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「……やったか?」
自分でも怪しいと思いながら、紅焔は枯れた腕をおそるおそる見下ろす。
宗も半信半疑なのだろう。紅焔を下ろして一歩下がらせてから、警戒するように下敷きになった幽鬼に近づく。ケシケシと何度か細腕を蹴っ飛ばしてから、宗は釈然としないという顔で紅焔を振り返った。
「――うん。こいつにもう敵意はない。というか、中身が空っぽになっちゃった」
「ただの死体ということか?」
「そうとも言うね」
宗の言葉を受け、紅焔もしゃがみ込んで死体の腕を確かめる。たしかに、腕はもう全く動く気配がない。さっきまで髪を振り乱して襲いかかってきたのが嘘のようだ。
(一体なんだったんだ……?)
以前藍玉は、幽霊が現世に留まり続けることを『残酷な呪い』と称した。それが明るい願いであれ、誰かへの憎しみであれ、満たされない思いを抱き続けることがその魂を歪めてしまうとも。
さっきの霊も、同じなのだろうか。同じなのだとしたら、あの霊は何を目的に紅焔たちを襲おうとしたのか。
(……あるいは、願いすらも忘れて狂い果ててしまったか)
「それで、どうする?」
宗に問いかけられ、思考にくれていた紅焔は我に返った。腰に手を当てて首を傾げる小さき妖狐に、紅焔も小首を傾げて答える。
「どう、とは?」
「脱出だよ! まさかあんた、こんなところに永遠に閉じ込められてるつもりじゃないよね?」
そうだった。とりあえず目の前の脅威は去ったが、外への出口は見つからず仕舞いだ。それどころか、今の追いかけっこのせいで、あまり好ましくはない事実が判明してしまった。
「宗。俺たち、いくつくらいの部屋を逃げてきた?」
「さあ? いちいち数えてないからわかんないけどさ、20部屋は走り抜けたんじゃない? ……あ」
「気づいたか」
小さな手をパッと口に持っていった宗に、紅焔は頷く。
おかしいのだ。最初に調べものをしていた部屋を出てから、紅焔は10部屋も通り抜けていない。にもかかわらず、幽霊に追いかけられて逆方向に走り抜けた時には、20部屋を超えても”はじまりの部屋”にたどり着くことができない。
(俺たちが最初にいた禁書庫には、出口はひとつしかなかった。だから、部屋を見落とすことはありえない。というか、もし途中に本物の禁書庫があれば、一直線に駆け抜けること自体が不可能なんだ)
「え……。じゃあ、ボクたち、本格的にどうすればいい? 本物の禁書庫からも切り離されて、完全に異空間に迷い込んじゃったってこと?」
宗は一転して、オロオロと動揺する。明るい髪の間から覗く三角耳がシュンと折れて、こんな時なのにひどく愛らしく見えた。
それに苦笑してから、紅焔はふむと口元に手を当てた。
「どうだろうな。さっきはあの幽霊が追いかけてきていたから、最初の部屋に戻れなかったという線もある」
「ボクたちが外に出れないのも、この幽鬼のせいってこと? ……待って。たしかにこの抜け殻からも、禁書庫に満ちているのと同じ波長の力を感じる」
「どういうわけか、その幽霊は自滅してそこに倒れている。今なら出口を見つけられるんじゃないか?」
「うーん……。可能性はゼロじゃないけど……」
普段のあっけらかんとした言動をよそに、宗は意外にも慎重に考えこむ。少年のような風貌をしているが、実際にはもっと歳を重ねているのかもしれない。
(まあ、たしかに。外に出られないのがこの霊のせいだとしたら、矛盾があるんだよな)
幽霊の力で紅焔たちを惑わせているのだとしたら。幽霊が完全に沈黙した今、紅焔たちは亜空間から元の世界に直ちに戻れるはずだ。
しかし実際には、前後どちらの扉の先も、相変わらず禁書庫が延々と続いている。
考えられる可能性は、二つ。紅焔たちを閉じ込めている元凶が別にいるか。もしくは、死体のように転がっているこの幽鬼が、まだ力を隠し持っているかだ。
(そもそも相手は死人だ。時間がたてば復活するかもしれないし、本体がこれとも限らない。どちらにせよ、ここに長居するのは得策じゃないな)
「とにかく、ここを離れよう。歩いていけば、また何か新しい変化があるかもしれない」
「賛成。で、どっちに進もうか。……って、残念ながら、選べる道はひとつみたいだね」
先ほど逃げてきた道をちらりと確認した宗が、やれやれと首を振る。
逃げている間は必死で気づかなかったが、崩れているのは幽鬼を押しつぶした書棚だけではない。その先も――おそらく、自分たちが逃げてきた部屋のすべてが、棚が倒れたり、天井の板の一部が崩れて落ちたりしている。
膝を払って立ち上がった紅焔は、自分たちの背後、何も崩れてはいない部屋が続く側の入り口を振り返った。
「行くぞ、宗! 出口を探そう」
……そうして再び歩き出した二人だが、出口の捜索は再びすぐに頓挫することになる。
なぜなら、それは。
『ギイイイィィィィアアアァァァァ!!!!』
硝子を爪でかいたような雄叫びをあげ、常人にはあらざる速さで追いかけてくる幽鬼。
つい先ほどと全く同じ光景に目眩を感じる紅焔を抱えて、逃げる宗は悲鳴をあげた。
「なんでさ!! なんであいつが、こっちにもいるのさー!」




