5-1
「あああ、もう! なんなのさ、あの幽鬼は!」
目を白黒させて、藍玉に仕える双子のうちの一匹、宗が毒づく。
書庫に閉じ込めまれて、もうどれくらいが経つのだろう。考えてすぐに、紅焔は首を振った。
頭上にある細窓から差し込むのは、ここに案内された時と同じ、午後の柔らかな日差しのまま。体感では、とっくに陽が落ちてもおかしくないくらい、時間が経っているのにも関わらずだ。
深呼吸をして息を整えてから、紅焔は美しい切れ長の目を光らせ、冷静に思案する。
「しかし、これではっきりしたな。外に出るには、あの文官の霊をどうにかしなきゃならない」
「無理だって! あいつ、僕らを見つけたら問答無用で追いかけてくるんだぜ!? どうにかしたくても、意思疎通すらできないよ!」
「何かとっかかりがあるはずだ。文官の霊の未練を晴らし、無限に続く書庫の迷宮から外に出るための鍵が」
ひゅうと、どこからか湿った風が室内を駆け抜ける。それが外から吹き込んだものなのか、はたまた霊障の一種なのか、今の自分たちには判別がつかない。
なにせ紅焔たちは、右を見ても左を見ても、戸口の向こうに同じ部屋が無数に連なる、無限回廊としかいいようのない書庫に閉じ込められているのだから――
時は半日ほど遡る。
王都・安陽の西のハズレの高台にある呪術師らの寺院、鬼通院。阿美妃を封じる忌み地として恐れられ、呪術師以外近づこうとしないその場所に、紅焔は初めて赴こうとしていた。
なんだってそんなところに行く必要があるんだと、天宮城を出る前に、永倫に散々呆れられた。
永倫が文句を言うもの当然だ。鬼通院は安陽の地にありながら、唯一皇帝の所有物ではないからだ。
国が代わろうが王に疎まれようが、鬼通院はいずれの君主にも跪かない。記録によれば、その在り方のせいで王の怒りを買うこともあったらしい。しかし、結局は阿美妃の呪いへの恐れが勝り、鬼通院を潰したり手を出そうとする王はいなかったようだ。
(だから、お前も下手に関わるなと。永倫のやつ、珍しく粘っていたな)
いまこの瞬間もぶすりと渋ヅラで輿を先導しているだろう幼馴染を思い、紅焔は苦笑した。
永倫にはいまだに、藍玉の力や正体についてはもちろん、自分と彼女が阿美妃の千年の呪いを解くつもりだということを話していない。
けれども、紅焔がひとつ目の狐を追って王都に出てから、紅焔がなにかしらの厄介に首を突っ込もうとしていることに気づいたに違いない。
兄への罪悪感から他者に心を閉ざしていた時分にも、永倫は唯一、紅焔が心から信頼を続けた相手だ。然るべき時が来たら、藍玉に許しを得た上で永倫にも秘密を共有するつもりだ。
しかし、もはやここまで来ると、然るべき時とは一体いつなのだろう。
そんなどうでもいいことを悩んでいると、紅焔を運ぶ輿が一層揺れて止まった。目的の場所に着いたらしい。
「陛下」
「ああ」
永倫の呼びかけに答えると、薄布がどけられる。砂利を踏み締めて外に出た紅焔を、頭を垂れる護衛武官と鬼通院の呪術師たちが迎えた。
「お待ちしておりました、陛下」
並ぶ呪術師たちの中心に立つ春明が、春風のように爽やかな笑みで進み出る。鬼通院の若き長は、今日も今日とて浮世離れした美しさを身に纏っている。天に続きそうなほど長い石段の前に立ち、春明はふわりと微笑んだ。
「陛下をこの地にお迎えすることができ、今代の長として嬉しく思います。さっそく、本殿へとご案内させていただきましょう」
安陽は山に囲まれた台地だ。都のはずれまで行けば坂や高台が多く、鬼通院はその中でもとりわけ起伏の激しい、ほぼ山の中腹にある。
紅焔が輿を降りたのは、まだほんの入り口だ。この長く険しい石段を上った先に、ようやく本殿や呪術師たちの住まう館がある。正確に言うならば、鬼通院は地理的にも安陽の『外』にあるのだ。
「申し訳ありません。なにぶん、鬼通院への出入りはここからしかできないもので」
階段のまだ中腹にも差し掛からないところで、春明は心配そうに眉尻を下げた。彼を初め、鬼通院の呪術師たちは皆一様に涼しい顔をしている。
僅かに上がりかけた息を悟られないように整えつつ、紅焔は永遠に続きそうな石段を見上げた。
「大したものだな。この石段を、平然と上り下りするとは」
「そうでもありませんよ。そもそも我々は、石段を下りる機会がそうありませんし」
「市場に用事があれば降りることもあるだろう」
「私共は、基本的には自給自足で賄っております。医術の覚えがある者もおりますし、よほどのことがなければ中で解決できるのですよ」
朗らかな声音だが、紅焔は少なからず驚いた。そして同時に思い出した。そもそも鬼通院は、史上最悪の怨霊を遠ざけ、都から切り離すための忌み地であったと。




