2-5
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千年前に滅んだ大国、華ノ国。その最後の皇帝・蘇芳の妃に、阿美妃という絶世の美女がいた。
だが、彼女はその狂おしいほどの美貌で蘇芳帝を堕落させ、華ノ国を破滅に導いた稀代の悪女だ。
さらには死後もなお楽江の地に呪いをかけて、長きにわたる戦乱の世をもたらした、歴史上最悪の大妖狐としても知られている。
――言い伝えによれば、阿美妃は大陸北部の険しい山々が連なる秘境、仙脈の最奥に住む少数民族の生まれだ。
彼女の一族はよほど密やかに暮らしていたらしく、ほかの記録には一切登場しない。蘇芳帝は大陸地図の作成という一大事業のために各地に探索隊を送り込んでおり、そのうちの一派が偶然、阿美妃の一族を見つけた。
阿美妃の村は、一年中花咲き乱れる蝶が舞う、この世のものとは思えぬ美しい地だ。村に住まう者も皆一様に美しく、なかでも族長の娘であった阿美妃はとりたてて麗人だった。
知らせを受けて仙脈を訪れた蘇芳帝は、一目で阿美妃に心を奪われた。彼は村に宝をいくつも納める代わりに、彼女を妃として都に連れて帰った。
だがそれ以来、蘇芳帝はおかしくなった。阿美妃を喜ばせるために無尽蔵に浪費を繰り返し、足りない分は民から巻き上げた。国を憂いる忠臣たちが王に諫言したが、蘇芳帝は彼らを片っ端から処刑した。
ついに民の悲鳴に応えた蘇芳帝の異母弟が帝に反旗を翻し、反乱軍を率いて城に乗り込んだ。
異母弟はまず蘇芳帝の命をとり、続いて阿美妃を捕えた。数日後、阿美妃は処刑されたが、彼女はそれで終わらなかった。
落とされた阿美妃の首から、妖狐が飛び出したのだ!
阿美妃の正体は白狐の妖怪。絶世の美女に化け、蘇芳帝を妖術で堕落させ、人間の世が荒れるのを見て楽しんでいたのである。
体を失い怨霊と化した妖狐は、都を火の海に変えた。そのうえ、華ノ国全土に大呪詛を撒き散らした。
蘇芳帝の弟も含め、王都にいた者のほとんどは炎に撒かれて死んだ。他の町も流行病に大飢饉と、人々を次々に苦難が襲った。
多くの死者を出し、わずか一年で華ノ国は呆気なく滅んだ。
かろうじて生き延びた者たちは厄災を鎮めるべく、都の鬼門となる東の岩山に依代としての社を建てた。呪術師らがその社に阿美妃の魂を封じたことで、一応は大厄災は鎮まった。
しかし呪いは完全には消えず、楽江では長く戦乱の世が続き、多くの血が流された――
* * *
「……という言い伝えは、当然君も知っているな」
華ノ国の伝承をかいつまんで聞かせ、紅焔は相手の反応を窺う。けれども紅焔の声が蘭玉の耳に届いているかは怪しい。
なにせ彼女は、まるで宝物を与えられた幼子のような顔で、問題の簪が乗る漆の台座を掲げ持っている。
「すごい。ちゃんと、簪から霊の気配を感じます!」
「ちゃんと、ね……」
普段の落ち着いた印象とは打って変わって、きらきらと目を輝かせて簪を眺める藍玉に、紅焔は曖昧に笑った。
時刻は穏やかに晴れた昼下がり。春陽宮には明るい陽の光が差し込んでおり、呪いだの怨霊だのの話をするのが場違いな空気である。
さて。彼女が持つ台座にあるのが、霊が取り憑いていると胡伯に売り込まれた簪だ。繊細な銀の花に翡翠がちりばめられたそれは可愛らしく、とてもいわく品には見えない。
だが、先ほどの藍玉の発言により、この簪に霊がついていることが確定した。この短期間で本当にいわく品を用意するとは、胡伯も大した男だ。
(それにしても、藍玉がここまで喜ぶとは……)
藍玉は簪を掲げてみたり、逆に上から覗き込んだりして、これまでになくはしゃいでいる。
やはり彼女は妙な娘だ。いわく品を贈られて全力で喜ぶ妃など、世界中を探しても藍玉しかいないだろう。
呆れ半分、紅焔が苦笑して見守っていると、藍玉が愛らしい顔をぱっとこちらに向けた。
「旦那さまは、これをどちらで見つけてくださったのですか?」
「胡伯という、宮中出入りの商人からだ。たまたま、話の流れで、霊憑きのいわく品にあてがないか聞いてみたら、これを持ってきた」
「その方は、なんて素敵な商人さんでしょう! 旦那さまも、素敵な贈り物をありがとうございます」
「っ! あ、ああ」
年相応の娘らしく破顔する藍玉に、紅焔は不意打ちをくらってどきりとした。
(……彼女は、こんな顔もするのか)
動揺を隠すためさりげなく視線を逸らしながら、紅焔はどきまぎと鳴る胸を押さえた。幸いにして藍玉はすでに簪に関心を戻しているが、確実に紅焔の頬は熱が上っている。
一級品の中でもとりわけ特別な品。そう、胡伯が事前に豪語したにふさわしく、簪はそこそこ--かなり値が張った。
国費ではなく私費から払ったとはいえ、本当にいわくがあるのかないのかわからない品に出すにしては、かなり勇気が必要な金額だった。
(だが……さっきの顔が見れるなら、悪くない買い物だったな)
あの笑顔が見られるなら、もうふたつみっつ、同様の品を買っても悪くはない。もしかしたら華ノ国の蘇芳帝も、こうやって阿美妃にのめり込んでいったのだろうか……。
そんなふうにひとりで喜びを噛み締めていたら、少し離れた場所に控えていた藍玉の双子の従者たちが、ヒソヒソと囁き始めた。
「見ましたか、宗。やっぱりこの人間、ウブですよ」
「もちろんだよ、玉。しかもこの人間、たまたまとか言ってるけど、絶対にわざわざ姫さまのために贈り物を探させたに違いないよ」
「健気ですね、宗」
「健気だね、玉」
(こいつら、聞こえてるんだけどなぁ……!)
藍玉には見えないよう拳を握りしめ、紅焔は双子を睨む。双子は小さな口をつぐみはしたが、涼しい顔で目を閉じた。
……奇妙といえば、この双子も謎が多い。
藍玉が奇妙な術を使った時、そばにいたのはこの双子だけだ。少なくともこの二人は、藍玉の不思議な力について知っているということだ。
(双子だけ他の侍女と服が違うのも気になるし、宗のほうはおそらく男児だ……。やはりこの二人は、春陽宮の中でも特殊な立場なのか?)
見た目から推測して、玉と宗は十歳くらいだ。それくらいの年であれば後宮でも下男として働かなくないが、実際に連れてくる妃はまれだ。
逆にいえば、ほぼ特例のような扱いになってでも、この二人をそばに置いておくことを藍玉が選んだということになる。
とまあ、気になることは尽きないが、尋ねたところで素直に答えに返ってくるわけもない。咳払いして気持ちを切り替え、紅焔は再び藍玉に語りかける。
「商人によれば、その簪は行方不明となった阿美妃の一人娘、麓姫のものと言われているが……。麓姫の説明は、君には不要だろうか?」