1.
安陽の都には、古くから伝わる二つの掟がある。
ひとつ。都の東の外れにある鬼通院には近づいてはならない。
ふたつ。新月の夜は深く戸を閉ざして籠るのを原則とし、やむを得ず外を出歩く場合は、何者とも決して目を合わせてはならない。
もちろん、相手が人間とは限らない。
「などと、まあ。この街は迷信深くてかなわん。新都になったからにはと仕方なく足を運んではみたが、やなりこんな街にくるのではなかったな!」
「へえ、へえ。旦那さまの仰るとおりで!」
とある月のない夜。大通りをでっぷりと体格のいい男と、その付き人が行く。男は旧南朝で財を築いた商人だ。楽江が統一され、都が安陽に移ったので、なにか儲け話はないかと今朝この地にやってきた。
男が不運だったのは、今夜が新月だったということだ。おかげで景気付けに花街で呑みつつ情報を得ようと思ったのに、「今夜は新月だから」と入店を断られてしまったのだ。
「そもそも西のあたりはどうも田舎臭くて、時代遅れの匂いがぷんぷんするのだ。皇帝陛下もさっさと、こんな都は捨てて遷都すべきだ!」
「へえ、へえ。旦那さまの仰る通りで!」
「そうだ。いっそのこと私が、花街に新しい店を開いてやろうか。新月の夜も店を開けておけば、よそに客もとられず一人勝ちできるぞ。はは、ボロ儲けだ!」
「へえ、へえ。旦那さまの仰る通りで!」
たっぷりと肥えた腹を揺らして笑う男に、付き人がもみ手しながら答える。二人が泊まる宿屋はもうすぐそこだ。出鼻をくじかれたのは残念だが、今夜は旅の疲れをしっかり癒して、明日から新たな儲け話を探して歩き回ろう。
――そんなことを考えながら歩いていた時、道の先に黒くシュッとした影が座っているのが目に入った。
(なんだ、野犬か?)
男は顔をしかめた。少しばかり尻尾が太い気もするが、ピンと立った耳や行儀よく座っているシルエットは犬に見える。だとしたら厄介だ。男は子供の頃に野犬に追いかけ回されたトラウマがあり、犬が好きではない。
男は舌打ちをした。宿屋に向かうには、犬の横を通り抜ける必要がある。今は大人しく座っているが、こちらから近づけば飛びかかってくるかもしれない。だから男は、隣の付き人にくいと顎で犬を示してみせた。
「おい。お前、あの犬を追っ払ってこい」
「へ、へえ! しかし旦那さま。それだとアタシが噛まれるかもしれませんで……」
「私が噛まれるよりはいいだろう! さっさと行ってこい!」
「へえ!」
男に睨まれ、付き人は慌てて頷く。おとなしく座る影に近づく付き人を後ろから眺めながら、男はふと、犬に対して違和感を抱いた。
(あいつ、目はどこにあるんだ?)
犬や猫と夜に出くわすと、目が光って見えることが大半だ。しかし道の先にいる影はそうではない。というより、全身が光のすべてを呑む込むような漆黒の闇で、目にあたるものが判別できないのだ。
そもそも、あれは本当に生き物だろうか。いつの間に音もなく目の前に現れ、恐る恐る近づいていく従者にも怯えることなく堂々とそこに座っている。
極めつけは、あの尻尾。あの形は、犬ではなく狐ではなかろうか。
そのように男が考えた直後、影の額のあたりが、切れ込みが走るようにしてぱくりと開く。そこに現れたのは、禍々しく闇夜に光る真っ赤なひとつ目だった。
「ひぃい……!」
ぎょろりと大きな目で見据えられた途端、男はがくがくと恐怖に足が震え出した。
あれは犬などではない。ましてや生き物ですらない。
あれはマズイものだ。目を合わせてはならないものだ。
男は瞬時に理解する。新月の夜に外を出歩く際は、道を行く何者とも決して目を合わせてはならない。これは、あの異形を指しての掟だったのだ。
同時に絶望する。あの目に映った者は助からない。ゆえに安陽のひとびとは日が暮れると同時に店を閉め、固く戸を閉ざし、建物の中に息をひそめて籠るのだ。万が一にも、あの異形と目を合わせてしまわないように。
それでも逃げなければ。力が抜けそうになる足腰を鼓舞し、男は身を翻そうとする。それは、ひとつ目の異形のそばにいた付き人も一緒だった。恐怖に顔を引き攣らせて振り返る付き人は、半泣きでこちらに手を伸ばす。
「お、お助け……!」
付き人の言葉は最後まで続かなかった。男には何が起きたのかわからなかった。気付いた時には付き人の首が自分の真横を飛んでいき、ビチャリと生暖かくて鉄臭いものが顔にかかった。
(あ……)
逃げる意志を完全に失い、男はその場に膝をついた。茫然とする男の視界の先で、首のない付き人の体がどさりと崩れ落ちる。そのさらに向こうで、ひとつ目の狐の異形が軽やかに立ち上がった。
死にたくない。死にたくない。両目からだらだらと涙があふれ、胃の腑からすべてをぶちまけてしまいたいようなひどい吐き気が男を襲う。けれども無慈悲なことに、異形の狐はまっすぐに男を見据えたままこちらに近づいてくる。
ついに目の前に異形の狐が座った時、男は禍々しいひとつ目に見つめられながら心の底から後悔した。
ああ。やはり、こんな街にくるのではなかった。
そう思ったのを最後に、男の意識はぶつりと途絶えた。




