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「考えてみろ。この国は千年もの間、分断され、争いを続けてきた。再び統一できたのは、英雄豪傑たちを口説き落とした父上の手腕があってこそ。そこが厄介なんだ」
紅焔の実の父にして、瑞国統一を成し遂げた初代皇帝、李流焔。彼に政治の才はなかったが、他者を惹きつける才は豊かだった。皇帝の座を退いた今でも、流焔を慕う者が瑞国の中枢に少なからず存在する。
だからこそ紅焔は、父から玉座を奪ってすべての権限を削いで都から追放した時にも、表向きは譲位となるよう手順を踏んだ。
だけどそれだけでは、完璧とは言えない。
「いずれ父の存在は、新たな火種に必ずなる。私に不満を持つ者か、野心を抱く者か。父が望まずとも、誰かが父を担ぎ上げ、再びこの地を戦火にくべるだろう」
そんなことは許されない。そんな未来を、見過ごすことはできない。だからこそ、理由が必要だ。今なお慕われる先代皇帝を法の下に裁き、処刑する正当な理由が。
「これは戦だ。この国の未来のため、父上には正しく死んでもらわねばならない」
永倫はしばし、口にすべき言葉を無くしてしまったように、視線を揺らした。ややあって、彼は何かを決意したように拳を固めて、紅焔を睨んだ。
「もうやめましょう。貴方がこれ以上、その手を汚す必要はないはずだ」
「私は血染めの夜叉王だぞ。必要なら、いくらでも血を浴びるさ」
「こんなことを続けていたら、本物の夜叉となってしまいますよ」
「覚悟ならとうにできている」
「本当に覚悟できているなら!」
不意に声を荒げた永倫に、紅焔はぴくりと眉根を寄せた。紅焔が沈黙して続きを待っていると、永倫は胸に手をやって二、三度深呼吸をしてから、どこか傷ましいものを見る目で紅焔を見つめた。
「だったら、なぜ。貴方はそんなに、苦しげな顔をしているのですか」
「…………は?」
虚を突かれて、思わず紅焔は立ち上がった。
永倫は、いまだ紅焔から目を離さない。だから紅焔は、わずかに困惑して己の手に視線を落とす。
(迷いがあるというのか? この俺に?)
だが、その手が選んできたものを思い出して、紅焔はすぐに首を振った。
「違うぞ、永倫。俺に迷いはない。迷うことも許されない。そういう段階は、とうに踏み越えた」
蝋燭の灯りを受けてもなお、夜の闇の中に紅焔は立っている。
後戻りはできない。立ち止まることも許されない。だから、紅焔はゆるぎない眼差しで永倫を見据える。
「どれほど恨まれようが、いずれ地獄に堕ちようが、私はいまの平和を守り抜く。それが、俺の選んだ皇道だ」
そう。たとえ、誰に呪われるとしても。
――心の中でそう唱えた時、灯りがすべて消えた。
(敵襲か!?)
とっさに紅焔は身構えた。だが、少しでも殺気があれば、手練れの永倫が見逃すはずがない。飄々として見えて、永倫は強いのだ。
周囲を警戒しつつ、紅焔は壁に飾る剣に手を伸ばそうとする。――だが、剣に指先が触れる前に、紅焔は室内の異変に気付いた。
ペタリ、と。湿り気を帯びた音が、出入り口のあたりに響く。目を凝らしても、音の主は見えない。なのに、なぜか紅焔はその音を、血塗れの手が床を打つ音だと、瞬時に理解した。
ペタリ、ペタリと、ねばつくような粘着質を帯びた音が二、三続く。音は確実に、紅焔に近いてきている。このままではまずい。本能的な恐怖に心が悲鳴を上げるのに、まるで金縛りにあったように紅焔は動けない。
汗が背中を伝い、喉がからからに乾く。硬直する紅焰にむけて、次の瞬間、ソレはペタペタベタベタッ!!と、ものすごい勢いで肉薄してきた。
「わ………うわああ!」
たまらず、紅焔は顔を背けて悲鳴をあげる。目を閉じる刹那、赤黒い手が二つ、自分を絞め殺そうとするように飛び掛かってくるのが見えた。
衝撃の代わりに、大きな静電気のような乾いた音が走り、チカチカと瞼の裏で紫電が走った。それを不思議に思った次の瞬間、ぱっと辺りに灯りが戻った。
「……陛下! 聞こえますか、コウ様!」
「永倫、か……?」
幼い頃からの愛称で呼ばれて初めて、紅焔は幼馴染に肩を掴まれていることに気づいた。
どっと汗が吹き出し、今更のように足が震え出す。息が上がって、まるで全速力で走ったあとのようだ。よろめく紅焔を支えて、永倫は気遣わしげな顔をした。
「どうしたんだよ、急に。亡霊を見たような顔をしたと思ったら、悲鳴なんかあげて。顔も真っ青だ」
「何って……。お前は、アレが聞こえなかったのか?」
「あれって? なんのこと?」
「灯りが消えただろう! 部屋が真っ暗になって、それで……」
途中で、紅焔は口をつぐんだ。永倫の戸惑う表情を見れば、これ以上は無駄であることが歴然だった。
(部屋が暗くなったのも、あの音が聞こえたのも、俺の気のせいだというのか?)
だが、そんなことはありえない。だって、まだこんなにも手も足も震えている。迫り来る重くるしい気配も、近づいてきたときに鼻を掠めた錆びた鉄のような匂いも、ただの妄想だなんてとても納得できない。
(俺は……気が触れてしまったのか?)
無意識に紅焔は、右手で口元を撫でた。心配そうにそれを見ていた永倫が、ハッとしたように目を瞠った。
「待って。その手どうしたの?」
「は?」
――この時、紅焔は見ることができなかったが、彼の指が触れた頬や口元には、真っ赤な血がベットリとついていた。それもそのはず。紅焔の両手は、今まさに人を殺めてきた直後のように、鮮血に濡れていた。
ああ。兄の首を拾った時も、こんな手だったな。
血塗れの両手を見下ろしながら、ぼんやりとそんなことを思ったのを最後、紅焔の視界はぐりんと回った。
「コウ様!」
遠くで永倫が叫ぶのが聞こえる。その声に答えてやることもできずに、紅焔の身体はその場に崩れ落ちた。