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6-1


 シトシトと、弱雨が地面を濡らす。


 いつの間にか季節は進み、楽江の地はひと月ほど続く雨期に突入した。これが終わると、からりと空が晴れ渡る夏が始まる。その頃になれば園遊会やら夕涼みの宴、武芸大会などが活発に開かれるようになるが、雨期の間は行事もほとんどなく、静かなものだ。


 しかしながら、このひと月は来る夏に向けた準備期間であり、文官らにとっては繁忙期にあたる。もちろんそれは、最終的に決議をおろす皇帝にとっても同様であった。


(それでも、政務の隙間を縫って足を運んでしまう俺は、我ながら健気なものだ)


 侍従に差しかけられた傘の下で、さすがの紅焔も自分に呆れて苦笑した。これがいわゆる、惚れた弱みというものだろうか。こうして自覚があってもいそいそと足を運んでしまうのだから、本当に救いがない。


 永倫に知られたら呆れられるか笑われるかしそうなことを考えながら、紅焔は春陽宮に足を運ぶ。しかし、わずかばかり残った自尊心も、自分を待つ黒髪の少女の姿を見つけた途端吹き飛んでしまった。


「旦那さま、こちらですよー」


 紅焔に気付いた藍玉が、笑顔で手をあげる。


 春陽宮の侍女に案内されたように、彼女は池のほとりの四阿にいた。ぶんぶんと手を振ってこっちだと主張する藍玉に、紅焔の胸はぎゅんと掴まれたように高鳴った。


(ぐうかわ…………)


 ひとつ目の狐事件を経て、藍玉の中で若干、紅焔の位置づけに変化が生じたらしい。最近の彼女は、以前よりずっと肩の力を抜いた素の表情を紅焔に見せるようになった……気がする。その変化に、たまらなく胸を鷲掴みにされてしまう。


 ちなみに「ぐうかわ」というのは、紅焔の造語である。最近の藍玉が「ぐう」と呻きたくなるほど可愛いので、そういう意味で使っている。


顔がにやけてしまいそうになるのをなんとか堪えて、紅焔は表面だけはスン……と澄ましたまま、藍玉の向かいに腰を下ろした。


「なぜ外なんだ? こんな雨の日に、濡れてしまうだろう」


「私、雨の音が好きなのですよ。四阿の中なら濡れることはありませんし、なにより雨が水面を打つ様を間近に見ることができます。これはこれで、風情があるとは思いませんか?」


「俺は晴れの日のほうが好きだ」


「でしたら、今日、雨の日の良さを覚えてください。大事。私が教えてさしあげますよ」


 年頃の少女らしく頬杖をついて、藍玉がニコッと微笑む。その可憐な笑みに、紅焔は再び頭の中で(ぐうかわ)と呻いた。


 このままでは年上としても皇帝としても威厳を保てない。こほんと咳ばらいをして自分を宥めてから、紅焔はつとめて平静を装って藍玉に囁いた。


「すまないが、あまり長居はできないんだ」


「そうでしょうとも。お忙しい中、お時間を割いていただき感謝いたします」


 藍玉が背後に控える侍女らに何かを告げる。頷いた侍女は紅焔の前に茶器を用意してから、一礼をして屋敷の中に下がった。それに合わせて、紅焔の侍従たちも四阿を離れる。


 完全に人払いが済んでから、紅焔はさっそく本題に切り込んだ。


「宗から詳細は聞いてるだろうが……。鬼通院の書庫では、阿美妃の最期について、めぼしい情報を得ることはできなかった。すまない」


 あの日――無限に続く禁書庫の中に囚われた日。


紅焔と宗は、ただ出口を求めて彷徨っただけではない。途中、「どうせ外に出られないのなら」と、禁書庫に収められた書物をひたすら読み漁った時間があった。


 幸いにして、どの部屋にも本物の禁書庫と同様の書物が収められていた。「旦那さまの肝の座り方がこわい」なとど引きつつ宗も手伝ってくれたので、しらみ潰しに書物に目を通すことができた。


 にもかかわらず、阿美妃が囚われてから最悪の悪霊に転じるまでの詳細な記録を、見つけ出すことはできなかった。


 しかし藍玉は、紅焔を責めることなく首を振った。


「謝らないでください。むしろ、旦那さまには感謝しています。皇帝の権限を利用して鬼通院の書庫に乗り込むなんて、私には思いつかない妙案でした」


「しかし……」


「実のところ、母の最期に関する記録が存在しないというのは予想していました。母の妖としての力は強大です。処刑されてすぐに狐の力を解放したのなら、近くにいた者は問答無用で命を落としたはずですから」


 藍玉の冷静な分析に、紅焔は口をつぐんだ。それは、当時の記録を調べるなかで、まさしく紅焔も同じ結論に達したからだ。


(阿美妃の処刑の日の記録は、生き残った市井の者たちの証言がほどんどだった)


 紅焔も藍玉の夢を通じて、あの日(・・・)の光景を見ているからわかる。


華劉生をはじめとする軍人、文官ら役人、妃、その侍女に至るまで。皆が皆、一瞬であの青い妖火に焼かれて死んだのだ。だから、阿美妃が死の間際に何を話したのか、彼女が何を思ったのか、もはや知る術は何もない。



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