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幼馴染に執務室から放り出され、紅焔は仕方なく、とぼとぼと春陽宮に向かう。
律義といえば律義だが、その足取りは重く、遅かった。
(永倫め。出たとこ勝負で、一体俺にどうしろっているんだ)
永倫には藍玉の不思議な力のことも、二人の奇妙な契約――怨霊や悪霊の類を祓うかわりに、藍玉が天宮城に留まることを許していることも、話していない。おおかた、永倫の中では、先日の言い争いは単なる夫婦喧嘩として処理されたのだろう。
(……広義で捉えれば、夫婦喧嘩には違いないか)
遠い目をして、紅焔は溜息を吐いた。なんにせよ皇帝になってからというもの、誰かと本気で言い争うことなんかなかった。そもそも、本気でぶつかるほど誰かに本音を見せたことすらなかったのだから、当たり前といえば当たり前だ。
だからこそ、あんなふうにムキになってしまった自分に、紅焔は戸惑っている。
(まったく、俺らしくもない。どうして俺は、藍玉の前に出るといつもおかしくなっちまうんだ)
普段の自分なら、もっと上手くできたはずだ。藍玉をなだめ、今回だけの辛抱だからと諭し、その場をうまく丸める。これでも、戦場では英雄豪傑たちを上手くまとめてきたのだ。小娘ひとり、機嫌をとるのは容易いはずだ。
なのに、なぜそうできなかったのか……。
“ええ、ええ。あの陛下がひとりの女性に心を向ける日がくるなんて、私、泣けてしまいそうで……”
いつの日か、勝手に盛り上がって感動していた侍従長の言葉がふいに耳に蘇り、紅焔ははたと立ち止まった。
(まさか、俺は本当に藍玉を……?)
藍玉と出会ってからの出来事が、色々と頭を駆け巡る。――たしかに、色んな意味で頭から離れない娘だ。
飄々としていて、何を考えているかわからなくて、そのくせ時々どきりと心臓がなるほど真理を突くこともあって。気がつけば、彼女がその涼やかな瞳に何を映し出そうとしているのか、目で追いかけてしまう――
少し考えて、紅焔は首を振った。彼女に抱く感情の正体が、彼にはわからない。なぜなら紅焔は、これまで国を守ることにがむしゃらで、いまもなお、それ以外のことに気を回す余裕がない。己の感情を深掘りしたところで、それと向き合う覚悟もないのだ。
だけど、もし。もしもこの感情の正体が、皆が期待し、自分が恐れるような類のものであるなら。
“かまいません。ある意味、好都合です”
“私はあくまで、形ばかりの妃です。仮初の妃に、そのようなお心遣いは不要です”
“では、旦那さま。おやすみなさいませ!”
“どうして旦那さまが、私の限界を決めるのですか? 私のすべてを、旦那さまがご存知というわけでもないのに”
「はは。笑えるくらい、脈なしじゃないか」
顔の半分を覆って、紅焔は自嘲的に笑った。
自分で口を滑らした通りだ。紅焔が最初にぶつけた暴言と無関係に、藍玉は自分に無関心だ。関心がないうえ、おそらくこれ以上は紅焔が近づくのを拒んでいる。
(好意の反対は無関心とは、言い得て妙な言葉だ)
紅焔が思う以上に、藍玉は大きな事情を抱えているのかもしれない。彼女が目指すもの紅焔が知る権利はなく、手出しも望まれていない。
もしそんな相手に、好意を抱き始めているのだとしたら。
(いくらなんでも不毛すぎるだろう、俺……!)
壁に手を突いて、紅焔はどんよりと溜息を吐いた。
仮にも紅焔は皇帝だ。今は妃ひとりだが、望めば後宮にいくらでも女を侍らせることができる。だというのに、欠片も望みがない相手に心を奪われるなど、いくらなんでも滑稽がすぎる。穴があったら飛び込んで蓋をしてしまいたい……!
皇帝に道を譲るため端に寄ろうとした侍女たちが、壁に向かって項垂れる紅焔にぎょっとして慌てて顔を隠す。それを申し訳なく思いながら、再び紅焔はトボトボと歩き出した。
まあ、いい。これが恋だと決まったわけでもないし、仮にそうだったとしても、これ以上深入りしないのが一番だ。
それはそれとして、まずは目の前の問題をどうにかしなければ。そんなことをウジウジと考えながら、紅焔は春陽宮への道を亀のような足取りで進んでいた。
――さて。このように情けない姿をさらしていても、紅焔は皇帝だ。涼やかな切れ長の目元に、すっと通った高い鼻梁。そんな眉目秀麗の容姿に、遠目にもわかる背高のシルエット。おまけに黒地に深紅の映える象徴的な装束とくれば、彼が皇帝だと一目でわかる。
ゆえに、行き交う侍女や文官は、紅焔が前から来れば慌てて道の端に寄る。「あれ? なんでうちの皇帝、お供も連れずに歩いてるんだ?」と思ったとしても、そんなことはおくびに出さず、両腕を顔の前に掲げて皇帝に道を譲るのだ。
そんな中、角を曲がって一人の小柄な侍女が現れた。
紅焔はひとりで悶々と考えているので気づかなかったが、侍女は紅焔を見て、一瞬だけ足踏みした。けれどもすくに、意を決したように再び歩き出す。
二人の距離が迫る。もっと詰まる。紅焔はのろのろと、侍女は足早に、二人は今まさにすれ違おうとする。
そこで、侍女がちょこんとお辞儀した。
「お疲れさまです、陛下」
「ああ。ご苦労さん」
無意識に返事をした直後、紅焔は違和感を覚えた。
(ん? お疲れさま?)
なんだ、いまの挨拶。皇帝になってからというもの、あんなふうに気さくに挨拶を投げられたことは一度もない。丞相クラスの大臣だって、もっと畏まった言い方をするものだ。
というか、今の小鳥のような澄んだ声は、どう考えても……。
気付いた途端、紅焔はとっさにすれ違った小柄な侍女の肩を掴んでいた。
「待て待て待て。おかしいだろう、君。ここで何をしてるんだ?」
顔を背けたまま、小柄な侍女が嘆息する。仕方なさそうに振り返った侍女――もとい、侍女の変装をした藍玉が、いつも通りの澄ました顔で紅焔を見上げた。
「ごきげんよう、旦那さま。こんなところで、奇遇ですね」




