、やがて凛風は観念したように桜色の唇を開いた。
「ただ、少しだけ打ちのめされておりました」
「打ちのめされる? 何にですか?」
「皇帝陛下と春陽妃様の仲睦まじいご様子が、お噂の通りでしたので……。ここに父がいたら、さぞ悔しがるでしょう」
苦笑をする凛風に、藍玉はしばしきょとんと瞬きする。それから、はっ!と気づいた。
(そういえば、凛風様にとって私は、旦那様を巡る憎き恋敵なのでした……!)
前世で女たちが母に向けていた憎悪の眼差しを思い出し、藍玉はひとり戦慄する。
だけどもすぐに、凛風が今し方口にしたことを思い出して首を傾げた。
「お父様というと、蘇大臣ですか?」
気を失った娘の近くでわあわあと騒いでいた、恰幅のいい男の姿が瞼の裏をよぎる。
藍玉に頷き、凛風は困ったように笑った。
「父は、蘇家を盛り上げることに人生をかけているのです。だから私にも、なんとしても陛下の心を射止めて、1日も早く皇子を産めと…………あっ」
「えっと……それは、その」
「も、申し訳ありません! 春陽妃様に、このようなこと……。どうか今しがたの私の発言は、すべてお忘れください」
大慌てで、凛風が頭を下げる。
そのつむじを眺めながら、けれども藍玉は、同情に似た感情を凛風に抱いていた。
(そういえば私も、香家の女房には似たようなことを日々言われましたね)
麓姫としての記憶を持つ藍玉には、王都に上りたい別の目的があった。だから大して気にしていなかったが、香家の者たちは、藍玉を皇帝の妃として送り出すことに並々ならぬ熱意を持っていた。
女の役目がどうとか。国母の心得がどうとか。皇帝の心を掴む手管とがどうとか。お家のためがどうとか。
全部が全部。自分の意思と関係なく、勝手に周りから押し付けられた。
重ねてとなるが、藍玉には別の狙い、別の目的があった。だから表面だけは従順なふりをして、右から左に聞き流せた。
だけど、全部を受け止めていたなら。女の生き方はそれしかないと、洗脳のように思い込まされていたのなら。
そんな人生はなんて、息苦しいものとなっていただろう。
――そうやって、生きながらにして鬼に堕ちてしまった人たちを、前世で大勢見てきたから。
藍玉は軽く肩をすくめて、明るく笑って見せた。
「私も、実家の期待がわずらわしいという意味で、おんなじ境遇です。気持ちはわかりますので、気にしないでください」
「春陽妃様も……?」
「人間の世で、女に産まれ落ちた窮屈さは、どこも似たり寄ったりでしょう?」
あえて軽い調子で言ってみせると、凛風はなんと言ったらいいのかわからない、途方に暮れたような顔をした。
ややあって、凛風は後ろめたそうに目を逸らして笑った。
「そういっていただけて、少しだけ心が軽くなりました。だけど。やっぱり私は、春陽妃様は私とは違うと……うらやましいと、思ってしまうのです」
「どうしてですか?」
「家に従っただけだとしても、春陽妃様と陛下は思い合っているではありませんか」
それは違う。とっさに否定しそうになって、藍玉は額に落とされた唇の温かさを思い出してしまった。
「……どうしました?」
「あの、お気になさらず」
パタパタと空中を仰いで熱を逃がそうとする藍玉に、凛風が首を傾げる。
まあ、いい。夫によれば、自分たちには『溺愛演技』が必要らしい。せっかく凛風が勘違いしてくれているのに、わざわざ否定するわけにもいくまい。
こほんと咳払いをして、それでもやっぱりこれだけは伝えておきたいと、藍玉は凛風を見る。
「もし私が特別に見えるなら、目を向けるべきはそこではありません」
「と、いうと?」
「たまたま香家の思惑通りなだけで、私は実家に従って、旦那さまに嫁いだわけではないということです」
凛風が訝しむように眉根を寄せる。
うまく伝えられない。伝える言葉がわからない。それでも。前世でも、憎しみに呑まれた人たちを大勢見てきたからこそ、これだけは知っていてほしい。
「どんなに周りに強制されたって、最後に自分の人生を決めるのは自分自身です。誰かのせいだと憎んでいると、結局それが巡り巡って、自分を苦しめる呪いになるんです」
もちろん、逆だってある。己の罪に正しく目を向けて、心優しいが故に誰よりも自分を嫌悪して。そうして自らに罰を下そうとした男を、藍玉は知っている。
だけど、藍玉は見てきた。争おうともせず、ただ世を呪い、人を呪い。そうして、自分は世界一不幸なのだと自らを追い詰めて。生きながらにして、心に鬼を宿した悲しき者たちを知っている。
そうなって欲しくないと、切に願う。
「なにひとつ納得できないなら、そうしろと強制するひとたちに唾を吐いて、足蹴にしたっていいんです。そうしちゃいけない理由はどこにもないんです。だって、あなたの人生はあなただけのものだから」
「そんな……」
「私は私の目的のために、後宮に入ったたのです。だから旦那さまとの関係がどのようなものとなっても、後悔しなかったと思います。――この先、凛風様が何か悩むことがあれば、チラリと思い出していただければ幸いです」
自分でも何が言いたいのかわからなくなってきて、強引に藍玉は締めた。凛風はというと、やや呆気に取られたように藍玉を見つめている。
やがて凛風は、藍玉には聞こえない微かな声で、ポツリと呟いた。
「だって。そんなこと言われたって。私は、もう……」
藍玉は気づかなかった。凛風の声が小さかったためだけではない。それまで絶え間なく外で続いていた詠唱が、不意に静かになったのに気を取られたからだ。
(外で何か動きがあったのか……。いずれにせよ私も、そろそろ動き始めたい頃合いですね)
ひとり納得をして、藍玉は凛風に白魚のような手を向けた。
「すみません、凛風様」
「え?」
「あなたを守るという言葉は、本当ですから」
そう言って、藍玉は指先に力を流した。途端、人差し指の先に魔術陣が浮かび上がる。
凛風は驚いて目を丸くしたが、次の瞬間、一言も声をあげることなく眠りについた。
「玉、宗」
「はい、姫さま」
力をなくした凛風を腕に抱きながら呼べば、当たり前のようにすぐ後ろから二人の従者の答えが返ってくる。
振り返った藍玉は、膝をついて指示を待つ二人の狐を交互に見つめた。
「凛風様を頼みます。私が外に出たら、部屋ごと結界で封じるように」
「わかりました」
「二匹してここに残る必要はなくない? 玉はこの娘のそばにいるとして、ボクは姫さまについていくっていうのはどう?」
「私を誰だと思っているのです。悪霊ごときに、遅れをとる私ではありません。言われた通りに、この娘を絶対に守り抜きなさい」
「姫さまの仰せのままに」
首を垂れた宗に頷いて、藍玉は立ち上がった。幸いにして、以前夫と街に出た時に身につけた男の装いがある。
手早く着物を脱ぎ、男の装いに身を包んだ藍玉は、軽やかに殿舎の外に足を踏み出した。




