幕間②
こちらの話以降、皇帝が住む殿舎を「蒼天宮」に変更させていただきます。
* * *
藍玉の元気がない。それを紅焔は、蒼天宮に忍び込んだ宗から聞いた。
天宮城に上がってから、彼女が体調を崩すのは初めてだ。蘇大臣に変わる財務大臣を任命したり、鬼通院に事態収拾の恩賞を与えたりと何かと立て込んでいる紅焔だったが、政務にどうにか区切りをつけて急いで春陽宮に渡った。
しかし駆けつけた彼が見たのは、床に臥せっていると思われた藍玉が、けろりとした顔でライチを食べる姿だった。
「おや、旦那さま。そんなに慌てて、何かあったのです?」
白く瑞々しい実を頬張りながら、藍玉がきょとんと首を傾げる。なお、ライチの実は、宗の報せを受けてすぐに紅焔が侍従長に手配させた、彼女へのお見舞い品である。
もぐもぐと小動物のようにライチを無心で食べる藍玉を眺めつつ、紅焔は扉の近くに控える宗にこそりと囁いた。
「おい。お前、俺に嘘を吐いたな」
「失敬だな、旦那さま。僕は嘘なんか吐いてないよ」
心外そうに唇を尖らせる宗に、紅焔はくいと眉をあげて小首を傾げる。
「だが、現に藍玉はなんともないじゃないか」
「姫さまの様子がおかしいのは本当ですよ。あの日から……劉生殿のために祈祷を捧げた日から、姫さまは時々ぼんやりなさるんです」
ムスリと睨む宗に変わって、玉がひそひそと答える。
言われて、紅焔は改めて藍玉を見た。――パッと見る限りは、藍玉はいつも通りに思える。飄々として摑みどころのない、それでいて愛らしい妃だ。
だが……と、紅焔は考え直す。
藍玉はつい最近、華劉生を見送ったばかりなのだ。自らも千年前の大火の夜に命を落とした彼女にとって、親しい人間との死別に本当の意味で向き合ったのはおそらく初めてのこと。その辛さや寂しさは、紅焔もいくらか察することができる。
それに大人びているが、藍玉はまだ十七歳の娘なのだ。
(しばらくそっとしておこうかと思ったが……。そんなことよりも、もっと早くここに来て、ただ黙って藍玉のそばにいるべきだったのかもしれない)
嘆息をする紅焔の様子に、何かを察したのだろう。玉が宗の腕をつついて、二人がそろりと退室する。
紅焔が藍玉の向かいに座ると、藍玉はちらりと紅焔を見た。
「……ライチ、旦那さまも食べますか?」
「いいのか?」
「いいも何も、旦那さまが贈ってくださったものですよ」
おかしそうに藍玉が笑う。とても素直な、年相応の娘らしい可憐な笑みだ。
だから紅焔も、切れ長の美しい目を少しだけ細めて微笑んだ。
「じゃあ、ひとついただこうか」
白い実はよく熟れていて、近づけると爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。かぶりついてすぐに、瑞々しい甘さが口の中いっぱいに広がる。
太陽はとうに山の向こうに沈み、窓からは月の白い光がぼんやりと差し込んでいる。そういえば、藍玉と初めて春陽宮でまともに言葉を交わしたのもこういう静かな夜だったと、今更のように紅焔は思い出した。
思わず笑みを漏らしてしまった紅焔に、藍玉がきょとんと首を傾げる。
「何やら楽しげですね」
「……いや。君と俺がこんなふうに向かい合って、仲良く一緒にライチを食べていると知ったら、昔の俺はさぞ驚くだろうと思ってな」
紅焔が苦笑しながら言うと、藍玉も得心したように笑みを漏らした。
「なるほど。それを言うなら、私もです。最初の頃の旦那さまは、本当に感じが悪かったですから」
「感じ悪いは言いすぎじゃないか?」
「そんなことはないですよ。だって、『君を愛するつもりはない』ですよ? ああ、ひどい。本当にひどい。私だったからよかったですけど、私じゃなかったら大泣きしてましたよ」
「それは……本当に反省している」
「もっとしてください。どんどんしてください」
気まずげな顔をする紅焔に、藍玉はなぜか得意げに胸を張る。それから、彼女は懐かしそうに目を細めた。
「でも……あれから、色々とありましたね」
「そうだな」
紅焔も目を閉じて、これまでの日々に想いを馳せる。
最初は、なんと奇妙な娘を妃に迎えてしまったのだと、正直頭を抱えた。
けれども藍玉に救われ、共に過ごすうちに彼女の秘密も知った。一度は天宮城を出て行こうとした彼女を、引き留めたこともあった。
振り返ればあっという間ではあるが、重ねた日々は着実に二人の間に刻まれている。
(……今でも君は、すべてが終わったら、妖狐たちが住む「白の一族の里」に帰るつもりなのだろうか)
喉元まで出かかった問いかけを、紅焔は甘い果実と共に飲み込んだ。
仮にそうだとしても——いずれ終わる日々だとしても。自分が彼女を想う気持ちも、今こうして傍にいたいと願う思いも、損なわれるわけではない。
彼女がいつか、今を振り返った時。人間の世で過ごした日々も存外悪くはなかったと、笑って思い出せるならそれでいい。
「——この先もよろしくな、藍玉」
「なんですか、急に改まって」
「なに。一応、ちゃんと言っておこうと思ってさ」
肩を竦めつつ、紅焔は柔らかく微笑みながら藍玉を見据えた。
「俺には君がいるように、君には俺がいる。これだけは、何があっても忘れないでくれ」
藍玉の瞳が驚いたように見開かれ、薄紅色の唇がうすく開く。美しい薄水色の瞳が、月の明かりを受けてまるで水晶のようにきらりと輝く。
——阿美妃を千年の呪いから解き放つ戦いは、藍玉にとって、華劉生との別れよりもいっそう辛い試練となるだろう。もしかしたら千年前の真実が、遅れて襲いかかる鋭い刃として、彼女の心をえぐることもあるかもしれない。
けれども、彼女はひとりではない。ひとりにさせない。
どんなに激しく苦しい嵐が待ち受けようと、自分が、必ず彼女の手を掴み続ける——
藍玉は何かを迷うように瞳を揺らしていた。やがて彼女は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめて、意を決したように口を開いた。
「……旦那さま。私と、本当の夫婦になってくださいませんか」
「…………ん?」
今のは、幻聴だろうか。もちろん幻聴に違いない。
そう思いながら前を向くと、藍玉の緊張した眼差しと視線が交わる。
だから念のため、紅焔は聞き返した。
「今、夫婦がどうとか言ったか?」
「はい。私と、本当の夫婦になってくださいと言いました」
なんと聞き間違いではなかったか。だが、あまりに脈略がないし意味がわからない。
紅焔が返答に窮して戸惑っていると、藍玉はよりはっきりと声に出して言った。
「お願いします、旦那さま。私を、あなたの正式な妻にしていただきたいのです」
白く清らかな月光の下、藍玉の頬はうっすらと赤く染まっている。それが大変いじらしく、きゅうと胸を締め付ける。
締め付けは、するのだが。
——さて。これは一体、何をどう理解すればいいだろうか。
現実逃避のように、紅焔は天井を仰ぐのだった。
七章完です!




