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藍玉が目を覚ました凛風姫と言葉を交わしていた、ちょうど同じ頃。
紅焔は園遊会に出席していたほぼ半数の顔ぶれを引き連れ、中輪殿に席を移していた。
中輪殿は常日頃から御前会議が開かれる、官人らにとって慣れた場所だ。にもかかわらず、中に流れる空気は重い。集った者のほとんどが、禍々しい幽鬼の姿を直接その目に写したことが原因である。
その中輪殿にいま、新たな客人が招かれた。
「鬼通院総長、淵春明殿。ならびに鬼通院術師の尹嘉仁殿が到着されました」
衛兵が告げた直後、大扉が左右に開かる。姿を見せた淵春明、そして尹嘉仁は、悠然と大臣らの前を通り過ぎて、紅焔の前に跪いた。
「拝謁をお許しいただき光栄にございます、陛下。先日、鬼通院にお越しいただいた以来にございましょうか」
「その際は世話になった。どうやら私は、随分とそなたたち鬼通院と縁のあるらしい」
「我ら鬼通院にとっては、この上ない栄誉にございます」
にこりと微笑んでから、春明は色素の薄い灰色の瞳でまっすぐに紅焔を見つめた。
「して……。なにやら『狐』に関わりのある幽鬼が宮中に尻尾を見せたと伺いましたが、相違ありませんでしょうか」
――鬼通院を呼びつけたのは、香丞相だ。
丞相だけではなく、園遊会に集められた多くの者が、白昼堂々と現れた幽鬼を目にした。
それだけでも混乱を免れないのに、さらには幽鬼が姿を消したあと、どう見ても呪物としかいえない怪しげな人形が皇帝以下三名の足元に落ちていたのだ。
皇帝の指示を待たずに、丞相が鬼通院に登城要請をしたのは当然の流れである。
頷いて、紅焔はそばに控える永倫に手で指示をやった。
「幽鬼には違いないが、狐に関係があるかはそなたの目で確かめるといい」
「ほう……」
「っ!」
永倫が三体の人形を乗せた台を二人の前に置くと、春明は興味深そうに身を乗り出し、嘉仁はハッとしたように目を見開いた。
人形は、見つかった姿のまま台に乗せてある。左の人形は藍玉の前に落ちていたもの。真ん中は紅焔、右は蘇大臣の娘・蘇凛風の近くに落ちていたものだ。一見小さな仏像のようだが、頭部が狐の顔になっており、さらには長い黒髪が首のあたりに絡み付いている。
春明は少しの躊躇いもなく、紅焔の近くで見つかった人型を手に取った。恐々と官人らが見守る中、春明は形の良い鼻を人型に近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。
それから、満足したように微笑んだ。
「ご慧眼、さすがにございます。表層は別の幽鬼の気配が色濃く出ていますが、注意深く嗅いでみればこの通り。獣の匂いが、この人形には染みついております」
「なんということだ!!」
中輪殿にどよめきが広がる中、たまらずと言った様子で、大の一人が悲鳴をあげて膝をついた。
でっぷりと恰幅のいい彼は、園遊会で意識を失って倒れた蘇凛風の父親、蘇大臣だ。頭を抱えて青ざめる大臣に、春明が小首を傾げる。
「失礼ですが、陛下。こちらのお方は?」
「財部大臣の蘇大臣だ。この三体の人形は、私と春陽妃、そしてこの者の娘の近くに落ちているのが発見された。つまり……」
「陛下と春陽妃同様、この方のお嬢様も狐に呪われてしまったのですね。心中、お察しいたします」
悲しげに頷いて、春明は恭しく両手を合わせる。鬼通院総長が「呪い」と口にしたことで、中輪殿に再び動揺が走る。
代表して、香丞相が控えめに口を開いた。
「淵方士、本当なのですか。陛下が呪いを受けたというのは……」
「この人形は目印です。獣が獲物を定めるように、幽鬼が三人の人間に印をつけた。近いうちに、幽鬼は三人の人物の前に現れるでしょう。それが何のためか、わざわざ口にする必要はございませんね?」
親しげに灰色の瞳を向ける春明に、紅焔は敢えて沈黙をもって答える。
今しがた春明が口にしたことは、すべて藍玉も予想していた。紅焔自身も、人形を目にした時から自分が呪われた可能性は考えていた。だから、今更怯えることはない。
けれども娘を呪われた蘇大臣は、紅焔のように冷静ではいられなかったようだ。膝をついたまま、縋るように春明に手を伸ばす。
「手はあるのだろうな!? 解呪や除霊は鬼通院の十八番だろう!?」
「気持ちはわかりますが落ち着きなさい。陛下の御前ですよ」
取り乱す蘇大臣に、香丞相が目をすがめる。それが逆効果となり、蘇大臣は苛立って香丞相に嚙みついた。
「気持ちがわかるだと!? こちらは娘が呪われたんだぞ!」
「お忘れのようですから教えてさしあげますが、呪いを受けたうちのひとりである春陽妃様は我が香家の出ですよ。何より我々は第一に、陛下の尊き御身を案じるべきです」
「それは……当然、言われるまでもない」
悔しそうに言葉を詰まらせて、蘇大臣は目を逸らした。
蘇家はさかのぼれば旧東朝の豪族だ。瑞国への統合に長らく抗った東王に代わって李家にかしずいたために今でもそこそこ力があるが、香丞相の香家や、永倫の梁家にくらべたら勢いは劣る。わざわざ凛風姫を連れてきたのも、どうにか皇帝の寵愛を娘に受けさせ、宮中での地位を向上させたいという一心によるものだろう。
(あの苛立ちよう。呪いを受けた娘を案ずるというより、せっかくの出世の道具を、幽鬼なぞに奪われてはかなわないと言ったところか)
鼻白んだ紅焔だが、呪われてしまった凛風姫に罪はない。そもそも自分や藍玉も、あの幽鬼――華劉生の餌食になってやるつもりはない。
「春明。そなたの考えが聞きたい。この呪い、抗う術はあるか?」
紅焔が問いかけると、春明はにこやかに細めていた目をゆっくりと開いた。
「もちろんにございます。狐にかかわる霊によるもので、我ら鬼通院にできないことはございません」
おおおと、大臣らのが感心したように声を上げる。先を促して、紅焔はひらりと手をやった。
「どう戦う?」
「単純にございます。その霊は、必ず呪いの人形を辿って現れます。そこを祓ってしまえばよろしい」
「危険すぎやしませんか。あなたがたがしくじれば、陛下に危害が及ぶ恐れがあります。人形を陛下から遠ざけ、そこで幽鬼を迎え討つことができれば……」
「残念ながら、梁大将。人形を皆様から遠ざけるのは無意味にございます」
つい口を挟んでしまった永倫に、春明はゆっくりと首を振る。それで、再び蘇大臣が焦れたように声を上げた。
「な、なぜだ。幽鬼めは、その人形を辿って凛……陛下の前に現れるのだろう?」
「わかりやすく人形として現れていますが、呪い自体は陛下の御身に刻まれているはず。他のお二方も同様でしょう」
「つまり人形を封じたところで、幽鬼は私や、春陽妃の前に現れるということか」
「もちろん出来うることはやってみます。人形を封じ、鬼通院の蔵に封じるのです。ですが、あくまで霊は陛下を狙うと考えて備えるべきです。――ちなみに、陛下や春陽妃様にも鬼通院にお移りいただいたほうが、皆様をお守りしやすくはありますが」
試すように見上げる春明に、永倫たち近衛武官たちが顔を見合わせた。
たしかに鬼通院で匿い、幽鬼を迎え討つのが確実に思える。しかし鬼通院は同時に、瑞国の外にある独立機関だ。幽鬼とは別の意味で、警護に不安が残る。
紅焔もそれを理解して、すげなく首を振った。
「却下だ。私は天宮城を空けるつもりはない」
「そう仰ると思っておりました。ではかわりに、我ら鬼通院に天宮城に出入りし、宮中で呪術を行使する許可をお与えください。結界を張り巡らせ、皆様をお守りし、必ずや彼の幽鬼を祓ってみせましょう」
「鬼通院衆がこの城に、ですと?」
「信用できるのか。かえって、宮中に穢れを持ち込まれでもしたら……」
春明の言葉に、かなり多くの数の官人らが顔を顰め、そのうちの数名は声をあげて明確に不快感をあらわにする。
鬼通院が忌み地として隔離されているように、そこに仕える呪術師たちも、穢れを負った者たちとして疎んじられている。
千年続く特別機関として尊重はするが、積極的に関わりたくはない。基本的に鬼通院は、そういう扱いだ。
我慢の限界を迎えたのだろう。それまで黙っていた尹嘉仁が、舌打ちをして大臣らに反論しようとする。それを目で制して、紅焔は静かに、けれども厳かに告げた。
「鬼通院より腕に覚えがある者がいたら、ここで名乗りあげるがいい。私を守り、妃と蘇凛風を保護し、呪いを解いて霊を祓う自信があるというなら、喜んで私はその者を頼ろう」
中輪殿が水を打ったように静かになる。目を合わさないように俯く官人らの頭を眺めて、紅焔は嘆息した。
「決まりだな。――して、春明。いつから動ける?」
「すぐにでも。早ければ今夜、幽鬼が皆様の前に現れるかもしれませんので」
「結構。私は通常通り、紫霄宮で過ごす。妃、そして特別に蘇凛風も、春陽宮にとめおくつもりだ。それで問題ないか?」
「お気遣い感謝いたします。十分にございます」
かくして幽鬼の対処は決まった。恭しく礼をしてから、淵春明は尹嘉仁を伴って退出する。このあとは、紫霄宮と春陽宮の構造を衛兵に案内される手筈だ。
呪術師二人の背中を見送ってから、紅焔は立ち上がり、不安そうに立つ重鎮たちを見渡した。
「話は以上だ。……久方ぶりの初夏の園遊会だ。このような形で終わるのは残念だが、先を続ける空気でもあるまい。皆、今日は屋敷に戻って休むといい」
そう告げて、紅焔は玉座を降りる。
この時、紅焔の頭にあったのは藍玉のことだ。
華劉生の霊を前にした時、藍玉は動揺していた。彼女と劉生の複雑な因縁を思えば当然だ。だからこそ、紅焔は藍玉が心配だった。
藍玉がひとりで走り出してしまわないよう、気を失った蘇凛風のそばにいるよう伝えてはきた。しかし、いつまで彼女を止めおけるかわかったものではない。
まずは藍玉と話さなければ。彼女がいるはずの控えの間に、紅焔は急ごうとした。
けれども中輪殿を出た直後、あとに続いた香丞相から引き止められた。
「恐れながら陛下。個別、陛下にお伺いしたき議がございます」
「先程の幽鬼に関係することか?」
正直なところ後にしたかったが、香丞相の真剣な顔を見るに、放っておける問題でもなさそうだ。仕方なく、紅焔は足を止めて振り返った。
「なんだ。言ってみろ」
「陛下の宴席を壊した者の、処断についてにございます」
「……は?」
耳を疑った紅焔は、思わずマジマジと香丞相の幽霊のように細い面を見つめた。
園遊会に泥を塗ったのは、突如現れた幽鬼だ。それは、あの場にいた誰の目にも明らかだ。処断もへったくれもない。
それとも丞相は、死者を裁くとでもいうつもりだろうか。
正気を疑う紅焔に、けれども壮年の丞相は、若き皇帝をまっすぐに見つめて次のように続けた。
「園遊会に侵入し、陛下を呪った咎で、琴と笛の奏者の身を拘束しております。陛下。どうか、懸命なご判断をお願い申し上げます」




