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2-10


 サク、サクと、砂利を踏み締める音だけがあたりに響く。


 外に出て初めて、ここが夢の中だということを紅焔も実感することができた。なぜなら夜の闇に染まっていた庭が、一歩踏み出した途端、乳白色のもやに包まれたものに変わったからだ。


 とはいえ、周囲が春陽宮そのままの光景であるのは変わらない。視界は悪いが、もやの向こうに見える建物や中庭にある池は、普段目にするものと同じだ。


(西朝時代に後宮に仕えた侍女の霊、か。夢の中(ここ)が現実の天宮城とそっくりなのは、彼女がこの場所に所縁のある霊であるためだったんだな)


 天宮城は百年前、西朝初期に建立された。戦で壊れた部分もあるため当時と全く同じとはいかないが、政治の中枢を担う本殿や、大勢の女たちが暮らした後宮など、おおまかな配置は変わっていない。


 この侍女の霊も、生前は天宮城で暮らしていたのだろう。そしておそらくは、この地で命を落とした。


 後宮で女が命を落とす理由など、吐いて捨てるほど思い浮かぶ。秘密を知ってしまったゆえの口封じか、覚えのない罪を被せられての処刑か。病気で死んだか、あるいは自ら命を絶ったか。


(――もしくはあの日(・・・)、生き残ることができなかったか)


 どちらにせよ、霊の未練は天宮城にある。だから紅焔と藍玉はこの場所に招かれた。


 侍女の霊は紅焔たちを導き続けている。見失わない程度に離れたところに姿を現しては、二人が近づくと、再び手招きをするように遠ざかる。それを繰り返して、かなり春陽宮から離れた場所まできた。


 この先にあるのが天国か、地獄か。その答えは。


「着いたようですね」

 

 藍玉の声で、紅焔ははっと我に返った。見れば、さっきまで付かず離れずの距離を保っていた侍女の霊が、姿を消すことなく視線の先に佇んでいる。


 見覚えのない場所だ。けぶる視界に目を細め、紅焔はあたりを見渡した。


「ここは……?」


「秋陽宮の厨房裏のようです。ほら。壺があんなにたくさん」


 藍玉が指さす先に腰の高さほどの壺がたくさん並んでいる。


 秋陽宮は李家が天宮城を奪ってからは使用していないし、厨房裏に行く用事も当然ない。景色に馴染みがないのも納得だ。


 なお、後宮は春陽宮、夏陽宮、秋陽宮、冬陽宮の四つに別れている。


 現在、妃は春陽宮に住む藍玉ひとりだが、西朝時代にはそのそれぞれの宮に妃が住まい、四妃(シキ)と呼ばれていた。遡れば華ノ国と同じ後宮制度であり、贅沢を極めた三代王の時代に復活した。


 四妃が揃っていた頃の天宮城は、それは華やかだった。四つの宮には四妃専属の侍女が大勢働いていた。その頂点にいるのが上級侍女で、彼女たちは妃のそばに侍り、身の回りの世話から話し相手まで勤めた。


 だが、華やかなのは上辺だけだ。上級侍女ともなれば名のある家の娘が多いが、侍女の大半は貧しい家の出だった。年端のいかない娘が家族への仕送りのために後宮に入ったり、中には借金のカタとして後宮に売られてきた者もいたという。


 下級侍女の待遇は決して良くなかった。それでも多くの娘が募集に殺到するくらい、当時の民は貧しかった。


(生活が苦しかったのは下級侍女で、上級侍女はいい暮らしをしていた。この霊も、あんな簪を持っていたくらいなのだから贅沢を許されていたんだろう)


 西朝の末代は色好きの王で、四妃以外にも、愛妾として多数の中級妃や下級妃を囲っていた。


 女たちは王の寵愛を得るため争い、贅を尽くした。城外で多くの民が貧困と飢えに苦しむのをよそに、後宮では日夜、豪勢な宴が催されていた。


 そのため、後宮は貧しい女たちの貴重な働き口であると同時に、皮肉にも西朝王政における圧政と不平等の象徴として、民から憎しみの目を向けられていた。


(そのせいで、父上が天宮城を落とした日、後宮の女たちは……)


「旦那さま、見てください」


 隣の藍玉が指さす先、侍女が佇む場所のすぐ横に、いつのまにか井戸があることに紅焔は気づいた。


「さっきまで井戸なんてあったか?」


 紅焔が訝しんで眉根を寄せたとき、その声は不意に響いた。


“リーメイさま!”


“リーメイ姉さま!”


 ギョッとして、紅焔は口を閉じる。


 子供だ。幼い子供の声がした。意識した途端、自分と藍玉の間を誰かが走り抜ける気配がした。


“あんたたち、またつまみ食いなんかして! 今日という今日は、容赦しないんだからね!”


“きゃ、きゃ! リーメイさまが怒った!”


“大変! 見つかっちゃった!”


 宗と玉と同じ歳の頃の幼い下級侍女がふたり。そして簪の霊と同じ、赤襟の衣をまとう若い上級侍女がひとり。きゃあきゃあと厨房裏の広場を駆け回っている。


 若い侍女は、藍玉と同じぐらいの年に見える。上級侍女にしては化粧っけが少なく、柔らかな雰囲気をまとった娘だ。


 幼いふたりを、日頃から可愛がっているのだろう。そうひと目でわかるほど、追いかける侍女の目は優しい。


“指にあかぎれができてるわ。おいで、薬を塗ってあげる”


“リンもユイもえらいわ。このあかぎれは、頑張り者の証ね”


“二人とも、いっぱい食べるのよ。たくさん食べて、うーんと働き者になってね”


 ――ああ、そうかと。少女らの頭を撫でる侍女の姿を見て、紅焔はすとんと腑に落ちた。


 二人の少女に救われていたのはむしろ、若い侍女のほうだ。後宮は女たちの戦場であり、牢獄だ。その狭い世界で、裏表なく自分を慕う少女たちは、侍女が真に気の許せる相手だったのだろう。


「旦那さま?」


 藍玉が引き留めようとするが、彼女の声は紅焔の耳に届かなかった。


 自分でも意識せず、引き寄せられるように紅焔は井戸に向かって足を踏み出す。


 すると若い侍女の声が再び頭の中に響いた。


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