6-10
「ふーん。周光門で幽霊騒ぎねえ。そんな騒ぎがあったなんて、俺、知らなかったや」
ひと通りのあらましを聞き終えた永倫は、椅子のうえに胡坐をかいたまま、興味津々に頷いた。ちなみに、その膝の上には例の子猫が欠伸をしながらくつろいでいる。
対する紅焔と藍玉といえば、永倫の寝床の上で二人並んで正座をしている。床の上ではなく寝床の上というのが、まだ手心があるかもしれない。とはいえ、紅焔も藍玉も、大国の皇帝と妃の威厳もなく縮こまるしかない。
「で? 香丞相は、俺がその霊を連れて帰ったかもしれないって言ったの?」
「あ、ああ。丞相が言うには、幽霊が近づいてくる気配があった直後、お前が現れた。お前が何かを抱えて去ったあと、幽霊の気配がなくなったと。だから俺たちは、お前が体調を崩していることと、その霊が何か関係しているのかと……」
「なるほどね。一応筋は通っているけど、残念でした! 香丞相が言っている日、俺が周光門で拾ったのはコイツだもん」
言いながら、永倫は膝の上の子猫の喉を指先でかいてやる。幸せそうにゴロゴロと喉を鳴らす子猫に、紅焔は脱力しそうになった。
「お、お前、なんで猫なんか……!」
「なんかって、ひっどいなあ。こんな小さいけど、しっかり生きてんだよ?」
「わ、悪い。けど、そうじゃなくて……」
彼とは長い付き合いだが、永倫が動物を拾ってきたことはない。どちらかと言えば動物に好かれやすい体質ではあるが、永倫のほうから積極的に動物を愛でにいくわけでもなかったはずだ。
紅焔がそう思っているのが伝わっているのか、永倫はちょっぴりバツが悪そうな顔をした。
「この猫、何日か前から周光門にいたんだよ。一回だけ、兄弟猫っぽいのに虐められてるとこ見ちゃってさ。それからなんとなく、コイツのこと気になってたんだよね」
子猫がほかの猫と一緒にいたのはその一回きりだったという。兄弟たちに追い出されたのか、単に家族とはぐれたのか、子猫はいつも大通りの隅に一匹で隠れていた。
「それで、あの夜の大雨でしょ。この大雨の中でも、あいつは一匹で隠れてるのかもって思ったら、なんか腹立ってきちゃって……」
「だから、その猫を探しに周光門に行ったのか」
「そ! 暗かったし、俺はコイツを探すのに夢中だったからなあ。香丞相がいたのも、その足音の幽霊っていうのも、ちっとも気づかなかったや」
ちなみに数日間休んでいたのも、子猫を探して雨の中を走り回って風邪を引いたかららしい。ちょうど子猫の面倒も見たかったので、体調不良を理由に部下に当番を変わってもらったのだそうだ。
「し、しかし。じゃあ、藍玉が感じた妙な気配というのはなんだったんだ……?」
救いをもとめるように隣をみると、藍玉は小さく首を振った。
「おそらく、本当の意味での“残り香”だったのかと」
「というと?」
「子猫が周光門付近に住んでいた時期と、例の幽霊が周光門付近に出没した時期は被っています。その間に、霊の気配が少しだけ子猫にうつってしまったのでしょう」
「つまり、この猫と周光門の霊の関係は……?」
「皆無。さっき抱っこした時に確かめましたが、その子は正真正銘、ただの子猫です」
ちょうどタイミングよく(?)、子猫が「ミャア!」と元気に鳴いた。どこまでも無垢なその鳴き声に、紅焔はついにガクリと項垂れた。
(なんて人騒がせな!)
――まあ、考えようによっては、永倫が厄介な霊に憑りつかれてなかったのは喜ばしいことだ。こちらには藍玉がいるとはいえ、霊の悪質具合によっては、永倫の命だって脅かしかねない。
けれども、それはそれとして、散々心配した時間は返してほしい。
(こっちはもしものことがあったらと、夕餉も取らずに部屋を飛び出してきたんだぞ……)
肘をついて項垂れたまま、紅焔は安堵半分、恥ずかしさ半分の溜息をこぼした。
――本人は気付きようがないが、黒髪から覗く紅焔の耳は羞恥に赤く染まっている。それにふっと笑みをこぼしてから、永倫は再び、にっこりと圧のある笑顔を浮かべた。
「と、こ、ろ、で。話は終わっただなんて、そんなこと思っちゃいませんよね?」
「えっ……」
「俺、洗いざらい全部って、最初に言いましたよね?」
ぎくりと、紅焔は肝が冷える心地がする。恐る恐る顔をあげれば、永倫は満面の笑みを張りつけつつ、まったく笑っていない目で紅焔と藍玉を見つめている。
「コウ様が、俺の部屋にまで駆けつけた理由。まあ、わかりましたよ。俺が悪霊に憑りつかれて死にかけてるんじゃないかって、心配してくれたんですよね。――だけどさ。なんでそれで、春陽妃様を連れてくるんです?」
息を呑んだのは紅焔だけではない。あの藍玉ですら緊張するほど、永倫の口調からは逃げることも誤魔化すことも許さないという固い意思を感じる。
「今夜だけじゃない。コウ様が謎の病に倒れた時も、秋陽宮で子供の遺体が見つかった時も。――ひとつ目の狐を追って二人で都に下りたはずのコウ様が、ひとりで傷だらけで戻ってきた夜だって。コウ様の周りで妙なことが起きる時は、必ず春陽妃様の姿がチラついた」
「永倫、それは!」
「春陽妃様! いや、香藍玉!」
いつの間に取り出したのだろう。永倫の手には小刀があり、その切っ先は藍玉の白い喉元に突きつけられている。
子猫がぱちくりと瞬きする中、永倫は初めて聞くような低い声で藍玉に問いかけた。
「……答えろ。あんたはコウ様の敵か、味方か、どっちだ!」




