3-18
「なんですって?」
そっぽを向いていた藍玉が、さすがに聞き捨てならないと表情を変えて嘉仁を睨んだ。紅焔の忠告を覚えていたのか、さすがにそれ以上の糾弾を彼女は行わなかったが、嘉仁はどこか勝ち誇った様子で藍玉に目をやった。
「我ら鬼通院には、怨霊を従え己の使い魔とする秘術がございます。私は淵方士に、現鬼通院において式神使いとして最も優れた呪術師と認められた男なのですよ。この程度の狐、陛下の御前で我が式神の養分としてご覧にいれましょう!」
芝居がかってそう言うと、嘉仁は藍玉が止める間もなく前に手を突きだして「現!」と唱えた。途端、彼の足元が怪しげな紫の色を放ち、地面がボコりと膨らむようにして中かから巨大な髑髏が上半身を起こした。
「餓者髑髏……!」
城の大門と並ぶほどの巨大な髑髏を見上げて、藍玉が信じられないといった様子で目を見開いた。それが何かはわからなかったが、ひとつ目の狐に引けを取らない凶悪な異形であることだけは紅焔にも理解できた。
「またそうやって、あなたたちは死者の魂を弄ぶような真似を!」
ギリッと歯を噛み締め、藍玉は見たことがないほど鋭い眼差しで髑髏を睨んでいる。
ひとつ目の狐は漆黒の闇で形作られた全身の毛を逆立てて、髑髏を威嚇している。それをものとはせず空虚な口を開く髑髏を従え、嘉仁は不敵に笑った。
「飯の時間だぜ、餓者髑髏。狐に喰われた奴の悲哀と恨みごと、千年の呪いすべてをてめえの腹におさめちまえな……!」
嘉仁のひと言が合図になったのか、餓者髑髏がおぞましい咆哮をあげる。空気がビリビリと震え、一瞬、荒野で朽ち果てた数多の雑兵たちが束になって襲いかかってくるような、そんな幻覚を紅焔は見た。
髑髏が一度のけぞり、大口を開けてひとつ目の狐に襲いかかる。
狐が喰われる! そう思った時、紅焔は左手首に何か熱が当たるのを感じた。
(熱を持っているのは……藍玉に借りた腕輪の石か?)
緑玉髄が淡い光を放ち、ほのかな熱を肌に伝えている。これは一体、何を知らせているんだ。訝しんだ刹那、紅焔は再び足元が不意に消えてなくなるような強烈な恐怖を覚えた。
――振り返ると、果たしてソレはいた。もはや理由も理屈もなく、この世に存在する人間を等しく呪い穢すだけの漆黒の獣。
ひとつ目の狐がもう一匹、額に割れる真っ赤な瞳でこちらを見ていた。
「藍玉!!」
かつて戦場を駆け抜けていたころの勘が働いたというべきか。自分でも理由がわからぬまま、紅焔は地面を蹴って藍玉に手を伸ばした。
そのまま覆いかぶさるようにして彼女を地面に押し倒す。それとほぼ同時に、スパッと空気を裂くような乾いた音と、「ぎゃあ!」という苦悶に満ちた呪術師たちの悲鳴が響いた。
「旦那さま……?」
困惑する藍玉の大きな瞳と視線が交わる。一拍遅れて、火が燃え広がるように背中に痛みが走った。
「くっ……」
「旦那さま!」
血相を変えて、藍玉が身を起こす。止めたかったが、がくりと全身の力が抜けていく心地がして叶わなかった。がくりと崩れ落ちる紅焔を、下から抜け出した藍玉が支える。
「旦那さま、しっかりしてください!」
「大丈夫だ。傷は浅い」
見えない刃は布を深く切り裂きはしたが、肌は掠っただけだ。それなのになぜ、身体が思い通りに動かないのだろう。
強い眠気に襲われる紅焔に、藍玉が両手を翳す。
「目を閉じてはいけません! いま穢れを祓います!」
藍玉が何かを唱え、彼女の指輪の石が澄んだ緑色の光を放つ。すぐに背中の熱が嘘のように薄れ、全身を襲う気怠さがなくなった。
「ありがとう。かなり良くなった」
「何をしてるのですか! 私を庇って怪我をするなんて……」
「腕輪が後ろに狐がいると教えてくれたんだ。そうじゃなきゃ、君を庇うどころか死んでいた」
言いながら、ハッとした。
そうだ、狐だ。囚われたのとは別の狐が、背後から見えない空気の刃で紅焔たちを襲ったのだ。
呪術師たちは無事か。ひとつ目の狐はどうなった。先ほどの悲鳴は?
焦る気持ちで紅焔は前を向く。そして、見るも無惨な光景に目を瞠った。
(狐を捕えていた呪術の檻がなくなってる?)
慌てて首を巡らせば、五人の呪術師は全員ほうぼうに飛ばされて伸びていた。目立った傷はないようだ。おそらく、風の刃に切り裂かれる刹那にそれぞれ身を守ったのだろう。
命を落とした者がいないのに安堵したのも束の間、 紅焔は血の気が引く思いがした。主人である嘉仁が気を失ったためか、餓者髑髏がゆらりと煙のように消え、かわりに自由になった一匹目の狐が悠然と立ちあがるのを見たからだ。
見守るしかない紅焔の視線の先、あとから現れた二匹目の狐が、軽やかに通りの中央に飛び込む。そして、まるでそうすることが当たり前であるかのように、一匹目の狐をパクりと大口で呑み込んだ。
(あ……)
目の前の狐の身体が山のように膨れ上がる。妖気と呼ぶべきものがその中で暴れ回り、急速に力を増していく。漆黒の体のあちこちに亀裂が走るようにして真っ赤な瞳が無数に生まれ、青白い怪し火があたりに燃え広がっていく。
生まれかわった狐は、高らかに夜空に向けて咆哮した。
――ああ、そうかと。なすすべもなく、紅焔は理解する。
狐に喰われたのは、見つかった十人だけではなかったのだ。姑息に、慎重に、狐はより多くの人間の魂を喰らって隠れていたのだ。
そしていま、溜め込んだ力の全てを解放し、呪いの怪物として真の姿を露わにした。
(こんなもの、一体どうしろっていうんだ……)
恐怖を通り越して、いっそ笑いすら漏れてしまいそうだ。
鬼通院の呪術師たちは倒れた。たとえこの場に春明がいても、この化け物を倒せるかわからない。ましてや、自分など無力に等しい。
だが、それでも。
(君はまだ諦めていないんだろ、藍玉!)
なにやら確信めいたものを覚えつつ、紅焔は懐から隠していた短刀を取り出す。そうして彼は、次の一手を繰り出すべく背後の妃を振り返り――
――そのまま、固まった。
「…………は?」
ぽかんと、文字通り紅焔は呆けた。狐の異形の脅威すら忘れてしまうほどに、目の前の光景を頭が理解できない。
そこには、白い狐がいた。……いや。頭部に狐の耳をはやし、ふわりと孔雀の尾が開くように九尾を背後に広げてはいるが、核となるのは白き衣をまとう人間の娘だ。
正確には、ひとの形をした妖が、そこにいた。




