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麓姫。その存在は謎に包まれている。
紅焔が今しがた口にしたように、麓姫は阿美妃と蘇芳帝の娘だ。皇弟が挙兵したとき、彼女はまだ十歳の少女だった。当然、麓姫も華ノ国の王宮にいたはずだが、彼女の死を示す記録が一切残っていない。
そのため彼女は、阿美妃の術で逃げ延びたのだとか、異国で帝に嫁いだのだとか、様々な伝説が残っている。確かに言えるのは、少女は皇弟の反乱を機に、公式の記録から姿を消したということだけだ。
そんな姫君の簪が、なぜ一介の商人・胡伯の手にあったのか。それは、遡ればこの簪が、天宮城の前身、西朝の王宮の宝物庫から盗まれたものだからだ。
「父と兄が天宮城をおさえた時、城下には飢餓民が溢れていた。ゆえに父は、瑞の建国を宣言するまでの間、民が宮中から金品を持ち出すのを見て見ぬフリをした。その時期に宝物庫から簪が持ち出され、巡り巡って胡伯の手に渡った……ということだそうだ」
瑞、そして西朝が都を置く安陽は、華ノ国から続く古い街だ。しかも残存する絵姿において、麓姫は胡伯から入手したのとよく似た、鮮やかな黄緑の石が印象的な簪を髪に刺して描かれている。
おまけに霊付きの呪いの品とくれば、本当に麓姫の簪である可能性は非常に高い。
「簪の所有者には、毎夜、夢枕に麓姫の怨霊が現れるらしい。前の持ち主はそれが理由で気を病み、体を壊したそうだ」
胡伯が持ってきた時、簪をしまう木箱には呪い封じの札が幾重にも張られていた。怨霊を恐れた前の所有者が、術師に簪を封じさせたそうだ。
紅焔の言葉を聞いているのかどうか。藍玉はいまだ、しげしげと興味深げに簪を眺めている。その指に先日と同じ、黄緑の宝石の指輪がはめられていることに紅焔は気づいた。
「その指輪の石も翡翠か?」
「え?」
「右手にしているそれだ。たしか前もつけていただろう」
翡翠の石には浄化の力が宿ると聞いたことがある。前に藍玉が生霊を祓ったとき、あの石は確かに輝きを放っていた。もしかしたらこの指輪も、彼女の不思議な力と関係があるのかもしれない。
そう思ったが、藍玉は視線を落として首を振った。
「これは緑玉髄というものです。よく似ていますが、翡翠よりも明るい色味をしていますでしょう」
「俺には見分けがつかないが……美しい緑だな」
「そう言っていただけると嬉しいです。私にはとても馴染みのある石ですから」
一瞬だけ柔らかな微笑みを浮かべてから、藍玉は髪飾りを調べるのに戻る。
それから、あっけらかんと肩をすくめた。
「旦那さまのおかげで、確信が持てました。これは麓姫の簪ではありませんね」
「はぁ!?」
得心したように藍玉は頷いているが、紅焔は動揺した。一応この簪は、紅焔から彼女への贈り物だ。皇帝から妃への贈り物が、偽物を掴まされたとあってはとんでもないことだ。
「胡伯め、俺を騙したな!?」
「安心してください。この簪はたしかに霊に憑かれていますよ。それが麓姫ではないだけで」
「麓姫ではない……?」
その言葉に、紅焔は形の良い眉を寄せた。
「なぜそんなことがわかるんだ。まさか君は、触れるだけで霊の正体までわかるのか?」
「まさか。前もお伝えしたように、霊の正体を探るのには時間がかかります。ものに触れただけで、取り憑く霊の正体などわかりませんよ」
「なら、どうしてだ。ちゃんと調べたら、麓姫の怨霊かもしれないじゃないか」
「私の指輪と同じです。麓姫の簪は緑玉髄が使われていますが、これは翡翠です。石が違うということは、よく似た別物ということです」
「な……」
千年前に生きた姫の髪飾りにはめられた石の種類など、なぜ藍玉が知っているのだろう。絵姿に描かれた姿からは、簪に鮮やかな緑の石があしらわれていたことしかわからないはずなのに。
だが、すぐに紅焔は考え直した。麓姫伝説は人気があるし、相手はこの藍玉だ。彼女ほど霊的なものに通じていれば、一般には知られていないような麓姫の情報も持っているのかもしれない。
となると……中身が違う以上、この品は胡伯につき返すべきだろうか。本格的にそんなことを悩み始めたそのとき、蘭玉が思いついたように紅焔を見た。
「旦那さまはもう、簪に憑く霊をご覧になりましたか?」
「いや。木箱から取り出したのも、これを商人から買い求めたときと、春陽宮に来てからの二回だけだ」
簪に霊が憑いているか確かめるため、一晩手元に置いた状態で過ごすかはかなり悩んだ。だが、つい最近に呪いのせいで死にかけたため、さすがの紅焔も試してみる気になれなかった。
すると藍玉は、こともなげに――それこそ「この後、食事でも一緒にいかがですか?」とでも口にするような気軽さで、こてんと首を傾げた。
「でしたら今晩、霊に会ってみますか?」
「は?」
「簪の霊が麓姫ではないということに、納得されていないようなので。実際にその目で見たら、旦那さまもああなるほどと思えるのではないかと」
「そうかもしれないが……正直、霊に取り憑かれるのは、二度とごめんというか……」
「懸命な判断です。私も、旦那さまがひとりで霊に会うのは推奨しません。霊と接触する際は、可能な限り手練の者を側に置くべきです。たとえば私とか」
「……つまり?」
薄々話が読めてきたものの、紅焔はまさかと思い首を傾げる。しかし藍玉は涼しい顔のまま、紅焔が「まさか」と思った答えをそのまま口にした。
「旦那さまも今晩春陽宮に泊まり、一緒に眠ってみればよいのです」




