7-10
戸惑いを滲ませる衛兵に、これまた何が何だかわからないという顔をした胡伯と琴の奏者が連れてこられる。
胡伯らは罪人らしく紅焔たちの前に膝をつかされそうになる。それを香丞相が留めた。
「その者らの疑いが晴れました。縄を解き、持ち物を返してやりなさい」
「うわああああああああーーーーーー!」
よほど怯えていたのだろう。香丞相が伝えた途端、琴の奏者がその場に崩れて泣き出した。隣で、女のような細面を驚愕に染めて、胡伯もまじまじと紅焔を見た。
「よろしいのですか?」
「丞相が伝えた通りだ。なにか不満か?」
「滅相もありません。ない、のですが……」
「母君のことは聞いた。どうせ初めて前に来た時から、私を値踏みしてきたのだろう。ならば、覚えて帰れ。血染めの皇帝も、昔ほどは血に飢えてはいない」
紅焔が肩を竦めると、胡伯はバツが悪そうな顔をした。それから、普段の芝居じみた仕草は一切なく、ただただ静かに膝をついて平伏した。
「ありがとうございます、陛下……。今日のご恩を、胡伯は生涯忘れません」
いつもは飄々としている胡伯の声に涙の色が混じっていることに気付いてしまい、今度は紅焔が気まずくなった。そもそも巻き込んでしまったのはこちら側であり、胡伯に泣いて礼を言われる筋合いはない。
――けれども。同時に、紅焔は拳を握りしめる。
わかってはいたが、皇帝の言葉は重い。今日だって、紅焔の言葉ひとつで二人の人間の命が簡単に左右された。
だからこそ変えられるものもある。どう利用するかは、自分次第だ。
平伏したまま顔をあげない胡伯に、紅焔は膝をついて手を差し伸べた。
「そろそろ顔をあげたらどうだ」
「…………はい」
紅焔の手を取り、胡伯が立ち上がる。普段から妙な色気がある胡伯だが、涙に濡れた目元が赤くなっているせいで、いつにもまして艶っぽい。
こんな胡伯の姿が女官らに見られなくて良かった……。そんなどうでもいいことを思わず紅焔が考えていると、ふと、胡伯が思い出したように瞬きをした。
「ところで、陛下はご無事にございましたか? 幽鬼が姿を消したあと、何やらよからぬ人形がお近くに見つかったようでしたが」
「あれか。どうやら私は、幽鬼に呪われたそうだ。鬼通院の淵春明によれば、近く、あの幽鬼が私たちを呪い殺すためにと姿を見せるらしい」
「そんな! 私たちと申しますと、呪われたのは陛下と、春陽妃様と……?」
「蘇家の凛風姫だ。あの娘も、しばらく春陽宮で匿うことにした」
「凛風様、あの方も……」
表情を曇らせた胡伯に、紅焔はおやと思った。彼の表情や声音は、どう考えても面識のある相手を心配する類のものだったからだ。
「もしや、そなた、蘇凛風とは旧知の仲か?」
「え?」
「呪いのことを聞いた時、そなたは凛風姫を案じる顔をした。今日初めて会う娘が呪いを受けたところで、そんな顔はしないだろう?」
胡伯は、ああ、と軽く首を振った。
「旧知の仲などと、畏れ多いものではございません。ただ、蘇家には先代の頃よりご贔屓いただいておりまして、そのご縁で、少々」
そういえばと、紅焔は思い至る。先ほど、胡伯の母が旧東朝の出だと発覚したが、蘇家も旧東朝の家だ。もともと胡伯の先代が旧東朝の豪族相手に商売をしていたのなら、蘇家とそれなりに縁があるのも当然だ。
その時、紅焔は今更ながら疑問を抱いた。
(なぜ華劉生は、蘇凛風を呪ったんだ?)
藍玉はわかる。彼女の前世は阿美妃の娘・麓姫であり、劉生とは叔父と姪の関係にある。
紅焔が呪われた理由も、まあ、わからなくもない。春明によれば、呪いの人形には狐の——阿美妃の霊力と同じ匂いがしている。華劉生の霊が阿美妃の影響を受けているなら、楽江の地を呪うという性質から、その皇帝である紅焔を呪った仮定することができる。
しかし蘇凛風だけは、因果関係がさっぱり読めない。彼女は、あわよくば娘を皇帝の妃に売り込みたい蘇大臣によって、園遊会に連れてこられたにすぎない。
もし「皇帝の妃候補」という理由で呪われたなら、あの場には凛風姫以外にも同じ境遇の娘はいた。その中でなぜ彼女ひとりだけ人形が置かれたのか、疑問が残る。
「胡伯。彼女が私と同じく呪いを受けてしまった理由に、思い当たることはないか?」
「理由ですか? いえ……。評判通りに心優しく、ひたむきなお方です。呪いを受けるようないわれが、あの方にあるとは思えません」
「では、蘇家はどうだ? そなたの知る範囲で、ここ最近、あの家で異変はあったか?」
胡伯は考え込んだ。その間に、紅焔は彼が何かに思い至ったように感じた。けれども結局、胡伯は首を振った。
「残念ながら、私には何も……」
紅焔は引き下がることにした。皇帝の言葉の重みを先ほど再認識したばかりだ。この場には香丞相もいるし、これ以上食い下がったところで、胡伯は口を割らないだろう。
「そうか。……遅くなったが、園遊会での演奏、見事だった。香丞相」
「心得ております。――あなた方に、陛下より特別なご恩賞がございます。お預かりした品と合わせてお渡しいたしますので、ご案内いたしましょう」
牢から出された時とは段違いの恭しさで、胡伯らが衛兵に連れていかれる。彼らの背中が見えなくなってから、紅焔は香丞相に指示を出した。
「胡伯の反応が気になった。蘇家について、ここ数年の動きを調べてくれ」
「承知いたしました。凛風姫が普段お住まいの東部の本家にも、探りを入れてみましょう」
それでようやく、紅焔は香丞相と別れた。
紅焔は今度こそ春陽宮に急いだ。藍玉も気掛かりな一方、いい加減目を覚ましたであろう蘇凛風の様子も気になる。
それに永倫ら護衛武官は、皇帝は春陽宮に向かったと伝わっているはずだ。その途中で香丞相に呼び止められ行き先をかえてしまったので、探されているかもしれない。
しかし、再び中輪殿を抜けて内廷と外廷を繋ぐ大門にさしかかる頃。紅焔は大門近くの柳の木の下に、見覚えのある女人の姿を見つけた。
「――――陛下」
紅焔が近づいていくと、女人は――亡き兄の妻、麗鈴は、柳から視線を外して完璧な拝礼をした。
柳の下に佇む麗鈴は、まるで木の精霊のようだ。自然と目が惹かれるのに、どこか物悲しい。そんな浮世離れした美しさが、彼女にはある。
彼女の後ろには、侍女が二人控えている。園遊会に連れてきた侍女は四名だったが、残りの二人は、ここにいない翔龍と共にいるのだろう。
侍女が二人、静々と後ろに下がる。かわりに顔を上げた麗鈴は、少女のように微笑んだ。
「南宮殿に戻る前に一言ご挨拶をと、お待ち申し上げておりました」
「なぜこんなところに? 侍従に一言声をかければ、部屋を用意したはすだ」
「この柳の下におれば、いつか陛下とお会いできる気がしたのです。私、こういう勘はあたりますでしょう?」
いたずらっぽく目を細める麗鈴に、紅焔は懐かしさを覚えた。確かに彼女は、たびたび予言のようなことを口にして、兄を驚かせた。
紅焔もまた、麗鈴の説明がつかない不思議な機転に、何度か助けられたものだ。
思わず表情を緩めて、紅焔は切れ長の目を伏せた。
「確かに……。何年経とうと、義姉上はおかわりありませんね」
「本当に。ご立派になられた陛下とは大違い」
くすくすと笑う麗鈴の白い肌を、夏の夕暮れの斜陽が柔らかく橙色に染め上げる。その日差しが薄雲に翳った時、麗鈴もまた表情を暗くした。
「…………私、こわいのですわ」
「義姉上?」
「私、翔龍の登城をお許しいただけ、心から嬉しかったのですよ。ようやく。ようやく息子が、亡き夫のかわりに陛下をお支えできるのだと、天にも昇る心地で」
紅焔の勘もまた、外れていなかったらしい。彼女がわざわざ、人目を避けて紅焔を待っていた理由。それは、幽鬼騒ぎのせいで、復権しかかっていた翔龍の立場が再び危うくならないか、探りを入れるためだ。
麗鈴の声が震える。何かに耐えるように片腕で己の体を抱いて、麗鈴は続けた。
「なのに……、せっかく再びお会いできましたのに、園遊会があんなことになってしまって……。翔龍は無事なのでしょうか。あの子のせいで園遊会が呪われたと、非難を向けられることがあったら……」
「そのようなこと、私が言わせない!」
麗鈴を遮って、紅焔は叫んだ。驚いた麗鈴の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
麗鈴のほっそりとした手を掴もうか一瞬悩んだが、自分はその役目にふさわしくないと思いとどまった。かわりに紅焔は、真紅の瞳でまっすぐに麗鈴を見つめて言い聞かせた。
「貴女にとって、私の言葉は簡単に受け入れられるものではないかもしれない。だが、これだけは信じてほしい。――翔龍の登城を許した時、私も、過去から踏み出す覚悟をした。その覚悟は、これしきのことで揺らぐものではない」
「陛下……」
麗鈴は澄んだ瞳で紅焔を見つめ返していたが、やがて涙を隠すようにしてかすかに俯いた。
「ああ、本当に……。本当に貴方様は、あの日の先にいらっしゃるのですね」
わずかに湿り気を帯びた夏の風が、柳の木の細い枝をゆらゆらと揺らす。その風に連れられていかれるように、麗鈴は侍女を伴って南宮殿へと去っていった。




