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紅焔は答えなかった。というより、答える気力がなかったのかもしれない。だが、否定をしなかった時点で、それはもう頷いたも同然だ。
叱られた大型犬のように項垂れる主人の姿に、永倫はかなり驚いた。
(あのコウ様を、ここまで落ち込ませるお妃さまって何者?)
永倫が知る紅焔は、よくも悪くも芯の強い人間だ。己がこうあるべしと決めたことを貫く強さがあり、その姿勢が周囲によって乱されることは決してない。
そういう意味で、時として彼は非情な王となる。その際たる例が、兄・焔翔を処刑した事件だ。あの時も彼は、周囲の反対には一切耳を貸さず、彼の信じる『最善の道』を決行した。
……だが、確かに最近の紅焔は、以前とは変わってきている。
少し前までの紅焔は、私情を捨て、大国の皇帝としての機能だけを果たそうとしているかのような危うさがあった。しかし最近の――妃と二人で供養塔に行ってきてからは、常に張り詰めていた空気がいくらか和らぎ、本来の情に厚い人間性を取り戻しつつあるように見える。
そのように主人を変えたのは、やはり、あの美しい妃なのだろうか。
俄然興味が湧いた永倫は、端に置かれていた椅子を持ってきて、どかりと紅焔の向かいに座った。
「俺とコウ様の仲なんだしさ。全部吐いて楽になっちゃいなよ」
「なんだ、そのセリフ。俺は取り調べでも受けてるのか」
「似たようなもんだけど、いいじゃない。コウ様もひとりで溜め込んでたから、そんなふうにジメジメしちゃったんでしょ?」
「それは、まあ……」
不服そうに目を背けた紅焔だが、結局は永倫に従うことにしたらしい。視線を合わせないまま、ポツポツと彼は話し始める。
「ただ、彼女と言い争いをしたんだ。売り言葉に買い言葉といった感じで、俺もかなり言い過ぎてしまった」
「コウ様が? へー! 俺以外の誰かと喧嘩するコウ様なんて、全然想像つかないや」
「だよな!? 俺も、自分で自分が信じられなかった」
一瞬、身を乗り出して勢い込んだものの、紅焔はすぐに元の力のない表情に戻ってしまう。
「たしかに、このところの俺は、秘密ばかりな彼女をもどかしく思うことがあった。だけど、だからといって、五歳も歳下の娘にあんなふうに当たるつもりはなかったんだ。我ながら大人気なさすぎて、穴があったら埋まってしまいたい……」
「色々と抽象的すぎて肝心なことはわかんないけど、要は口が滑って言いすぎちゃったってことでしょ? だったら謝ればいいじゃん。そんなにウジウジ悩まなくてもさ」
「無理だ」
即答した紅焔に、永倫は一瞬呆れた顔をしてしまう。その理由を思い至ってか、紅焔は慌てて首を振った。
「意地を張っているとかじゃない。本当に、できないんだ」
「そりゃまた、どうして?」
「彼女との約束を果たせないからだ」
「約束?」
首を傾げる永倫に、紅焔は少しだけ迷うような顔をしてから、軽く肩を竦めてみせた。
「俺と彼女を繋ぐ、契約のようなものだ。訳あって俺はそれを破ってしまった。しかも、それを覆すこともできないし、そんなつもりもない。……その俺が、どの面を下げて彼女の前に出られる? それこそ俺の自己満足じゃないか」
そこまで言うと、再び紅焔はどんよりと押し黙ってしまう。その姿に、永倫は再び新鮮な驚きを覚えた。
(コウ様、お妃さまのことを、そこまで大事に思ってたんだ……)
安直に訪ねにいこうとしないのは、それだけ妃に誠実であろうとしているからだ。その真面目さゆえに、紅焔は執務室で凹んだまま動けずにいる。それでこんなにも湿っぽい空気を垂れ流しているのだから、本当になんて融通の利かない男だろう。
(お妃さまを迎える前は、俺は誰も愛するつもりはないだなんて、はっきり言いきっていたのになあ)
おそらく紅焔のことだ。どうせ己が妃に抱く感情がどんなものか自覚しないまま、あれこれと悩んでいるのだろう。
おかしいやら嬉しいやらで、永倫は紅焔の肩をばしりと叩いた。
「っ、痛って! なんだよ、急に」
「コウ様が色々と考えすぎて進めなくなっているから、カツを入れてあげたんだよ」
「はぁ?」
「コウ様が約束を守れなくて申し訳ないっていうのと、お妃さまに言いすぎちゃったことを謝りたいっていうのは、別の問題でしょ?」
あっけらかんと永倫が言うと、紅焔は迷子のように困った顔をした。
まったく、変なところで手がかかる主人だ。そう笑いながら、永倫は腰に手を当てる。
「口が滑ったな、お妃さまを傷つけちゃったかもなって思うなら、素直にそう言って謝ってくればいいじゃん。約束がどうとかは、一旦置いておいてさ」
「一理ある。しかし……」
「それに約束のことだって、本当にどうしようもないの?」
「それは!」
再び、あれこれと難しく理由を並べようとする紅焔に、永倫はびしりと人差し指を突き付ける。そうやって口を封じてから、永倫は驚く紅焔に告げた。
「コウ様は、どうすべきかにこだわりすぎだよ。たまには、自分がどうしたいかに従ってみたら?」
「俺が、どうしたいか……」
そんなことは、これまで頭をよぎりもしなかったのか。紅焔は瞬きすると、形のよい顎に手を当てて考え込んでしまう。
経験上、こういう時は勢いが大事なのだ。そう信じて、永倫は主人の腕をぐいぐい引いた。
「はいはい、そこでまた難しく考えない! とりあえず、春陽宮に行ってみなよ」
「はあ!? それで藍玉と鉢合わせたら、一体何を言えば……」
「それも出たとこ勝負! 自分に正直に、頭に浮かんだ気持ちを言えばいいよ」
そうやって永倫は、戸惑う紅焔を無理やり立たせ、執務室の外に引っ張り出す。部屋の外に控えていた近衛武官たちが何事かと目を丸くして見守る中、永倫は立ち尽くす紅焔に笑顔で手を振った。
「てわけで。じゃあ、行ってらっしゃい!」
ぴしゃりと、襖戸が閉じられる。
今度はなんだ? なんで陛下が、部屋から閉め出されたんだ……?
――そんな周囲の心の声をヒシヒシと感じながら、執務室から追い出された皇帝・紅焔は、ぐいと唇を噛んで空を仰いだ。
(永倫……無茶苦茶言いやがって……!)




