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“永倫の様子によっては、遅くなるかもしれない。朝の朝にはきちんと報告するから、俺の帰りを待ったりするなよ”
そう言い置いて、紅焔が春陽宮を出て行ったあと。ひとり残された藍玉は、夕餉の残りをもぐもぐと頬張りながらむくれていた。
“旦那さまときたら。幽霊絡みなら、私を連れて行ったほうが絶対にいいのに”
食べ物を口の運ぶのを止めずに、藍玉は憤慨する。向かいの紅焔の皿ときたら、まだ夕餉の半分も残っている。皇帝として激務をこなしているというのに、食事も満足にとらないなんて何事か。残される料理だってかわいそうじゃないか。
だいたい、最近の紅焔はこの世ならざる者たちに慣れすぎだ。初めて会った夜なんて、藍玉が悪霊を吹き飛ばすのを見て、腰を抜かして蒼ざめていた。直前まで(無理をして)悪ぶっていただけに、落差がすごくて可愛げがあったのに。
そんなふうに藍玉がぷりぷりしていると、奥に控えていた宗と玉が部屋に入ってきた。
“姫さま。いま、旦那さまが出て行った気がするよ?”
“姫さま。私たち、旦那さまを追いかけたほうがいいですか?”
“放っておきなさい、お前たち。旦那さまは、ひとりで行くと言っていました”
ぷんすかと怒りながら、藍玉は二人に、紅焔が出て行くまでのやりとりを説明する。すると、玉も宗も“あちゃ~”と首を振った。
“それは旦那さまが間違っていますね。幽鬼絡みなら、絶対に姫さまを連れていくべきです”
“それは旦那さまが悪いよ。幽鬼のことなら、姫さまに見せるのが間違いないのに”
“そうでしょう、そうでしょう。二人もやっぱり、そう思いますよね”
二人の支持を得られて、藍玉は大いに満足する。うんうんと頷き気をよくする藍玉に、さらに宗が畳みかけた。
“そもそも、あの人間はあぶなっかしいんだよね。幽鬼相手じゃなんの力もないくせに、連中を前にしても怯えるどころか平然としちゃってさ”
“っ! そう! 私もそれが言いたかったんです!”
“鬼通院で書庫に閉じ込められたときだって、ボクが一緒だったからよかったけどさ。人間なんて、ちょっと気を抜けば簡単に死んじゃうんだから。もっと身の危険を自覚して姫さまやボクたちの後ろに隠れてくれないと、こっちがヒヤヒヤして困っちゃうよ”
やれやれと肩を竦める宗に、藍玉は首がもげるほど頷きたくなった。
今は皇帝だろうが、過去には戦場で武勲をあげた大将軍だろうが、関係ない。人間の世界には、餅は餅屋にという言葉もある。ここはやはりオカルト専門の契約妻として、旦那さまのために一肌脱がせていただこう。
“ありがとうございます、宗。あなたのおかげで、自分は間違っていないと再確認することができました。私、やっぱり旦那さまを追いかけてまいります!”
「……というわけで。まことに勝手ながら、旦那さまのあとを付けさせていただきました」
「というわけで、じゃないんだなあ!」
えっへん!と胸を張る藍玉に、紅焔は頭を抱えたくなった。
こっちが本気で呆れているというのに、どうしてこの嫁はこんなに得意げなんだ。かわいい。腹が立つくらいかわいい。かわいいけど、腹が立つ。
「こんな夜更けに、女が男だらけの詰所に来るなといっただろう!」
「だからこうして、男の恰好をしてきたではありませんか」
「お前、どこにそんなものを隠し持って! ああ、いや。君に男の服を与えたのは俺だったな……」
目の前でくるりと回ってみせる藍玉は、男物の衣を着ている。既視感のあるそれは、以前、ひとつ目の狐事件の時に紅焔が藍玉に与えたものだ。長い髪も被り物の下に隠してあり、華奢な美少年にしか見えない。
そう、美少年だ。男装してようが何だろうが、藍玉はとにかく顔がいい。むしろ飾りっけがない分、顔の造りの美しさが際立つ。極めつけは衣の上からも分かる細い体躯だ。紅焔に男色の気はないのに、うっかり新たな扉を開いてしまいそうになる。
(藍玉になんてものを与えてるんだ、数か月前の俺……!)
ニコニコと嬉しそうな藍玉の前で、紅焔は顔の半分を覆って悶えた。
「ていうか、あとを付けたってなんだ! 俺はともかくとして、門兵の横はどうやってすり抜けた?」
「そこはほら、私は阿美妃の娘、白の一族の狐ですし」
「はあ!?」
「気配を消す術ですよ。玉に教えてもらって、ここ最近ずっと練習してたんです。気配を消すことができれば、どこにだって旦那さまのお供をすることができるようになるでしょう? まだ玉と宗ほど上手にできませんが、短い間なら出来るようになってきたんです!」
つまり彼女は、もうずいぶん前から紅焔の後ろにいたらしい。紅焔が気づけなかったのも、門兵が気にしなかったのも、覚えたての術で気配を消していたからということだ。
(この娘は~~~~!)
どっと疲れて両手で顔を覆う紅焔の背中を、藍玉がぺしぺしと叩いた。
「まあ、まあ。いいではありませんか。せっかく足を運んだのです。さっそく、梁大将の様子を見に行きましょう」
「俺はよろしくないんだが……。今からだって、君を外に締め出すこともできるんだぞ?」
「知っていますよ。口では厳しく言う割に、旦那さまが私に甘いこと。変装してまで健気に追いかけてきた嫁に、そんな意地悪はなさいませんよね」
妙に確信めいた口調でのたまってから、藍玉は猫を思わせる大きな瞳で紅焔を見上げた。
「それに……。本当に幽霊が梁将軍を苦しめているのなら、あまり悠長にはしていられません。旦那さまもそれがわかっているから、朝を待たずにここまで来たんですよね。せっかくの夕餉もほとんど口をつけずに」
「……っ」
まったく。この娘は、本当に勘がいい。この瞳の前では、何も隠し事ができなくなる。
観念した紅焔は、ため息をついてから扉に手を伸ばした。
「永倫とは俺が話す。君は、その気配を消す術とやらで隠れていろよ」
「仕方ありませんね。それくらいは言うことを聞いてあげます」
「忘れてるかもしれないが、俺、皇帝だからな?」
「覚えておりますよ。それでもえらぶったりしないところが、旦那さまのいいところです」
そんな軽口を叩きながら、ついに紅焔は永倫の居室の戸を叩いた。




