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「永倫? 寝てるのか?」
扉の前に立つ紅焔が、戸を叩きながら控えめに呼びかける。部屋の中から答える声はない。二、三繰り返してから、彼は藍玉に振り返った。
「部屋の中の様子を見てくる。君はここで待っていろ」
またそれかと思わないでもなかったが、ここは梁大将の居住部屋だ。梁大将の名誉のためにも、突然二人して室内に押し入るよりも、まずは古い友人である紅焔が先に中を確かめたほうが安全だ。
そう判断して、藍玉は両手をあげて服従の意を示す。
「さすがの私も、そこに異論はありません」
「本当だな? さっきみたいに、気配を消してついてくるのも無しだぞ」
「安心してください。私も香家の娘。殿方の個人的空間にズケズケ踏み入らない良識はあります」
「男装して皇帝のあとをつけるような妃に、語れる良識があるかは疑問だが……。まあ、いい。とにかく君、そこを動くなよ」
端正な顔を大真面目にしかめて、紅焔はぴしりと藍玉に釘を刺す。それから彼は改めて扉に手を伸ばすが、まだ藍玉を疑っているのか、チラチラとこちらを窺っている。
その大きな背中がおかしくて、藍玉は噴き出してしまいそうになった。そんなに期待されたら、逆に付いていきたくなるというものだ。
(とはいえ、私は分別のある狐ですし。何かあれば、すぐに室内に飛びいることもできますし。ここは大人しく、旦那さまの言う通りにしてあげましょう)
そんなふうに、藍玉が静観を決め込んだ時だった。
紅焔が音もなく引き戸を開いた途端、藍玉はスッと世界が遠ざかるような感覚がした。
はっと息を呑んだ次の瞬間、藍玉は遠い昔の懐かしき場所――前世で母と自分が暮らした白玉宮にいた。
「麓姫」
ぽかんと立ち尽くす藍玉の後ろから、優しく、春風に舞う花びらのように軽やかな声が投げかけられる。
つられて振り返ると、白い細面に薄紅を唇にさした美しい女、周囲からは阿美妃と呼ばれる母が、こちらに手招きをして微笑んでいた。
「いらっしゃい。そんな隅にいたら、劉生殿がお前をよく見れないでしょう」
簪の飾りを揺らして美しく微笑む母に、藍玉は――麓姫は素直に頷く。その母の向かいに座る若く見目の良い男が、自分を見て目を細めた。
「これは姫様。少し見ない間に、随分と大きくなられまして」
「リューセイ兄さま!」
深い青――光の加減では紫にも見える瞳を持つ美しいなこの男を、麓姫はよく知っている。彼は父の末の弟だ。ぱっと見の細身から想像付きづらいが、これでも軍人だという。
この優しくて穏やかな青年を、麓姫は実の兄のように慕っている。タタタッと麓姫が劉生のもとに駆け寄ると、母が「あらあら」と声を上げた。
「まあ、麓姫! 淑やかな姫は、そのように殿方に飛びつくものではありませんよ」
「ふふ、ご容赦を。私がしばしこちらに足を運ぶことができずにおりましたので、姫さまが特別に歓待くださったのですよ」
「劉生殿ったら。姫を甘やかしてはなりません」
「これはいけない。私も姫さまと一緒に、母君のお叱りを受けなければなりませんね」
秀麗な顔に柔らかな笑みを浮かべ、劉生が麓姫を膝の上に抱き上げる。
劉生は優しい。その優しさには裏がない。母を尋ねて現れる男――血のつながりだけいえば父にあたる皇帝と違って、麓姫に失望の目を向けたりしない。
幼い麓姫だが、むしろ幼いがゆえに、両者の視線の違いに明確に気づいてしまう。
ぎゅっと劉生の衣にしがみつくと、劉生は笑って首を傾げた。
「いかがされましたか、姫さま」
「兄さま、わたしのこと好きですか?」
「ええ。もちろんにございます」
「母さまも? わたし、いらない子じゃない?」
「麓姫……?」
驚いたように目を丸くして、母と劉生が顔を見合わせる。それから母は頷いて、麓姫を劉生の膝から抱き上げた。
「当然です。あなたは私の大事な宝物。この世に、あなたよりも愛しいものはありません」
「でも、父さ……、へいかは……」
「あのひとも、今は少し焦っているだけ。愛する我が子をいらないだなんて、そんなわけがありません。もしそんなことを言うなら、私が陛下を折檻します」
「せっかん?」
「めっ!と、お仕置きするということです」
ツンと、母が細い指で麓姫の額を突く。きょとんと額を押さえる麓姫に、劉生も身を屈めて笑った。
「恐れながら、私も加勢いたします。私はいつ何時も、姫さまとお妃さまの味方ですよ」
「ほんとう?」
「ええ! 私が、何者にも変えて、お二人をお守りします」
くすくすと風が花を揺らすように笑う美しい母と、優しく微笑んで真摯に自分を見つめる叔父。
――世界のほとんどは、優しさ以外でできている。血縁上の父が望むのはまだ存在すらしていない弟だし、数少ない白玉宮の宮女を除き、後宮の女は自分と母を疎んじている。幼い姫ですら本能的に理解できてしまうほどに、人の世界は残酷だ。
だけど、きっと、絶対に。
この二人がいれば、世界は明るく輝く。
「――――うん!」
大好きな二人を交互に見て、麓姫は破顔した――
「…………ぎょく。藍玉!」
ぼんやりとした眼差しが、次第に焦点を結ぶ。ぱちりと瞬きをしたら、先に梁大将の部屋に入ったはずの皇帝の整った顔が、すぐ目の前にあった。
「旦那、さま?」
「何度も呼んだんだぞ。まさか、ひとりでいる間に眠ってしまったのか?」
不思議そうに藍玉を覗き込んでいた紅焔が、そこで何かに気づいたように言葉を切った。次に口を開いた時、彼の声には気遣わしげな色が混じっていた。
「何があった?」
「え?」
「君、泣いているぞ」
彼がそう言った途端、藍玉の頬を冷たいものが滑り落ち、微かな音を立てて床にあたった。
濡れた頬に触れて驚く藍玉に、紅焔が身を屈める。
「藍玉?」
「……わかりません。一瞬、ひどく懐かしい気配がして、古い記憶に呑まれました。危険はありません。それだけです」
「懐かしい気配? まさか、阿美妃か?」
「はい。……ああ、いえ。厳密には異なりますが。けど、どうしてこんなところにあのひとの気配が……」
まさか梁大将に取り憑くものに関係があるのかと一瞬頭をよぎったが、すぐに首を振った。あの気配は、そんなに強いものではなかった。まるで残香だ。
考え込む藍玉に、紅焔がそっと問いかける。
「春陽宮に戻るか?」
「梁大将は?」
「眠っていた。室内にも特に異常はないように見えたが……」
どうする、と気遣うように首を傾げる皇帝に、藍玉はぐいと服の袖で涙を拭った。一転して藍玉は、明るい水晶のような瞳で紅焔をまっすぐに見上げる。
「梁大将が眠っている間に、私にも室内を確かめさせてください。霊がいなければ、今日の調査はおしまいですよ」




