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――この閉鎖空間は、書庫係の霊が命を落とす瞬間を何度も繰り返している。それが絶対であるからこそ、逆説的に次の事実も導き出される。
すなわち、書庫係は死の間際においても、同室にいた誰かに飛びかかったということだ。
当然これは、次の疑問を生じさせる。
『なぜ書庫係は、同室にいた誰かに飛びかかったのか』
飛びかかったのかという表現は、もしかしたら正しくないかもしれない。なぜなら書庫係の霊は理性がほぼ失われており、ひとつひとつの行動も多少オーバーになっている可能性があるからだ。
とはいえ、彼の意識が死の直前に同室の誰かに向いたのは確かだ。理性を失い、その行動の中身が損なわれたとしても、事実として今の彼がそうした動きを見せている。
ではなぜ、書庫係は自らが書庫の下敷きになる直前、同室の誰かを気にしたのか――
そこを紐解こうとした時、紅焔の頭には春明の言葉が蘇った。
“そうでした。仮に揺れを感じることがあれば、ただちに机の下に潜ってください”
“揺れ?”
“まれに阿美妃が荒ぶり、ここら一体に地震のような揺れを起こすのです。今から二十年ほど前には、倒れた書棚の下敷きとなり命を落とした者もいると聞いています”
「春明――鬼通院の現当主は、この地を襲う揺れを『封印された阿美妃によるもの』だと話した。加えて、この地に住う者は、一人の例外もなく呪術師だ。もちろん、そなたも」
だから、紅焔の頭にはとある仮説が浮かんだ。
呪術師であった書庫係は、揺れが発生する前――自らが書棚に下敷きになるより一瞬早く、妖気の乱れから大きな地揺れが鬼通院一帯を襲うことに気付いた。
その瞬間、彼が同じ部屋にいた誰かに意識を向けた意味。
何度となく崩壊する禁書庫の光景を見せられてきたからこそ、あとは想像するに難しくない。
「過去に例がないほどの揺れがこの地を襲うと理解した瞬間、そなたは同室にいた者を案じた。……案じた、という意識すらなかったのかもしれない。ただ本能的に、どうしようもなく、そなたはその者を『守らねば』と手を伸ばした」
それがそのまま、『未練』となった。
理不尽すぎる唐突な生の終わりに、剥き出しの強い欲求がこの世に焼きついた。
そのなれ果てが、目の前の彼だ。
「以上が、そなたの死の間際に起きた事実のすべてだ。そなたは揺れを予知し、とっさに近くにいた者を揺れから庇おうとした。直後、そなたは絶命した。ゆえに、己の行動の結果を、そなたは知らなかったはずだ」
その相手がどうなったか、紅焔にもわからない。外に出れば何かしら記録が残っているだろうが、閉じ込められている限りは調べようのないことだ。
しかし重要なのは事実ではない。重要なのは書庫係の最期の時に誰かを守ろうとしていたということと、その行動の結果、守りたかった誰かを守れたのかがわからないため、彼が現世に縛られてしまったということだ。
だから紅焔は、『彼』が最期に望んだ光景を――手を伸ばした相手が地揺れを越えてなお無事である姿を、二十年の時を経て演出してみせたのだ。
そこまで聞いた宗が、困ったように眉根を寄せた。
「でも、さ。おかしくない? これまでもボクたち、何度も禁書庫の崩壊に巻き込まれかけて、その度に無事だったよね。ボクらが無事であることがその幽鬼の未練を晴らすことに繋がるなら、どうして彼は今まで満足しなかったの?」
「それは俺たちが、彼の『死』の外に逃れたからだ」
紅焔たちはこれまで、書庫係の霊に遭遇するたび、彼が現れたのとは反対側の部屋へと逃げ続けた。書庫係の霊もまた、生前に刻まれた本能により、凄まじい速さで追いかけた。
しかし最終的に、書庫係の霊は禁書庫の崩壊に追いつかれ、潰されてしまう。
「禁書庫の霊が姿を現す最初の部屋から、彼が書棚の下敷きになる地点まで。おそらく、その間がより厳密な『死の間際の再現』と定義づけられているんだ」
ゆえに、書庫係が下敷きとなる地点の先に逃れた紅焔らは、彼の死と無関係なものとして再分類されてしまう。
「無関係な俺たちは、彼の未練を満たす存在になりえない。だから彼は、何度でも死の瞬間の光景を繰り返す――。この連鎖を断ち切るには、俺たちは彼の死と繋がりを保ったまま、禁書庫の崩壊を生き延びる必要があった」
「そっか! だから机の下だったんだね」
「ああ」
禁書庫、それも幽霊のすぐ隣の机は、当然彼の『死』の内側だ。その下に飛び込み、禁書庫の崩壊をやりすごす。そうすることで紅焔は、書庫係の死にまつわる一連の出来事の中に「共にいた者が助かった」という事実を加えた。
その事実は、書庫係の記憶に刻まれた。
(書棚に潰されたあとは完全に沈黙していた彼が、こうして姿を見せたのがその証拠だ)
沙汰を待つように、もしくは待つべきものを忘れてしまったかのように、俯いたまま動かない書庫係の霊の手に、紅焔はそっと手を重ねた。
「もう十分だ」
はじめて触れる肌は、生者にはありえないほどひやりと冷たい。その冷たさの奥に残る彼の想いに届くよう、紅焔はまっすぐに告げた。
「最期の瞬間、他者を慮ったそなたの気高さに、心から敬意を払おう。――今はもう眠れ。長き勤め、大義であった」
その時、ゆっくりと書庫係の霊が顔を上げた。
その双眼は落ち窪んでなどおらず、彼は人好きのする穏やかな笑みを浮かべていた。
笑い皺の刻まれた口元が、何かを伝えようとゆっくりと開く。しかし、その声が紅焔たちに届くことはなかった。
気づけば書庫係の姿はふわりと解け、すべてが幻だったかのように、崩壊の跡もかき消えていたのであった。




