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罪人や捕虜を閉じ込めたり、流行り病に羅漢した者を隔離するのに使う懲罰房が、天宮城のはずれにある。
その一角、鉄格子をはめられた小さな牢に、確かに胡伯は琴の奏者といた。
絶句する紅焔とは対照的に、胡伯は意外にも落ち着いており、商人らしく平伏した。
「これは陛下。鉄格子越しに失礼いたします」
「……なぜ、笑っている?」
「幽鬼が現れた時、こういう展開は予想できましたから。必要にございましょう? 怪奇にも、説明できる落とし所が」
ヘラリと笑った胡伯の後ろで、琴の奏者は顔をあげもしなかった。力無く項垂れる様は、何もかも諦めてしまったようだった。
二人にこちらの会話が聞こえない距離を十分とってから、紅焔は香丞相に低い声を絞り出した。
「なんだ、あれは」
「彼の者が申していた通り、落とし所にございます」
「必要ない! 園遊会に集った誰もが、あの幽鬼を目にした。これ以上、なんの理由がいる!?」
語気強く言い放った紅焔に、丞相は物言いたげな顔をする。
現実的な落とし所。政治的で理にかなった発想だ。だからこそ吐き気を覚える。
(……少し前の俺なら、丞相と同じ考えをしただろう)
冷静さを取り戻すべく、紅焔は首を振った。
丞相が言っているのは、こうだ。初夏の園遊会は二年ぶりの開催だ。紅焔が皇帝になってからは初となる。国政の中枢はもちろん、地方豪族の要人も足を運んでおり、皇帝が処した実兄の遺児を表舞台に復帰させるという政治的演出も絡んでいる。
その園遊会が中断されるなどあってはならない。まひてや式典で皇帝が呪われるなど言語道断だ。仮にそんなことが起きたら、誰かがその責を負わねばならない。
けれども園遊会が中断されたのは幽鬼のせいだ。死者を罰する方法はない。
だから丞相は、胡伯たちに目をつけた。
幽鬼が姿を現したのは、胡伯たちが演奏を披露していた時だ。彼らがなんらかの方法で幽鬼を園遊会に引き込み、皇帝を襲わせた。そういう筋書きならば、国は、皇帝は、犯人を裁ける。
丞相は、そこまでしてでも、園遊会によって傷ついてしまった皇帝の威信を取り戻せと言っている。
「……筋書きは? そもそもアレが壇上にのぼったのは、本来の奏者が怪我をしたからだ。胡伯は顔が広いし、当主らの中にはアレが商人だと気づいた者もいるだろう」
「このようなことがなければ申し上げるつもりはございませんでしたが……。あの者の母は、内乱が最も長引いた旧東朝の出です。同胞の恨みとでも、いくらでも理由はつけられましょう」
“かつて戦場では鬼神として剣を振るい、即位されてからは己を夜叉と称して他者を遠ざけてこられた貴方様が、お妃様を迎えられてからは随分とお変わりになられて……。愛はひとを変えるというのは、誠でございますね”
(胡伯のあれは、そういう意味だったのか)
園遊会前に最後に謁見を許した時の、胡伯らしくもない台詞が今更のように思い出される。
内乱が長引いた旧東朝からは、残党だけではなく、戦火で土地を失った民も沙漠に逃れた。母がその東朝の出だからこそ、胡伯は皇帝・紅焔を笑顔の下で値踏みしてきたのかもしれない。
とはいえ、胡伯は商人としてふさわしい働きをしてきた。だからこそ香丞相も、彼の血縁にどういう人間がいるのかわかった上で、紅焔に進言しなかった。
けれども事情が変わった。皇帝を害した罪で胡伯を裁こうとするとき、彼の出自はこの上ない裏付けとなる。
――理解はできる。できてしまう。紅焔自身が、かつて人としての情を捨てて、皇帝として国家存続を選んだ側だ。血染めの夜叉王なら、丞相の提案を受け入れる。
必要なのは個人的な感傷ではなく、楽江を統べる王としての判断だ。そうでなくては、丞相は納得しない。
息を吸って、吐き出す。雑念を捨て、あらゆる可能性、あらゆる懸念を並べ上げ、熟考する。
そうしてある答えに辿り着いた時、紅焔はふっと肩の力を抜いた。
「――結論は変わらないな。コトを納めるのに、あの二人の処刑は不要だ。鎖を解き、すぐに解放してやれ」
「ですが、陛下……」
「二度言わすな。貴様は、私がそなたの真の狙いがわからぬほど、愚か者だと思うか」
紅焔は冷たい深紅の眼差しで丞相を射抜く。ぐっと言葉に詰まる丞相に、紅焔は冷静にたたみかける。
「そなたがことを急いでいるのは、鬼通院が失敗した時を――私と春陽妃が呪いで命を落とした時のことを想定しているからだろう」
丞相はハッとしたように目を見開く。その表情に確信を得た紅焔は、肩をすくめて続けた。
「私に子はいない。いま私が死ねば、皇帝は翔龍が継ぐことになる。そうなれば、麗鈴の生家である氾家が再び力を持つ。香家としてそれを牽制するため、『皇帝を殺したのは幽鬼でなく人間だった』という可能性を残しておきたいんじゃないか?」
その場合、胡伯らは実行犯という扱いだ。幽鬼を呼び出し、皇帝を呪ったのは先に処刑された二人だった。けれども二人の裏には、彼らをけしかした真犯人がいる――
「胡伯らを手引きし皇帝を殺めさせたのは、亡き李焔翔の妻、麗鈴だった。そなたが狙う本当の落とし所はそれだな」
紅焔が言い放てば、香丞相は観念したように嘆息した。疲れたように両手をあげた彼は、恭しく拝礼する。
「ご慧眼、恐れ入りました。返す言葉もございません」
「以前、先帝から『最も信頼に足る臣下は香丞相だ』と助言を受けていた。こたびのことで、正直失望した」
紅焔が冷めたように言うと、香丞相の肩がぴくりと揺れた。顔を上げた丞相は、意外にも強い眼差しをしていた。
「ですか、少しばかり訂正をお許しいただけましょうか」
「いいだろう。そなたへの評価が覆るとも思えないが」
「麗鈴様を真犯人に据えようとしたのは間違いございません。しかしそれは、陛下にもしものことがあった場合ではなく、鬼通院が見事幽鬼を討った時を見据えた切り札にございます」
「なに?」
紅焔と藍玉が無事なら、香家が氾家を警戒する必要はない。なのになぜ、麗鈴を犯人に仕立て上げる必要があるのだろう。
少し考えて、紅焔は眉根を寄せた。
「翔龍を、皇帝の座から完全に遠ざけるためか」




