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近衛大将に与えられる部屋はそこまで広くない。複数人と共にする一般兵よりはマシかもしれないが、寝床と簡易な家具があるのみだ。
その最奥の寝床で、永倫は布団に入って丸くなっている。先ほど寝息を確かめたから、彼が眠っているのは間違いない。
窓の外の月明かりを頼りに、紅焔は忍び足で室内に入ってきた藍玉を振り返った。
「どうだ。部屋の中に、霊的なものの気配はあるか?」
「そうですね……。ぱっと見た感じ、旦那さまの言う通り、特に異常はありませんね」
「君が感じた、懐かしい気配とやらはどうだ」
「うーん。なんとも……。さっきの残り香よりもさらに微弱なものは感じるんですけれど。でも、それだってもう消えてしまいそうで」
ひそひそと声を潜めつつ、藍玉は首をひねっている。
(永倫の体調不良と、香丞相が調べていた周光門の亡霊は無関係だったのか?)
こちらに背を向けているから表情はわからないが、幸いにして永倫の寝息は穏やかだ。体調不良というのも大分回復して、明日にはケロリと近衛に復帰するかもしれない。
それはそれとして周光門の幽霊騒ぎについても調べる必要があるが、なんにせよ、永倫が無関係であるのは喜ばしいことだ。最近、紅焔自身が怪奇事件に巻き込まれるせいで、うっかり深読みしすぎてしまったようだ。
永倫の無事も確かめられたことだし、これ以上ここに留まる必要はない。まだ部屋の中をキョロキョロ眺めている藍玉に、紅焔はそう呼びかけようとした。
けれどもその時、薄闇の中に明るい緑の瞳が一対現れた。
「フギャアゴ!」
「きゃあ!」
敵意に満ちた何かの鳴き声と、藍玉の悲鳴が響く。小さな塊が暗闇を舞って飛び掛かり、藍玉が倒れるのを見て、紅焔はとっさに壁にかけられていた永倫の刀に手を伸ばした。
「藍玉!」
けれども刀の柄を掴んで抜刀しようとした刹那、何者かが紅焔の手から刀を叩き落とした。
「おっと。これ以上は勘弁いただきましょうか」
「なっ、ぐぅっ!?」
「あなたが強いのは知ってますが、まだギリ、俺のほうが上ですよっと!」
腕を後ろに捻りあげられ、寝台のうえにダンッ!と押さえつけられる。くぐもった悲鳴を漏らしつつ、紅焔は困惑した。
体制的に苦しいが、寝台のふとんのおかげで顔は痛くない。だが、寝台には永倫が眠っていたはずだ。加えて、暗闇での突然の襲撃。戦場にでなくなってそろそろ二年経つとはいえ、生身の暗殺者の接近を許すほど感覚は衰えていないはずだ。
ましてや、現役で皇帝の警護にあたる永倫など。
そこまで考えて、紅焔はようやく合点がいった。
「永倫、お前ぇ…………!」
「はい、当たり!」
紅焔を押さえつける手が緩む。身を捩って上を睨めば、薄闇の中でにやりと笑う幼馴染にして近衛武官、梁永倫の姿があった。
(こいつ、タヌキ寝入りしてやがったな!)
少し考えれば当然だ。永倫は現役の近衛武官、しかもその長だ。他人の気配には紅炎以上に敏感だ。体調を崩しているという点に引っ張られたが、死にかけてるわけでもないのに、彼が寝床に誰かの侵入を許すわけもない。
つまり紅焔は、最初にひとりで入室し、次に藍玉と二人で改めて入室するまでのすべての間、永倫の手のひらの上で遊ばされていたのだ。
そこまで考えて、紅焔はハッとした。
「なら、さっきの鳴き声は!?」
藍玉も藍玉で何者かの襲撃を受けた。何やらこの世ならざるモノのような恐ろしい威嚇声がしたが……。
けれども、慌てて藍玉のほうを見た紅焔の視界に飛び込んできたのは、なんとも間の抜けた光景だった。
「あ、あの、この子…………」
「……………………猫、だと?」
床にぺたりと座る藍玉は、やせっぽっちの小さな三毛猫を両手で掲げて困ったような顔をしていた。
藍玉に捕まり、三毛猫はさっきの威勢がうそのように、キョトンとおとなしくぶら下がっている。痩せてはいるが毛並みは良く手入れされていて、クリッとした明るい翠の瞳がなんとも可愛らしい。
これが? さっきの身の毛のよだつ鳴き声の正体だと?
紅焔は混乱したが、そういえばあの鳴き声の直前、暗闇の中でらんらんと輝く双眼があったことを思い出した。あれはこの子猫の瞳だったのか。
――さて。
子猫に飛びつかれて放心しているから本人は気に留めていないが、藍玉の帽子は落ち、おまけにくるりと纏めていた髪が解けて、黒く艶やかな長髪があらわになっている。
しかもだ。藍玉の悲鳴がした時、紅焔はとっさに、思いっきり彼女の名前を呼んでしまった。
「コウ様?」
衣の下でダラダラと冷や汗を流す紅焔の肩をガッツリ掴んだまま、永倫は近衛大将としてではなく気の置けない従者として、にっこりと圧のある笑みを浮かべた。
「何がどうしてこうなったのか、洗いざらい説明してくれるね?」




