7-11
紅焔が春陽宮に辿り着いたのは、遠く山の陰に日が沈もうとする頃だった。
先に春陽宮に来ていた侍従らは紅焔の無事を喜び、護衛武官長である永倫には若干叱られた。
けれども幼馴染の苦言など、美しい妃の静かな怒りの前には瑣末なものだった。
「随分お早いお越しですね、旦那さま。私てっきり、旦那さまは朝までお越しにならないのだと思っていました」
整った白皙の顔に満面の笑みを浮かべ、嫌味たっぷりにのたまった藍玉に、紅焔は「これはまずい」と直感した。どうやら彼女は、鬼通院にひとつ目の狐のことを依頼した時よりもご立腹らしい。
にこにこと怒気を放つ美しい嫁に、紅焔は早々に白旗をあげてその場に膝をついた。
「藍玉、すまない。許してくれ」
「おかしな旦那さま。私が一体、何を怒っているというのでしょう」
「鬼通院だろう。君への相談なく、彼らをこの件に関わらせた」
藍玉が難色を示すのは、簡単に予想がついた。
もとより藍玉は、鬼通院をよく思っていない。彼らの扱う呪術が、藍玉の信条と反するのが理由だ。
“鬼通院には、他にも死者を現世に縛ることを是とする術――式神隷従の術があります。その末路がいかに悲惨か知りながら邪道を受け継いできた鬼通院が、私は好きになれません“
ひとつ目の狐事件の時にそう語った藍玉は、実際、嘉仁が餓鬼を使役しているのを見て怒りを露わにしていた。幽鬼にとって最も残酷なことは、現世に留まり続けること。そう考える藍玉にとって、前世の母である阿美妃はもちろん、それ以外の霊についても現世に縛ることを良しとする鬼通院のやり方は我慢がならないらしい。
(それに今回の幽鬼は、あの華劉生だ。藍玉が、鬼通院の横槍を歓迎するわけがない)
前世の彼女が実の父のように慕った者。そのくせ、彼女の母の命を奪った者。
藍玉の最終目的は、阿美妃を千年の呪いから解き、成仏させることだ。藍玉が華劉生に抱くであろう複雑な心情をなしにしても、彼は阿美妃がなぜ史上最悪の悪霊に転じてしまったのかの重要な手がかりになりうる霊である。
ようやく、千年前の真実に繋がる糸口が見つかったのだ。藍玉の気持ちは痛いほどよくわかる。
だからこそ紅焔は、彼女に詫びたのだ。鬼通院を宮城に呼んだのは香大臣だが、紅焔も彼らを締め出しはしなかった。そういう意味で、紅焔は彼女の怒りを受け止める必要がある。
けれども藍玉は、意外にも首を振った。
「みくびられたものですね。私も、それくらい想像つきました」
「鬼通院の術師たちが来るとわかっていたのか?」
「あの場には大勢のお役人、それも超重要人物が集まっていたんです。そんな公式の場で皇帝が呪われたんです。旦那さまが何もしなくたって、おじさまが鬼通院を呼びつけるに決まってるじゃありませんか」
「……しかし」
「来てしまったものは仕方ありません。旦那さまの立場上、あのひとたちを追い返すわけにもいかないですし。こちらとしては、せいぜい邪魔にならないよう、利用させてもらいますけどね」
肩をすくめた藍玉は、強がっているようには見えない。紅焔の手前、矛を納めてくれたというわけでもなさそうだ。
では、藍玉は何を怒っているのだろう。――いや。怒っているというよりは、ピリリと張り詰めているような。
(なんて、考えるまでもないか)
整った白皙の顔を眺めて、紅焔はぐっと膝の上の手を握った。
落ち着いて見えて、きっと彼女も不安なのだ。
周光門の幽鬼の正体が華劉生ではないかと議論になった時、藍玉は真っ向からそれを否定した。彼女が言うことには筋が通っていたが、一方で紅焔は、周光門の霊が華劉生でないことを藍玉が望んでいるようにも感じた。
おそらく「彷徨い続けることが幽鬼にとって最も残酷なこと」という彼女の考えによるものなのだろう。母の仇であっても、藍玉は華劉生を恨みきれずにいる。だから、かつて自分を可愛がってくれた華劉生が、自我を喪ったまま千年もこの世を彷徨ってきたと考えたくない。
けれども事実として、華劉生は変わり果てた姿で彼女の前に現れた。そうして今、藍玉は阿美妃を解放するという悲願を叶えるために、大好きだった叔父の真実と向き合うことを余儀なくされているーー
藍玉の痛みは、不安は、どんなにか大きいことだろう。
「大丈夫か」
紅焔が手を重ねると、藍玉がハッとしたように視線を上げた。藍玉の薄水色の瞳と、紅焔の真紅の瞳が交わる。
心の奥底の本音を見逃さないように、紅焔は真剣に藍玉を見つめた。
「ひとりで全部背負うな。なんのために、俺がいると思っている」
藍玉の瞳が揺れた。恥じらうように視線を外した彼女は、けれども、穏やかに苦笑した。
「無理をしていない……と言えば嘘になりますけれど、そこまででもないんです。私自身、もっと心が乱れると思っていたのですが」
「華劉生の幽鬼を見つけたのに?」
「あの方の幽鬼が存在してしまった以上、巡り会えたのは僥倖です。……千年前に何があったにせよ、私は劉生兄さまにこれ以上苦しんで欲しくない。それにこれは、劉生兄さまがなぜ母を討ったのかを知るいい機会です。いずれにせよ私は、いつか真実と向き合わなければならなかったのですし」
「必要にかられるのと、いざ覚悟を決められるかは別だろう」
「その通りです。だから、自分でももっと狼狽えると思っていました。だけどそうはならなかった。それがなぜか、旦那さまにわかりますか?」
突然問われて、紅焔は「いや……」と言葉を濁すしかない。そんな紅焔を、藍玉はまっすぐに見つめた。
「あなたです、旦那さま。あなたという存在が、私を奮い立たせるのです」
「……俺が?」
「少し前まで、私は狐の生まれ変わりでしかありませんでした。でも、今の私は香藍玉で……あなたの妻です。――だから。劉生兄さまが、旦那さまをも呪うというのなら」
蘭玉はそこで、ぐっと唇を噛み締めた。
その瞳に怯えはなく。運命の巡り合わせへの悲壮感もなく。ただただ、強い決意だけを乗せて、蘭玉は凛とその瞳を輝かせる。
「劉生兄さまに、あなたを決して傷つけさせたりしない。旦那さまも、私も。劉生兄さまのことだって。私が絶対に、全部を守り切ってみせます」
その瞳の強さに、紅焔はどうしようもなく魅入られた。
(ついこの間は、あんなに危なっかしく見えたのにな)
あとはひとりで戦うのだと。人の世を捨て、狐の姫として去っていこうとした時の危うさは、今の彼女にはない。
半妖の麓姫ではなく、人間の香藍玉として。いまの自分も受け入れた上で、過去の因縁に立ち向かおうとしている。
その強さを、たまらなく愛おしく思う。
気づいたら、紅焔は藍玉の額に口付けをしていた。
「だ……! だ、だ、だだ、旦那さま……?」
藍玉のひどく狼狽えた声が聞こえる。それに構わず、紅焔は藍玉の華奢な体を抱き寄せた。
先ほどまでの威勢が嘘のように硬直する藍玉の背中をポンポンと叩き、紅焔は言い聞かせる。
「鬼通院のことは気にしなくていい。君の好きに動け、だけど無茶はするな。俺から言いたいのは、それだけだ」
「あの、えっと、うぇ…………?」
「悪いが、返答は『はい』か『わかりました』しか受け入れない」
「は、はい……。って! そうじゃなくて、旦那さま、今のは……!」
顔を真っ赤にして怒る藍玉に、紅焔は口元が緩みそうになる。けれどもその時、藍玉の肩越しにに、柱の影からこちらを伺う少女の姿に気づいてしまった。
紅炎が気付いたことを、あちらもすぐに察したようだ。紅焔が藍玉から離れるよりも早く、少女は――蘇凛風は、慌ててその場に平伏した。
「も、申し訳ございません! 陛下に、園遊会の途中で倒れてしまったご無礼をお詫びしなければと焦ってしまい……。決して、陛下と妃殿下のお話に聞き耳を立てようとしたわけでは……!」
そういえば凛風姫も春陽宮で保護させていたのだと。藍玉とはまた違ったタイプの可憐な少女を眺めながら、紅焔は今更のように思い出した。
(蘇凛風。年は、藍玉のひとつ上だったな)
純朴そうな大きな瞳のせいでやや幼く見えるため、彼女のほうが藍玉より年下に見える。わかりやすく庇護欲を掻き立てる容姿、といえば伝わるだろうか。
生まれが蘇家と、若干後ろ盾が弱くはある。だが、その気立の良さと愛らしさから、香藍玉の次に皇帝の目に留まるのは蘇凛風に違いないと世間では見られてきたらしい。
その蘇凛風を、なぜ華劉生は呪ったのか。
(最も有力な妃候補だから、皇帝に近しい者のひとりとして選ばれてしまったのか……?)
少しだけ考えを巡らせて、紅焔はすぐに諦めた。華劉生の幽鬼のことはわからないことばかりで、答えを急ぐのは得策ではない。
蘇家のことを改めて香大臣にも調べさせているわけだし、いまは蘇凛風を守ってやることに注力すべきだ。
気を取り直して、紅焔は額を床につけたまま蘇凛風に声をかけた。
「面をあげてくれ。――こういう場で言葉を交わすのは初めてだな。どうか気負わず、気楽に過ごしてくれると嬉しい」
「も、もったいなきお言葉にございます……」
「気分はどうだ。妃に聞いたであろうが、そなたもあの幽鬼に呪いを受けている。なにかいつもと違うことがあれば、すぐに妃に言うといい。彼女はこう見えて、その手のものに少しばかり知識がある」
「少しと言わず、いくらでも。旦那さまによれば、外には鬼通院の術師が守っているそうです。ですから凛風様は、大船に乗ったつもりで安心してください」
紅焔の言葉を受けて、藍玉も笑顔で胸を張る。顔をあげた凛風姫は、きょとんと首を傾げた。
「大船に、ですか?」
「はい。先ほども約束しましたでしょう? 私がぜったいに、凛風様をお守りします!」
にっこり笑った藍玉に、凛風姫はますます不思議そうな顔をする。その様子に、紅焔は安堵した。
幽鬼を前に気を失ったくらいだから心配していたが、意外と彼女も平気そうだ。これなら藍玉も、凛風を守りやすかろう。
(あとは、華劉生の幽鬼を待つばかりか)
紅焔が窓の外に視線をやるのとほぼ同時に、湿った風が木々を揺らして駆け抜けた。
日はかなり地平線近くに落ちたようで、空の一部はすでに薄闇に染まっている。
そろそろ春陽宮を離れなくてはならない。今頃、すっかり結界を張った紫霄宮で、春明が皇帝の帰りを待っていることだろう。
この夜を越えて、また藍玉と会えるだろうか。一瞬、そんな気弱な思いが頭をよぎったが、紅焔はすぐに笑い飛ばした。
惚れた女が、負ける気など微塵も抱いていないのだ。妻がやる気に満ちているというのに、夫の自分が及び腰でなんとする。
立ち上がった紅焔は、藍玉の目をまっすぐに見つめて告げた。
「ではな、藍玉。また明日の朝に」
「はい。また明日の朝に」
藍玉は微笑んで、紅焔の言葉をそのまま返した。その凛とした笑みに勇気づけられた紅焔は、振り返ることなく春陽宮をあとにしたのだった。




