6ー5
紅焔の牽制により、高官からの「我が一族の娘を妃に!」の大合唱は、一旦は収束した。
どうせ夏の園遊会では皆、年頃の娘を着飾らせて参加させるつもりなのだろうが、そこまでを禁じるいわれはない。とにかく、大臣らが大人しくしているうちに、紅焔はそれ以外の公務を忙しく片付けることにした。
連日の雨による城内の突発的な補修。王都の整備。各大臣らとの内政に関する意見交換。夏の行事に向けた確認、承認、承認に次ぐ承認……
「まだ承認することがあるのか!?」
香丞相が新たな書類の束を持って入室してきたのを見た時、思わず紅焔はそう叫んでしまった。
先代の頃から慣れたやりとりなのだろう。まるで幽霊のように線の細い壮年の丞相は、うやうやしく、それでいて迷いなく書類の束を『確認前』の山に積んだ。
「この時期は仕方がないのです。もちろん、陛下がどこまで目を通されるかは、陛下の御心のままではございますが……」
「見ないとは言っていない。少し愚痴りたくなっただけだ」
そうは言いつつ、紅焔の口はへの字に曲がってしまう。
丞相の言う通り、手を抜くのはは簡単だ。実際、重大な法案以外は臣下に任せて、自分は文字通り『承認』だけする王も歴史にはたくさん存在する。
だが少なくとも紅焔はそれを良しとしない。兄と父、尊敬する二人の人間に、紅焔はこの国の未来を託された。その思いを、願いを引き継ぐためにも、国に関する決定にはできるだけ責任を負いたい。
(父のおかげで、香丞相のことを、以前よりは信じられるようになったしな)
“皇帝ってのは、お前が思っている以上に重い冠だ。誰が敵で、誰が真の味方かわからない。俺も焔翔も、その迷路に迷い込み、疑心に呑まれちまった”
藍玉のおかげで父と和解したあの日、父・流焔はそう話した。
“だがな、紅焔。お前には本質を見極める目がある。俺と焔翔が目の前の問題に気を取られているときも、お前だけはこの国の未来を見据えていた。そんなお前になら、あの男も――香丞相も力になってくれるはずだ”
藍玉はなぜか不満そうだったが、父は香丞相を「最も信頼できる臣下」と称した。だからというわけではないが、最近は新たな政策や国内の問題について、紅焔のほうから香丞相に意見を求めたりもする。そうして言葉を交わすうちに、たしかに彼は、己が利権への欲が滲むほかの高官とは異なると納得することができた。
これは紅焔にとって画期的な変化だった。限りなく近しい視座をもち、大国の未来について意見を交わせる相手がいるというのは、これ以上ない救いとなった。
だか、それはそれとして、この仕事量はさすがに気が滅入る。
「体は丈夫なほうなんだがな……」
「あまりこんを詰めては、お身体に触りましょう。雨があがれば、身体を動かしてはいかがでしょうか」
「私もそれは考えた。だが、残念ながらタイミングが悪かった」
渋い顔でため息を吐き、紅焔も窓の外に視線をやる。
丞相に勧められるまでもなく、紅焔も息抜きに近衛武官の訓練に混ざりたいと考えていた。近衛の中には、幼馴染で気心の知れた永倫がいる。彼ならば、喜んで紅焔を訓練に混ぜてくれるだろう。
しかし、その永倫は三日ほど前から体調を崩して休んでいる。見舞いを断られてしまったので直接話せたわけではないが、本人曰く「夏風邪です」とのことだ。
永倫はあれで、近衛武官の長だ。武官長不在なのに、勝手に皇帝が訓練に参加するわけにもいかない。体調不良の幼馴染の気を下手に揉ませてもあれなので、紅焔は大人しく自重したのだ。
「梁大将が体調不良とは。珍しいこともあるものですね」
「アレは強い。すぐにケロリとした顔で戻ってくるだろうよ」
肩をすくめて、紅焔は新たに追加された書類に手を伸ばす。それを眺めていた香丞相は、ふと思い出したように瞬きした。
「そういえば。あの男、梁大将ではなかったか……?」
「梁大将がどうかしたか?」
訝しんで紅焔が尋ねると、香丞相は珍しく言葉を濁した。
「失礼いたしました。少々、つまらぬことを思い出しただけにございます」
「逆に気になる。なんだ、つまらぬこととは」
「陛下のお気を煩わせるほどのことではございません」
「これも気晴らしだ。申してみよ」
紅焔がうながすと、香丞相は迷うように視線を泳がせた。しかし結局、彼は若い皇帝に打ち明けることにしたようだ。
「雨の季節が始まってからのことです。雨の周光通りにて、官人らの間に妙な噂が広まりました」
周光通りというのは、王都・安陽の中心を走る、王都いちの大通りだ。その道は天宮城正面にある周光門に通じ、宮城勤めの官人らが大勢通りを行き来する。
その周光通りで、雨の日に幽霊が出ると噂がたった。
「幽霊?」
「さようです。しかし、姿を見た者はおりません。その幽霊は、足音だけをたてるのです」
雨が降り、地がぬかるむ。官人たちは雨傘をさし、宮中へ、己が屋敷へと急ぐ。
そのすぐ後ろで、ぴちゃり、ぴちゃりと、誰かの足音が響く。
「あの通りは人通りが激しい。近くにいる別の誰かの足音ではないのか?」
「皆、はじめはそのように思ったようです。しかしひとり、またひとりと、それに意を唱える者が増えたのです」
まるで背後にはりつくように、その足音はすぐ後ろから響いた。けれども足をとめて振り返っても、そんなに近くに他の人間の姿はない。
おかしい。奇妙だ。小さな違和感は共鳴しあい、官人の間に膨れていく。やがてその足音の噂は、雨の日に現れる幽霊の噂へと変わっていく。
そんなある日、ついに香丞相の後ろにも、その足音だけの幽霊は現れた。
「私のもとで働く官人らの間でも、幽霊の噂は広まっております。皆、先月の狐の騒動のこともあり大層怯えておるのです」
「それで、そなた自ら、噂を確かめようとしたわけか」
「はい。呪術師を呼ぼうにも、真偽のほどを確かめなければ無駄になりますので」
幽霊の足音を聞いた官人には、徒歩で城を出入りする者が多かった。普段は牛車を使う香丞相も、その日はあえて歩いて屋敷を目指すことにした。
時刻は日暮の少しあと。日中からの雨により地面はぬかるみ、薄暗い大通りに人気はまばらだった。
異変が起きたのは、そろそろ屋敷に向かうため、通りを外れて道を曲がろうかという頃。細雨が水溜まりを叩く音とは別に、ぴちゃりと、明らかに誰かが水を踏む音が背後に響いた。
「背後、という表現は正しくありません。あれは、まるで頭の中に直接響くように、明らかな存在感を持って主張してくる異質な音でした。なるほど。これは確かに、幽霊の足音に違いないと確信いたしました」
「……それで? 姿は見たのか?」
「いえ。お恥ずかしながら、相手がこの世ならざる存在だと意識した途端、振り返るのをためらってしまったのです」
迷っている間にも、足音はゆっくりと、しかし確実に大きくなりながら頭の中に鳴り響く。それに呼応するように、ジリジリと、近づいてくる何者かの気配が大きくなる。
姿を確かめるべきか。聞こえぬふりをすべきか。壮年の丞相は、金縛りにあったかのように雨の通りに立ち尽くした。
しかしその時、丞相の反対側からひとりの男が雨の中を走ってきた。
「背後に気を取られていたため、男の顔は確認できませんでした。しかし、その若い声には聞き覚えがございました」
丞相の横を通り過ぎたその男は、丞相の背後に向けて「やっと見つけた!」と叫んだ。途端、頭の中で鳴り響いていた足音が消え、背後で膨らんでいた嫌な気配も霧散した。
知らずに息をとめていた香丞相は、どっと息を吐き出しながら振り返った。
そこには、さきほどすれ違った若い男が、何かを抱えて雨の中に消えていく姿だけが見えた。
「その男が、梁大将だったのか?」
「陛下のお話を伺って、思い出したのです。聞き覚えがあるあの男の声は、梁大将のものとそっくりでした」
丞相が男を見たのは五日前だ。永倫が休んでいるのが三日前からだから、その少し前だ。
偶然か、必然か。――その時、彼が拾ったナニかのために、永倫は体調を崩した。そう関連付けて考えてしまうのは、藍玉と出会ってからの出来事に引っ張られすぎだろうか。
考え込む紅焔の向かいで、丞相は細雨の降る窓の外へと視線をやった。
「自分でもおかしいと思うのですが、ふとした時に考えてしまうのです。あの若い男は、誰に呼びかけていたのだろう。あの時、彼が腕に抱え上げたものは、私の背後に迫った幽霊だったのではないか、と……」




