3-17
簡易式神からの情報を辿り、二人は月のない夜空の下、がらんとした道をいくつも駆け抜けた。
たしか次の角を曲がった道をまっすぐ行くと、天宮城の西門に通じるのだったか。そんなことを考えた時、先導する藍玉がぱっと立ち止まって手を掲げた。
「その角の向こうに、ひとつ目の狐がいます」
「わかった」
深呼吸して息を整え、二人は建物の影に隠れて通りを覗いた。藍玉の後ろからそっと角の向こうを窺った紅焔は、そこに見えたものにドクりと心臓が跳ねる心地がした。
(あれが、阿美妃の呪いから生まれた異形……!)
悲鳴をあげないよう、とっさに口を塞ぐ。それでも、嫌な汗が噴き出すとともに全身が粟立つ心地がし、ヒューヒューと唇から呼吸の荒れる音が漏れ出た。
――この世で最も邪悪なもの。そう呼べるものが、そこにいる。
人間の喜びも悲しみも関係なく、等しく呑み込む漆黒の闇。厄災の象徴として存在するその額に、禍々しく血の色に燃える真っ赤なひとつ目だけがぎょろりと光る。
安陽のひとびとがなぜ狐を忌み嫌うのか――千年も昔に封印された怨霊の残滓をこんなにも恐れるのか、紅焔はこの時に初めて真に理解した。
たしかに、『狐』は現世で最も悪しきものだ。アレには、もはや理由がない。ただそこに存在し、ただあるがままに人間を呪い、ただ当たり前に人を喰らう。そういう獣であることが、理屈ではなく本能的にわかってしまう。
あんなものを地上にのさばらせておくわけにはいかない。この国を統べる皇帝として、紅焔はそのように憤ってしかるべきだ。
しかし、アレはそれすらも許してくれない。ただ相対しただけで地の底から湧き上がるような恐怖に心を支配され、膝をついてしまう。
アレには敵わない。アレに関わるべきでない。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。そう、全身が悲鳴をあげる――
「旦那さま」
「はっ!」
鈴の音のような声が近くで囁き、紅焔は呪いが解けたように我に返った。そちらを向ければ、藍玉が気遣わしげに紅焔の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? あなただけでも、天宮城にお戻しすることもできますが……」
藍玉の白い指が、彼女が渡した腕輪に触れる。緑の石が淡い光を放った途端、少しだけ全身を駆け巡る焦燥感のようなものが薄れるのを感じた。
(そうか。俺は、あの狐の妖気に中てられたのか……)
人間の心に入り込み、抗う気力すらもそいでしまう。彼女にもらったお守りがあるとはいえ呪術的な防御力が皆無な紅焔は、もろにその影響を受けてしまったようだ。
己を叱咤激励する意味を込めて、紅焔は頬を伝う汗を強引にぐいと拭った。
「バカ言え。ここまできたら、最後まで見届けてやるさ」
最後。そう口にしたのは、少しだけ頭が冷えたことで、曲がり角の向こうにいるのがひとつ目の狐だけではないことに気づいたからだ。
「「「「「結!」」」」」
ひとつ目の狐の周囲――取り囲む五人の呪術師が、同時に叫んで地面に槍を突き立てる。途端、地面に幾何学を組み合わせたような文様が走り、白い光が檻のように天へと伸びた。
『キエエエエエーーーー!』
奇声としか表現のしようのない不快な鳴き声を、ひとつ目の狐が奏でる。しかしその体は無数の文字が連なる無数の細い糸のようなものに囚われ、地面に縫い留められていた。
狐を閉じ込める結界は、取り囲む五人の呪術師たちがそれぞれに起点となり成立しているらしい。そのうちのひとり、見覚えのある赤髪をした背高の呪術師が、雑面の下で「はっ!」と鼻で笑った。
「十人も喰ったお狐さまがどんな骨のある奴かと思えば、そう大したこともなかったな。この程度なら、俺ひとりでも事足りただろうさ」
紐を解いて雑面を外した下から現れた顔は、やはり日中に藍玉とひと悶着があった呪術師、鬼通院の尹嘉仁だった。
ひとつ目の狐は嘉仁を獲物と見定めたらしく、囚われた結界の下で地面をかいて暴れている。それをもう一度愉快そうに一瞥してから、嘉仁は鋭い目を紅焔たちが隠れている曲がり角へと向けた。
「もっと近くでご覧になられたらどうですか? そこにおられるのでしょう、陛下」
紅焔は純粋に驚いた。あんなものを相手にしておきながら、さらに周囲に気を配るほどの余裕が嘉仁にはあったらしい。
どうするかと目で問う藍玉にひとつ頷いてから、紅焔は物陰を出て通りに踏み出した。
「大したものだな。このような異形を、たちまち捕らえてしまうとは」
「これぞ、我ら鬼通院に伝わる秘術なれば。これで、紅焔陛下も我らがこの都を守護するにふさわしい呪術師であると認めてくださるでしょうか」
言葉だけは恭しいものの、嘉仁の目は紅焔の後ろにちょこんと控える藍玉を執念深く睨んでいる。日中に彼女に放たれた言葉を、まだ根に持っているらしい。
ぷいとそっぽを向く藍玉に内心苦笑しつつ、紅焔は頷いた。
「ああ。改めて、この者がした先ほどの非礼を私から詫びよう」
「そのお言葉だけで十分。もったいなきお言葉にございます」
嘉仁は胸に手を当てて一礼する。その先に囚われる狐に、紅焔は視線を移した。
「アレはどうなる? 阿美妃の社に封じるのか?」
「いえ。ひとつ目の狐を捕らえた場合、阿美堂に戻しはしません。通常はその場で祓ってしまいます」
「通常は?」
含みのある言い方に紅焔は小首を傾げる。すると嘉仁は不敵に笑って頷いた。
「実は私は、仲間内で『猛獣使い』と呼ばれていまして。この狐は、私の式神に喰わせるつもりです」




