6-13
せっかくなので子猫を存分になでさせてもらってから――ちなみに猫の名前は、ミャウミャウ鳴くので「ミミ」と名付けたらしい――紅焔と藍玉は手元の灯りを頼りに春陽宮への帰路を歩いていた。
薄雲が空を覆っているが、幸いにして雨は止んでいる。少しぬかるんだ地面を器用に避けながら、藍玉は楽しそうに男物の衣の裾を翻した。
「良かったですね。梁大将の体調不良が、周光門の幽霊とは無関係で」
「良かったといえば良かったが、人騒がせな奴め」
「まあまあ。梁大将がお休みなのと、周光門の幽霊騒ぎを勝手に結びつけたのは旦那さまですし」
「君もだろう。梁大将のことを話したら、絶対に心霊絡みだと目を輝かせて腕まくりしていたくせに」
「そうでしたっけ? 私、過去は振り返らない主義で」
ケロリと笑って、藍玉は小さな水たまりを飛び越える。その軽やかな足取りに、紅焔もどうでも良くなって藍色の夜空を見上げた。
そこに星は見えないが、ひやりとした頬を撫でる風は心地よい。
行きの道では、風を感じる余裕などなかった。肩の力が抜けたのは、男装した藍玉が当たり前のような顔をして背後に現れてからだ。
ホッと息をついて、紅焔は斜め前の藍玉の背中に微笑んだ。
「ありがとう、藍玉」
「何がです?」
結んだ髪を風に揺らして、藍玉が明るく振り返る。小首を傾げて微笑む彼女に、紅焔は長いまつげに縁取られた切れ長の目を柔らかく細める。
「自分で思うよりずっと、俺は永倫のことに動揺していたらしい。――今夜、君が来てくれてよかった。追いかけてきてくれたことを、心から感謝する」
「旦那さま……」
薄水色の瞳が覗く目をまん丸に開き、藍玉は紅焔を凝視した。かと思えば、なぜか彼女はスタスタと近づいてきて、紅焔の脇腹あたりをポカポカと殴った。
「そういうところ。そういうところです、旦那さま」
「いて。なんだ、そういうところって」
「無自覚なのが本当にタチが悪い。……そんなふうに言われたら、ますます調子に乗ってしまうじゃないですか」
後半はよく聞き取れなかった。ぷいと俯いてしまった藍玉に、紅焔は首を傾げる。なぜかわからないが、彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。
理由を考えて、紅焔ははっと思い出した。
「そうだった。すべてが解決したわけではなかったな」
「はい?」
「君が感じた気配と、周光門の霊だ。ミミに残っていた霊の気配が君に覚えがあるものだったということは、周光門の霊は千年前の関係者かもしれない」
紅焔が大真面目にそう言うと、藍玉はムスリと頬を膨らませた。
「旦那さまは無自覚属性だけではなく、鈍感属性もお持ちなんですね」
「どうしてそこで、また怒る?」
「もう一発くらい殴ってやりたい気分ですが、いいでしょう。旦那さまが提示した問題は、たしかに放っておける類のものではありませんしね」
何やら物騒なことを言ってから、藍玉は何かを見通そうとするかのように、白壁のそのずっと先――周光門野方向に視線をやった。
「先ほど、梁大将の部屋で感じた気配ですが、あれは劉生兄さまの魂の匂いと酷似していました」
「劉生……、蘇芳帝の弟、華劉生か!」
千年前に滅んだ華ノ国の最後の皇帝、蘇芳帝。その異母弟であり、蘇芳帝の寵妃であった阿美妃とその娘の麓姫とも交流が深かったという、若き将軍。
皇族でありながら北領に追いやられた彼は、数年後に大軍を率いて都に攻め入り、結果的に華ノ国の滅びのきっかけとなった。
その華劉生の魂がいまだ現世を彷徨っているのだとしたら大ごとだ。
「すぐに周光門に行こう! 華劉生は君の母が命を落とした時、最も近くにいた人物だ。千年前に何があったのか、なぜ君の母は呪いの化身に堕ちたのか、すべてを知るはずだ!」
「その必要はありません。周光門の霊を放置するつもりはありませんが、後日改めて出向く形で問題ないでしょう」
「そんな悠長なことを言ってる場合か!」
「周光門の霊が劉生兄さまであるなど、ありえませんもの」
いつもと変わらない淡々とした口調で告げる藍玉には、なにか確信があるらしい。深呼吸をして自分を落ち着けてから、紅焔も務めて冷静に問いかけた。
「なぜ、そう言い切れる?」
「旦那さまは前に一度、夢を通じて千年前の夜を覗いたのでしたね。その時の光景を思い浮かべてください」
藍玉に促されて、紅焔は深紅の瞳を伏せて、夢で見た景色を――青白い炎の海と化した太古の都を思い浮かべた。
「あの夜、都を覆ったのはただの炎ではありません。大妖狐の力から生まれた呪いの炎です。あの炎は、物質だけではなく、人間の魂をも燃やし尽くしました」
「人間の、魂を……?」
「ええ。炎に撒かれて死んだ人間たちの恐怖も、絶望も。それらを取り込んで燃料とし、より強大な呪いの炎となって王都を包み込んだのです」
――そういえば、と紅焔は息を呑む。
王都を一夜で焼失させた大惨事でありながら、犠牲になった民の霊にまつわる伝承はこの都に存在しない。単に太古の昔の惨劇であるからかと思っていたが、鬼道院の記録にも、千年間ひとつも記録がないのは妙だ。
「千年前の大火の夜に死んだ魂は、呪いの炎により焼失した。いや。呪いに捕りこまれた、ということか?」
「後者であると、私も白の里も考えています。炎に呑まれた数万の魂を燃料にしたから、楽江全土を呪うだなんて桁外れなことができたのだと。……もっとも、あの夜の母の霊力の高まり具合は、それだけじゃ説明つかない規模なんですけれど」
藍玉の見立てによれば、数万の魂を吸収したものの、呪いの核は依然として阿美妃だという。取り込まれた数万の魂は、溶けて阿美妃の呪いの一部となった。
ゆえに周光門の霊が華劉生であることはありえないと、藍玉は断言する。
「劉生兄さまだけじゃありません。先に命を落とした蘇芳帝も、母を蔑んだ他の妃たちも、無関係な市井の人間だって、等しく母の中に溶けた。あれだけ死人を出しながら、母以外に霊として彷徨う者がいないのはそれが理由です」
「ならばなぜ、周光門の霊から華劉生の気配がしたんだ?」
「他人の空似というやつでしょう。人相と同じですよ。まったく無関係な人間がそっくりな魂の匂いを持つ。そういう偶然も、千年も時が流れればありえましょう」
藍玉は言い切るが、紅焔はどうにも引っかかりを覚えた。第一、炎に呑まれて死んだ者の魂が阿美姫の呪いに溶けて消えたのなら、麓姫は――藍玉はどうなるというのだ。彼女もまた、千年前に呪いの炎で命を落としたひとりであるというのに。
少し迷ってから、紅焔は思い切って口を開いた。
「やはり、おかしい。――君も炎に呑まれたのに、君は転生して、しかも前世の記憶まで持っている。全員が等しく呪いに溶けたなら、君もこの世に生まれなかったはずだ」
「私は一応、白の一族ですよ? 前世は魂だけじゃなくて、体も立派に半妖でした。だから例外的に、呪いから逃れることができたのでは?」
「それは推測であって、確信じゃない。理由がわからない以上、君の他にも呪いに取り込まれなかった例外がいる可能性はあるんじゃないか?」
「それは……………そうなの、ですが」
とっさに否定しようとしたくせに、藍玉の勢いはすぐにしりすぼんだ。それで、藍玉もとっくに、紅焔と同じ結論に辿り着いていたのだと気づく。
その上で、彼女は目を背けたかったのだ。前世で父のようにも兄のようにも慕った相手が、――そのくせ、最愛の母を奪った仇でもある相手が、いまだに亡霊としてこの世を彷徨っている可能性から。
俯いてしまった藍玉の頭に、紅焔は大きな手を置いた。
「そんな顔をするな。君を周光門にひとりでは行かさない。次に雨が降った夜、一緒に調べに行こう」
「最近の旦那さま、輪をかけてお忙しいじゃないですか。劉生兄さまと無関係かもしれないのに、そこまでお付き合いいただくわけには……」
「俺たちは協力者、だろ? 目的は違えども、同じ手段を選んだ仲間とも言える。――というか、遠慮なんて今更過ぎないか。出会ってからこれまで、俺がどれほど君に振り回されてきたと思ってるんだ」
「そ、その言い方には、わずかに悪意を感じます!」
「けど事実じゃないか?」
ニッと笑った紅焔につられて、藍玉も少しは心が軽くなったようだ。藍玉は微笑んでから、トンッ、と紅焔の胸に頭を預けた。
「たしかに申し開きはできませんね。……仕方ないので、旦那さまの好意に甘えてあげます」
自分よりずっと軽い、それでいて確かな重みを胸に感じて、紅焔は少しだけ胸の鼓動が跳ねた。




