2-12
「西朝最後の秋陽妃の側仕えのひとり、帆梨茗。それが、あの侍女の名前だ」
古井戸で骨が見つかる騒ぎから三日経った日の夕暮れ。
池の畔の四阿で、紅焔はぽつりぽつりと、向かいに座る藍玉に話して聞かせる。
「梨茗は帆家――当時かなりの財を築いた、新興の商家の出だった。上級侍女ともなれば良家と縁を結ぶこともできるし、うまくすれば皇帝の寵愛を得る可能性もある。そんな父親の思惑により、彼女は後宮の門をくぐったのだろう」
かつて秋陽宮で働いていた者を訪ねて聞けば、梨茗は明るく朗らかな性格の娘だった。面倒見がよく、多くの者に慕われており、とりわけ早くに親元を離れて働きに出ていた下働きの侍女たちのことは、本物の妹のように可愛がっていた。
「西朝末期、暴徒が食糧を求めて店を襲ったり、役人の家を焼き討ちする事件が連日続いた。その波がいつか城にも来るのではないか。怯える侍女たちを、梨茗はよく慰めていた。いざとなったら自分がみんなを守る。逃げるときは、みんなで一緒にだと」
梨茗はいつでも家に戻ることができたのに、それをしなかった。後宮で働く女の大半は、ここ以外に行く当てがない者だ。彼女たちを置いて自分だけ逃げるわけにはいかない。それが梨茗の選択だった。
「……父が天宮城の正門を突破したとき、城内になだれ込んだのは同盟軍だけではなかった。飢えに苦しむ都の民らは、塀の中の殿上人の絢爛たる生活に憎しみを募らせ、門が解放される日を虎視眈々と待ちわびていたんだ」
父・李流焔は、天宮城を落とした戦いを振り返って、のちにこう語った。あの戦いは、正義と呼べるものではなかった。正義を語るには、あまりに多くの血が流れすぎたと。
女が、子供が、老人が。大勢の無抵抗の人間が、荒ぶる群衆によって命を奪われた。
群衆には怒る理由があった。苦しい生活のせいで、親しい者を大勢亡くしたのだから。だからといって、あの日殺された者たちが命を奪われて当然だったのかといえば、必ずともそうではない。
「弱い者から順に命を落とす。戦乱の世の常ですね」
茶器を受け皿に戻して、藍玉が呟く。その声には責める色もなければ、哀しみの色もない。ただ事実を事実として、淡々と口にしている。
それに少しだけ救われて、紅焔は続きを話した。
「侍女の遺体は、それぞれの家に帰すか、共同墓地にまとめて埋葬した。梨茗の体は、帆家に引き取られたと記録に残っている。しかし、彼女が親しくしていた下働きの二人は……」
「遺体が引き取られた名簿にも、共同墓地の名簿にも、名前がなかった。そうですね?」
「その通りだ」
――ここからは推測だ。
李家が天宮城の城門を破った日、梨茗は二人の少女と共に、秋陽宮の裏手で暴徒に追いつかれて命を落とした。翡翠の髪飾りはこの時に奪われて、売り払われたと考えられる。
すべてが終わったあと、梨茗の遺体は帆家に引き取られた。だが、共に命を落とした二人の少女は古井戸の中に残され、のちに上も塞がれた。
単に遺体が見つからなかったか、身分が低いゆえに放置されたのかまではわからない。とにかく、二人の少女の体は井戸の中に閉じ込められた。
井戸の底に眠る二人を自分が助けなければ。大切な二人を、暗い井戸の底から引き上げてやらなければ。
その願いを核として、梨茗は霊となり翡翠の簪に取り憑いた。
(本当に、優しい娘だったんだな)
悲しい過去を洗い流すように、風が向き合う二人の頬を撫でる。そっと目を閉じてから、紅焔は改めて卓上に置かれた翡翠の簪に目を向けた。
「梨茗の霊はどうなった?」
「消えました。私たちが目覚めた時点でかなり弱まっていましたが、旦那さまが見つかった二人の骨を埋葬させてからは、完全に気配がなくなりした。きっと二人の魂を連れて、黄泉の国へと渡ったのでしょう」
「そうか。……よかった」
後半は無意識にこぼれた独り言だったが、藍玉の耳にも届いたらしい。
虚をつかれたように瞬きしてから、藍玉は伺うように紅焔を見上げた。
「……正直、驚きました。霊に会うのをお誘いしたのは私ですが、まさか二人の侍女の骨探しまで、旦那さまがしてくださるとは思いませんでした」
「彼女の死は、俺も無関係ではないからな」




