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おひさしぶりです!
永倫が警戒して、そっと右手を腰の剣に持っていくのが視界の端に映る。それを無言で制してから、紅焔は近衛武官たちをさがらせた。永倫は最後まで何か言いたげだったが、ここは譲るわけにはいかない。
会話を聞かれないほど彼らが離れたのを確認してから、紅焔は軽く笑って肩を竦めた。
「驚いたな。下手をしたら、君とは昨晩が今生の別れになったかと思っていた」
「それを言うなら、私もです。私はてっきり、貴方は大軍を率いてあの場に戻ってくるものと思っていました」
「君がいなけれれば、俺はあそこで死んでいた。幾度も命を救ってもらった恩人を、問答無用に処刑するほど俺は狭量な男じゃないぞ」
冗談めかして笑ってみせるが、藍玉は沈痛な表情を崩さない。自分のペースを崩さない彼女らしくもなく、なんと切り出すべきか迷っているようだ。
(こういうところは、普通の娘なんだがな)
ふっと笑ってから、紅焔は表情を引き締めた。
「俺は太古の昔から世を蝕む恐れや呪いではなく、この目で見てきた君を信じると決めた。そのうえで、改めて君に問おう」
藍玉の薄水色の瞳が陽の光を受けて輝く。そのまっすぐな瞳を真摯に見つめて、紅焔ははっきりと言葉を唇に乗せた。
「君は阿美妃の娘、麓姫の生まれ変わりだな」
藍玉が目を見開き、体の前で合わせた両手にぎゅっと力がこもった。その指に鮮やかな緑の石の指輪――おそらくは妖玉髄のはめられた指輪が、きらりと光を放つ。
ややあって肩を落とした彼女は、憑き物が落ちたような顔で微笑んだ。
「そこまで見抜かれては、言い逃れもできませんね」
すっと藍玉が膝を折る。香家の令嬢として身に着けたものか、もしくは前世の皇女教育の賜物か。どちらにせよ完璧に美しい礼をして、藍玉は鈴の音のような声で答えた。
「蘇芳帝と阿美妃の間に産まれし第一の姫、麓姫。それが、私の正体です」
どちらから誘うでもなく、二人は大きな池に沿って並んで歩く。
いつのまにか冬の肌を刺すような冷たさはなくなり、かわりに柔らかな風にはほのかに甘い花の香りが混ざる。
じゃり、じゃりと砂を踏みしめながら、藍玉は静かな池と同じく凪いだ表情で、静かに語り出した。
「物心がある頃から、私には麓姫として生きた前世の記憶がありました。その記憶が本物だと確信したのは、玉と宗が私の前に現れた時でした」
前世で母から教わった、ひとつの呪符。それは阿美妃の故郷――自らを『白の一族』と呼ぶ妖狐の一族に、自分の居場所を知らせるものだった。
呪符に導かれ、玉と宗は藍玉のもとにたどり着いた。そして藍玉は、前世の母が歴史上最悪の怨霊としていまだに現世に囚われ、鬼通院に封じられていることを知った。
「知らなかったのか?」
驚いて思わず紅焔は尋ねてしまった。言い伝えを信じるならば、藍玉――つまり麓姫は戦火を逃れ、生き延びた。鬼通院が怨霊と化した阿美妃を封じた時、彼女は存命だったはすだ。
しかし藍玉は、淡々と首を振った。
「知りませんでしたよ。なにせ私は、母が都を大火に包んだその夜に、炎に撒かれて死にましたから」
「っ!」
息を呑む紅焔は、続く言葉を見つけられずに視線を伏せるしかなかった。
同時に思い出した。以前、翡翠の髪飾りに宿る霊を待って、藍玉と同じ寝床に入った夜。紅焔は大火に燃える都と、その前で泣き崩れる少女の夢を見た。
あの少女は、前世の彼女だった。締め付けられるような胸の痛みは、悲しみは、恐怖は、あの日の彼女が感じたものだった。
力のないものから順番に命を落とす。以前藍玉が口にした言葉は、一般論などではなく、彼女の経験に基づくものだったのだ。
(あの小さな体で、あんな身を引き裂かれるような思いをして……。最期の時、さぞや無念だっただろう)
無意識のうちに、紅焔は拳を握りしめる。その手にちらと視線を送った藍玉は、少しだけ救われたように表情を緩めた。
「話を続けましょうか。あの日は、朝からとても慌ただしい日でした。外が騒がしくて、侍女も下女も皆が何かに急かされているようでした。そんな中、母は私を乳母にたくし、私たちを城の外へと逃したのです」
ほどなくして、まずは帝の居城が落とされた。勢いそのまま兵は阿美妃の居城へと流れ込み、城に残っていた母を捕らえた。
それを彼女は、古い寺院の奥にひっそりとある物置小屋に隠れている際に、外で乳母と僧侶が話すのを聞いて知った。
「難しいことはわかりませんでしたが、よくないことが起こっていることだけはわかりました。母は私に、どこかに隠れたら里の者を呼ぶように言いましたが、私はそうしませんでした。母が私をどこかに逃がそうとしているのは明らかでしたし、そうなれば母と二度と会えないとわかっていたからです」
寺院に隠れること三日目、世界は一変した。
母の処刑のことを聞いたのだろう。乳母は町の様子を見てくると、昼過ぎから小屋を出ていた。
残された彼女は僧侶が厚意で用意してくれた蒸した芋を無理に押し込むように食べ、水を少量飲み、小さな体を縮めて小屋の中で子犬のように眠っていた。
そんな彼女の鼻に、焦げ臭い匂いが掠った。
「寺院は町のハズレの、高台の上にありました。目を覚ました私はパチパチと何かが爆ぜる音と、遠くに響く大勢の悲鳴を聞きました。乳母の姿もなく、私はおそるおそる外に出ました。そこで初めて、都が燃えていることに気づきました」
舐めるように燃え上がる真っ赤な大火。立ち尽くす彼女に、誰かが早く逃げなさいと叫んだ。それが炎に包まれた乳母と気づいた彼女は、無我夢中で逃げ出した。
「寺院の裏に走って、木の間を駆け抜けて、気がつくと私は開けた丘の上にいました。そこからは、燃える都が一望できました。その恐ろしい光景の中心に、私は母を見つけたのです」
その先に起こったことは紅焔にもわかる。
炎の中から首をもたげた巨大な狐は、咆哮して空に昇って消えた。残された少女は悲痛な叫びをあげ――追いついてきた炎に撒かれて短い生涯を終えた。




