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2-7


 今夜、春陽宮に皇帝の二度目のお渡りがある。その報せは、たちまちのうちに天宮城を駆け巡った。


 文官たちは事務作業の合間に、侍女たちは掃除洗濯の手を止めて、ひそひそと熱心に囁き合う。


「まさか『血染めの皇帝』が誰かを寵愛するなんて!」


「陛下は、お妃様にご執心とのことよ」


「あの皇帝を落とすとは、さすが香家の姫君だ」


「陛下はお妃様にどんなお顔を見せるのかしら。早く、お二方がご一緒のところを見てみたいわ……!」





(城内がかなりざわついているな)


 身支度を整えられながら、紅焔は侍従たちの様子をこっそり観察した。


 皇帝である彼の耳に直接入らずとも、なんとなく皆の浮ついているのは伝わる。面白いことに、初めて春陽宮に泊まった翌朝とは異なり、皆に騒がれるのも悪い気はしない。


(皇帝が唯一の妃と一夜を過ごすんだ。皆が感心を持つのも、当たり前と言えば当たり前だな)


 ふむと頷きつつ、紅焔は上衣を羽織る。支度を終えた彼は、かつてと同じように侍従長に照らされる足元を辿って春陽宮へと歩き始めた。


 ――皆の関心が不快でないのは、紅焔自身、藍玉の誘いがまんざらでもなかったからに違いない。


(藍玉め。いつも澄ました顔のくせして、大胆なところもあるじゃないか)


 今宵、ひとつ屋根の下で共に過ごそう。内容や目的がなんであれ、あれはそういうお誘いだった。


 紅焔と藍玉は正式な手続きを経た夫婦(めおと)であり、一夜を共に過ごすのはまったく問題はない。


 しかしだ。この結婚はあくまで政略的なものであり、同時に契約結婚でもある。おまけに、初手で突き放したのは紅焔だが、今となっては藍玉のほうが淡白で、まともに言葉を交わすことすらままならない。


 それが、突然お泊り(・・・)のお誘いときた。彼女好みの霊憑きの贈り物が、ここまで急速な雪解けを二人の間にもたらすことになろうとは。


(まあ、相手はあの藍玉だ。俺を誘ったのも、言葉通りの意味だろう)


 胸に手を当て、紅焔は自分を静かに戒める。


 今夜の誘いの意図は、あくまで簪の霊の正体を確かめることだ。そこに他意はなく、それ以上でもそれ以下でもない。


 だとしても、今夜の共寝は大きな変化だ。例えるなら、全くなびかなかった気位の高い猫が、ほんの少し触れるのを許してくれたような。謎多き藍玉を知るための、貴重な一歩となるだろう。


 そう。この変化は、彼女を知るために重要なのだ。


 紅焔が満更でもないのも、藍玉の謎を解く足掛かりが見えたため。決して、藍玉から誘われたのが嬉しかったからなどという不純(ピュア)な理由ではない。絶対に。


 そうこうするうちに、あっという間に春陽宮に到着する。入口で待っていたのは日中にも顔を合わせた双子、玉と宗の二人だ。紅焔を見ると、彼らはすぐに最深部にある藍玉の居室へと紅焔を通す。


 引き戸を開いた先で、藍玉はいつかの夜のようにふわりと軽やかな寝衣を纏った姿で出迎えた。


「お待ちしておりました、旦那さま」


 微笑みを称えて、藍玉は鈴の音のような声で柔らかくそう紡ぐ。


 今夜の彼女は、薄紅色の装束を着ている。前回の水色も似合っていたが、薄色も彼女の白く透明感のある肌によく映えて美しい。


 香油を塗ったのだろう。藍玉が顔を上げた時、絹のように艶やかな髪がひと束、肩からこぼれ落ちて、花の香りがふわりと漂った。


(……きれいだ)


 思わず見惚れてしまってから、紅焔は顔を顰めた。


 なんてことだ。これではまるで、余裕のない子供だ。動揺を悟られないために目を背けて深呼吸してから、紅焔は当たり障りのないセリフを吐いた。


「……夕餉を共にできず悪かった。かなり待たせたんじゃないか?」


「こちらが急にお誘いしたことですから。旦那さまこそ、食事は口にされましたか? まだでしたら、こちらで用意させますが……」


「公務の間に済ませてきたから問題ない。気を遣わせてすまないな」


「とんでもございません。お忙しい中、時間を作っていただきありがとうございます」


 にこりと正面から笑みを向けられ、紅焔は心の中で「うぐっ」と呻いた。


 なぜだろう。もともと美しい娘だが、今日は一段と愛らしく見える。


(こういうとき、経験のなさが如実に響いてくるな)


 思えば自分は、男女の駆け引きとは無縁の、武骨な人生を歩んできた。


 今は皇帝などという立場に座っているが、元は武家の次男坊だ。幼い頃から剣や戦術の勉強に明け暮れ、年を重ねてからは戦場を駆け巡る日々だった。


 恵まれた容姿と褒められることは多々あれど、その青春時代は華やかさとは無縁である。


(皇帝となってからも、色々と手一杯で女どころではなかったからな……)


 とはいえ、自分は藍玉より五つも歳上だ。そろそろ大人の男として、彼女に余裕ある姿を見せたい。


 咳払いをして、紅焔は微笑みと共に切り出した。


「いい機会だ。夕餉は共にできなかったが、少しばかり酒でも飲みながら君の話を………って、おい!?」


 藍玉がいそいそと寝床に潜り込もうとしているのを見て、さすがの紅焔も叫んだ。藍玉はちょこんと寝台の半分におさまると、空いている部分をぽんぽんと叩いた。


「ささ、旦那さま。さっさと寝て、簪の霊の正体を暴きに参りましょう!」


「早くないか!? 夜は長いんだ。少しぐらい話をしてからでも……」


「何を仰るのですか。善は急げ! その幽鬼だって、私たちが寝るのをうずうずと待っていますよ!」


「あ、ああ。そう、か?」


 藍玉の気迫に気圧されて、紅焔は思わず頷いてしまう。それに満足してか、藍玉はてきぱきと寝床周りを整え出した。


「先日と同じく、旦那さまが右側でよろしかったですか? そうそう。今宵は満月で明るいですから、寝付けないといけないので市井で流行りの『あいますく』なるものを用意しました。旦那さまもどうぞ」


「……ありがとう」


 中に豆でも入っているのか。ほどよく重みのあるそれ――悔しいことに、目に乗せて寝たら気持ちよさそうだ――を、紅焔は微妙な顔で見つめる。


 そんな夫の様子もなんのその、藍玉は手際よく『あいますく』の紐を後頭部で結ぶと、嬉しそうに手を上げた。


「では、旦那さま。おやすみなさいませ!」


 宣言するやいなや、藍玉はスヤっと眠りに入る。ぽかんと置いてきぼりをくらった紅焔の後ろで、双子の従者がくすくすと笑いを噛み殺す。


「哀れ!」

「不憫!」


「お前ら、聞こえてるからな!?」


 そう怒ったところで、藍玉が目を覚ますわけでもなく。仕方なく紅焔は、言われた通り寝床に入り、『あいますく』をつける。


 双子たちが退出する気配があり、寝室には完全な静寂が訪れた。


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