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奇妙な妃のことはさておき、だ。
その日も紅焔は、大臣らとの御前会議や、諸国所領との書簡のやりとり。剣の稽古や政治や歴史の勉強など、皇帝としての政務に忙しく当たった。
それらすべてを終えて日が落ちた頃、ひとりの男が執務室を訪ねてきた。
「陛下。近衛大将がお見えです」
「通せ」
侍従長の呼びかけに答えると、すぐに一人の青年が入ってくる。
歳の頃は紅焔とそう変わらない。
すらりと鍛え上げられた肢体に、人懐こそうな明るい笑みを浮かべた童顔。闊達な短髪だが、一部だけ伸ばした襟足が編み込まれていて、洒落た印象を与える。爽やかな好青年というのが、彼を表現するにふさわしい。
彼は、梁永倫。近衛武官の長である彼は、紅焔とは兄弟のように育った元従者であり、紅焔がこの王宮で心を許して話せる、数少ないひとりだ。
執務机の端に腰掛けた永倫は、近衛武官ではなく幼馴染として、整った顔をにやりとさせた。
「なんだ。昨晩は春陽宮でお妃さまと熱い夜を過ごしたって聞いたけど、今晩は春陽宮に通わないんだ。期待して損しちゃった」
「熱い夜? そんなこと誰が言ってた」
「そりゃあもう、城中のみんなが? みんなすごく盛り上がっているよ。冷血無慈悲の血染めの夜叉王に、ついに春の陽気が舞い込んだって。あはは。俺も楽しみだなー」
「あー、くそ! だから春陽宮なぞ泊まりたくなかったんだ!」
早速、皇帝と妃の間に初夜があったかどうかも関係なく盛り上がる王宮に、紅焔は文字通り頭を抱えた。こんなことになるなら、無理をしてでも紫霄宮へ帰るべきだった。
しかめ面でうめく紅焔に、永倫は腕を組んでわけ知り顔で頷く。
「わかるー。わかるよー。春陽妃様、ものすっごい美人だったもんね。肌すべっすべで、まつ毛こーんな長くて! あんな綺麗で可愛い子が寝所で待っていたら、男としては手を出さないわけにいかないよね」
「違う。俺はそんなんじゃ……」
「いいじゃん、いいじゃん。俺くらい、本当のことを教えてくれたってさ。でさ、実際どうなの? 春陽妃様、かわいかった?」
「いい加減にしろ! ……俺がなぜ、妃を不要とするのか、お前ならわかるだろ」
紅焔が吐き捨てると、永倫は興が削がれたように口をへの字にする。ふたり、お似合いに見えたのに。そんな言葉をつぶやいてから、永倫はひらりと手を振った。
「ま、いいけどさ。じゃあ、何があったの? お父君――流焔殿が誰かと通じてないかはっきりするまでは、香家のお嬢さまとも関係はもたない。お前、そう言ってなかった?」
「……のっぴきならない事情で、紫霄宮に帰れなかっただけだ」
「なにさ、のっぴきならない事情って」
「それは……いや。なんていえばいいか」
どう説明すればいいのかわからず、紅焔はごにょごにょとくちごもる。
怨霊などというものを目にしたのは初めてだし、自分自身、いまだに信じられない。血濡れの手形の怨霊に襲われたなどと言ったら、永倫は紅焔を、頭がおかしくなったと思うかもしれない。
幸い、永倫は関心がうすそうに「ふーん」と頷く。従者兼、幼馴染という二人きりの時限定の顔を引っ込めて、近衛大将らしく姿勢を正した。
「その流焔殿ですが、相変わらず動きはありませんよ」
その一言に、紅焔もすっと目を細めた。ひやりと空気の温度が下がる中、紅焔は淡々と問いかける。
「隠州島に送った密偵からの知らせか」
「先ほど私のもとに届きましたが、変わりはないようです。強いていえば、近隣の住人たちの影響で土いじりにはまられましたね。子供たちを庭にまねいて、平和なものですよ」
「呑気な父上らしいことだ」
軽く鼻で笑う、紅焔の眼は暗い。卓上の書物の表紙をひと撫でしてから、紅焔は永倫を見た。
「引き続き監視させろ。少しでも父に違う動きがあれば知らせるよう、密偵に伝えておけ」
永倫の形の良い眉がぴくりと動く。少しだけ迷ってから、永倫は口を開いた。
「恐れながら、これ以上、流焔殿に監視が必要でしょうか。貴方が皇帝となってから、つまりは流焔殿が都を追われてから一年が過ぎました。その間、流焔殿が新たに手を出したことといえば、釣りに手料理に畑仕事くらいのもの。謀反の兆しはなく、平和に暮らしておられます」
「どうだか。そう装っているだけかもしれない」
「流焔様はそんなに器用じゃありませんよ。あのひとが隠し事が天才的に下手なのを、陛下もよくご存知でしょう」
「お前のそれは、楽観的すぎる」
「私からすれは、陛下こそ悲観的すぎますよ。――いや。悲観的というよりむしろ、陛下は流焔様が何か謀りごとを行うことを、期待しているとしか思えません」
さすがの永倫も、この一言を口にするのは勇気が必要だったらしい。言葉にしてすぐ、紅焔の反応を待たずして、永倫は「過ぎた口を申しました」と頭を下げる。
ゆらりと、蝋燭の灯りが風に揺れる。夜闇が天井から落ちてきたかのような重苦しい沈黙のあと、紅焔は静かに頷いた。
「お前の言う通りだ。私は、父がなにか謀ることを、その種が見つかることを期待している。わざわざ密偵を父に張り付かせているのも、それが理由だ」
「な……っ。なぜですか! そんなことになれば、流焔殿もあの時の――焔翔様の時のように……!」
「ああ。首をはねなければならなくなるな。誰がどう考えても、合理的に」
紅焔の答えに、永倫がぎりと手を握りしめる。そんな幼馴染の善性を眩しく思いつつ、紅焔はゆっくりと瞬きをしてから、揺れる蝋燭に視線を移した。