幕間①
藍玉が過去の幻影に混乱をしていたのと、ちょうど同時刻。
安陽の外、都を見下ろす高台にある鬼通院の庭の四阿にて、亡き李焔翔の妻・麗鈴はひとりの男と相対していた。
庭の桔梗を揺らす風に微かに湿り気が混じり、曇天の空に微かに遠雷が響く。そう時を待たずして、空が荒れるのだろう。
長いまつ毛に縁どられた目を伏せて、麗鈴は花の香りの漂う茶に口をつける。ほっと小さく吐息を漏らしてから、彼女は天女のような笑みを男に向けた。
「……ねえ、あなた。今回のことは、どこまで思惑通りだったの?」
男の、銀糸のような髪が揺れる。麗鈴の問いに、彼は微笑んで金色の瞳を向けた。
「さて。どういう意味かな?」
「まあ、白々しい。私、とても驚いたのですよ。あなたの勧め通りにあの商人を招いたら、本当に陛下が南宮殿いらっしゃるんですもの。おかげで、あの方が無様に足掻く姿を見られましたけれど……公子様に何かあったら、どうするおつもりでしたの?」
「でも、そうならなかったでしょう? 心配ないさ。ボクは、あの子狐の力量も図ったうえで、君に助言をしているのだから」
「藍玉姫……。あの麓姫の生まれ変わり、ですか」
絹のように美しい髪をそっと耳にかけて、麗鈴は庭に視線をやった。
「あの子は苦手です。あの硝子のような目で見られると、背筋がぞわぞわと震えるわ。――そろそろ、教えてくださらない? あなた、なぜあの子にこだわるのかしら」
男は答えない。曖昧に微笑んで、花の香りのする茶に口をつけるだけだ。
もともと答えが返ってくるとは思っていない問いだった。軽く肩を竦めて、麗鈴は微笑む。
「まあ、いいのです。私は、陛下が憎い。あなたは、あの子に悪戯がしたい。それがすべてで、それが一番ですもの。これからもうまく、仲良くいたしましょう?」
「そうとも。君は実にいいことを言う」
満足そうに頷いた男は、ふと、己の胸に手を当てた。
「……悪いね、時間切れだ。このところ、少しはしゃぎすぎたみたいだ」
「かまいませんよ。近くにまた、ゆっくりお話に参ります」
麗鈴がにこりと微笑むと、男は整った細面を俯かせて静かに目を閉じる。
——どれくらい経っただろうか。ややあって、男は切れ長の目をそっと開く。
そこから覗くのは、理知的な光を宿した灰色の瞳だ。何度か目を瞬かせてから、男は柔らかく静謐な笑みを麗鈴に向けた。
「……おや。今日は随分と早く帰ってしまったのですね。申し訳ありません、花凜さん。彼とは十分にお話が出来ましたか?」
「ええ。ご心配には及びません」
麗鈴は優雅に頭を横に振って、茶器を机の上に戻した。
「本日はお暇いたします。ありがとうございました、淵方士」
鬼通院の大門を出てすぐにある長い石段を、麗鈴は供もつけずに一人で降りる。
身分と名を偽り、この地に足を運ぶようになったのは数か月前からだ。
安陽の民のほとんどは、楽江全土を呪う大妖狐が封じられる場所である鬼通院を恐れて、この地に近づかない。だが、一切誰も来ないかといえば、そんなこともない。
例えば、呪いや怨霊の類に苦しむ者。呪術師を語る人間は都にもいるにはいるが、日頃から阿美妃を封じ、抑えている彼らに並ぶ腕を持つ呪術師はそういない。だから時々、藁にもすがる思いで鬼通院の石段を上る者がいる。
もしくは反対に、呪いを求める者——。誰かを強く憎み、呪わんとする者が、その力を求めてこの石段を上る。
鬼通院の今の長の淵春明は、そうした依頼を受けないよう術師たちに厳命している。それでもいまだに、仄暗い欲求を抱えて鬼通院の門をくぐる者がごくたまにいるのだ。
麗鈴もそうしたひとりだった。花凜と名前を偽ったのもそのためだ。
もちろん明け透けに呪具を求めるようなことはしていない。しかし、麗鈴が怨霊に憑りつかれたり、苦しめられたりているわけではないことから察したのだろう。最初に応対した呪術師に変わって、なんと淵方士が出てきた。
おそらく彼は、誰かを呪うなどやめるよう麗鈴を説得するために現れたのだ。
けれども淵方士と二人きりになってすぐに、『彼』が出てきた。
『彼』の名を、麗鈴は知らない。それどころか、彼が何者で何を目的としているのかすらわからない。知っているのは、彼が淵春明の中に潜む別人格であるということと、彼が皇帝の唯一の妃である春陽妃・藍玉姫に執着していることだけだ。
“ねえ、君。ボクと手を組まないかい?”
淵方士の顔に、淵方士とは似ても似つかない表情を浮かべて、彼は笑った。
どういうわけか麗鈴の素性も望みも見抜いたうえで、彼は手を差しだした。
“君は皇帝を引き摺り下ろしたい。ボクは、香藍玉で遊びたい。……ボクの望む『混沌』は、きっと君の利益になる。ボクらはきっと、いい共犯者になれるはずだ”
以来、麗鈴は「花鈴」として鬼通院に足を運び、彼と何度か言葉を交わした。彼が表に出てきている間、淵方士は意識がない。淵方士はどうやら、彼が淵方士に変わって「花鈴」の相談相手になっていると思っているようだ。
(まあ、あの方が本当は何者なのか、私にはどうでもよいことですけれど)
先ほどよりも濃くなった曇天の奥で、再び遠雷が微かに響く。風になびく長髪を押さえながら、麗鈴は一歩一歩着実に、安陽へと続く石段をゆっくりと下った。
——幼い息子を連れて天宮城を出た日の恐怖と屈辱が、いまだに頭から離れない。
紅焔がほんの少年だった頃から知っている。彼を本当の弟のように思っていたし、彼もきっと、同じように自分を姉と慕っていたと思う。
だから、信じられなかった。夫が紅焔の暗殺を計画していたことも、その夫を紅焔が捕らえて処刑したということも。まるで悪い夢を見ているかのようだった。けれども悪夢は一向に終わらず、反逆者の子として息子は天宮城を追われることになった。
裏切られたと思った。紅焔に兵を差し向けた咎があるとはいえ、夫は正当な皇太子だ。なにより紅焔は、夫・焔翔を兄として慕い愛していた。その兄に、情の欠片もなく刃を突き立てた。そんな非情が、この世で許されていいわけがあろうか。
この恨みを、怒りを、憎しみを。一日たりとも忘れたことはない。
これは亡き夫のためでもあり、愛する我が子のためでもある。
——……ああ。可哀想な、翔龍。
愛らしく聡明な息子は、いずれは皇帝の座が約束されていた。
なのに、紅焔がそれを壊した。彼は、麗鈴から愛する夫を、翔龍から愛する父を奪った。それだけにとどまらず、翔龍から輝かしい未来すらも奪い去ったのだ。
(許すものか。許せるものか)
大勢の臣下に囲まれ、美しい妃を伴い、満たされたような顔で玉座に座る紅焔の姿が脳裏に浮かぶ。
皇帝として息子を労い、憐れみをかける彼に、麗鈴は反吐が出そうだった。得意の、分厚い笑顔の仮面で覆い隠しはしたが、胸の中には激情が吹き荒れていた。
その場所も、その地位も、すべて焔翔と翔龍に与えられるはずのものだった。
すべて奪った。すべて壊した。なにもかも、すべてをめちゃくちゃにしておいて。
——そのくせ、あんな顔で。あんな、勝手に救われて、過去にして。何もかもを吹っ切れたような顔でいまさら手を差し伸べるような男に、これ以上奪わせてなるものか。
「……ああ、嫌だわ」
そう呟いて、自然と力が入ってしまった眉間にそっと指をあてた。
「私、笑うのが下手になってしまいそう」
自嘲の混じるその声は、風に紛れて誰に届くこともなかった。




