7-27
俊宇の身体は見つかっていない。
蘇大臣が彼を捨てさせた山は、大罪人や遺体の引き取り手のいない者を捨て置く場所だ。彼一人の身体をその中から見つけ出すのは困難だ。
だから俊宇の墓はない。強いていうならば、山に捨てられた者たちの魂を宥めるために建てられた供養塔が、それにあたる。
それでもあの黒玉の念珠が、凛風の声を俊宇の魂へと届けてくれるだろう。願わくば、彼の魂が楽土に渡っていますように。……たとえ現世で迷っていたとしても、彼女の祈りが、楽土への導きとなることを。
――そのようなことを祈りながら、藍玉もまた、大切な者を弔う用意を進めた。
「姫さま、姫さま。祭壇のしつらえは、これで大丈夫?」
「姫さま、姫さま。祭器の配置が問題ないか、確認いただけますか」
振り返った玉と宗に、今日のために香を焚き締めた衣を身に付けながら、藍玉は軽く微笑んで頷いた。
「問題ありません。二人とも、さすが完璧ですよ」
春陽宮の一角、侍女たちには立ち入らせない小さな部屋に、その祭壇はある。いまだ呪いの化身として封じられている母の御霊を、少しでも慰める祈りを捧げるためのものだ。
幽鬼や呪いが古くから身近な楽江の地では、家族の無事を祈るため神棚を置く家が多い。おかげで、藍玉が祭壇の部屋にこもって祈りを捧げたり護符を作ったりしていても、侍女たちにそこまで不審がられないのは幸いだ。
玉たちによってしつらえられた祭壇の手前に、藍玉は長槍を寝かせて置いた。
長槍は、華劉生の幽鬼が手にしていたものだ。彼が楽土に渡ったあとも、なぜか消えずに残った。それを用いて、叔父の供養にあてようと藍玉は考えたのだ。
燭台の蝋燭に陽を灯す。橙色の灯りが薄暗い部屋の中に祭壇を浮き上がらせる。
藍玉は衣の裾を祓って長槍の前に座り、黒玉の念珠を手に、死者の魂を弔う言葉を静かにつむぎ始めた……
……そうして、どれくらいが経っただろうか。
気が付くと藍玉は、周囲を石の壁で覆われた暗く狭い道に立っていた。
(ここは、一体……?)
周囲に光はなく、低い天井も石でできている。おそらくはどこかの地下道だろう。
首を巡らせた藍玉は、ハッとして薄水色の目を見開いた。振り返った細道のその先に、華劉生がいる。
記憶にあるよりも、華劉生の細面は痩せてこけている。美しい面差しを険しくさせて、彼は躊躇いのない足取りでこちらにまっすぐに歩いてくる。
なぜ彼がいるのだろう。叔父は間違いなく、あの時消えて楽土に渡ったはずだ。
「にい……」
兄さま。そう呼びかけようとした藍玉の声は、途中で途切れた。
まっすぐに歩いてきた華劉生が、そのまま藍玉の身体を通り抜けたからだ。
(この光景は、兄さまの生前の記憶?)
今度は遠ざかっていく叔父の背中に、藍玉は困惑しつつそう結論づける。
さっき自分は、残された長槍を祭壇に捧げ、華劉生の供養の儀を行っていた。長槍に残されていた華劉生の生前の記憶に、予期せず同調してしまったのかもしれない。
藍玉は慌てて、華劉生の背中を追いかける。この先に藍玉の知らない叔父の真実がある。そのような予感がしたからだ。
——果たして、藍玉の勘は正しかった。
細い地下道をまっすぐに進んだ先、不意に開けた地下空間。そこにある檻に閉じ込められた人物を見て、藍玉は思わず叫んでしまった。
「ああ、そんな……! 母さま!」
絹のように美しい黒髪を揺らして、母の——阿美妃の顔がゆっくりとこちらを向く。藍玉の声が届いたためではない。彼女もまた、華劉生の記憶の登場人物だ。
それでも、懐かしさに涙が零れそうになった。母の姿は、藍玉の記憶にあるままだ。最後に会った時、藍玉を——麓姫を乳母に託して城の外に逃がした時と同じ、この世の誰よりも優しくて温かな瞳をしている。
その瞳のままゆっくりと頷いて、阿美妃は微笑んだ。
“いらしたのですね、劉生殿。私の首も、あなたが貰ってくださるのかしら”
“……随分と、辛辣なことを仰いますね”
“だって陛下の首をとったのは劉生殿なのでしょう? 心からお恨みいたします”
軽やかに告げる阿美妃に、華劉生はなんと言ったらわからないという表情を返す。阿美妃は美しく微笑んでから、ふと、悲しげに目を伏せた。
“けれども、申し訳なくも思うのです。以前、あなたが王都を離れる際に言いましたね。陛下は必ず、かつてのあの方に戻ってくださる。私がそうしてみせますと。……結局、私では成しえませんでした。そのせいで、あなたに最も辛い手段を選ばせてしまった”
“阿美の君……”
“なぜ、あのように陛下が変わってしまわれたのか、私にはわかりません。世のひとびとの言うように、狐である私の力が、あの方を歪めてしまったのでしょうか。だとしたら、私は白の里から出てくるべきではなかった……”
“そんなはずがありません! あなたが——種族の異なる私たち人間を、慈しんで愛してくださったあなたが、陛下を歪めてしまうことなんて……!”
“でも、陛下は死んでしまったではないですか”
阿美妃の声は静かだったが、華劉生は胸を剣で貫かれたような顔をした。
重苦しい沈黙の後、阿美妃はふっと微笑んだ。
“ねえ、劉生殿。あなたが初めて白の里を訪れた日のことを、覚えていますか?”
“……忘れるはずもありません。花々が咲き乱れ、作物が豊かに実り、そこに住まうひとたちは満ち足りた美しい顔をしていた。私は生きながら桃源郷にたどり着いたのかと、己が目を疑いました。その中で私は、阿美の君に出会いました”
“私もあなたと出会って、生まれて初めて心から胸が躍りました。里の外の世界のこと。人間たちのこと。どの話もとても面白くて、私はどうしても外の世界が見たくなったのです”
少女のように目を輝かせてそう言ってから、阿美妃は困ったように眉尻を下げた。
“さっきはあんなことを言いましたけれど。私、少しも後悔していないのです。あなたを里にお招きして。陛下と出会って、恋をして。麓姫という宝物を授かって……。たくさんの人間を不孝にしてしまった私は、きっと楽土に行けないでしょう。でも、それさえどうでもいいと思えるくらい、悔いのない幸せな人生でした”
“私もです。白の里に足を踏み入れ、あなたとお会いしたことを悔やんだ日は一度もない!”
“ああ、嬉しい! あなたまでそう言ってくださるなら、私はもっと胸を張れますね。本当に幸せな日々でした。毎日、とても楽しゅうございました!”
だから、と。阿美妃はまっすぐな眼差しを華劉生に向けた。
“もう十分です。もう満足です。どうぞ、あなたの手で終わらせてくださいな”
頬を涙が伝う感触がする。けれども涙を拭う間すら惜しんで、藍玉は食い入るように母の姿を見つめた。
(私を逃がしてくださいながら、母さまはこんなことを考えていたんですね)
自分を送り出す時、母はいつもと変わらぬ笑みを浮かべていた。きっと、幼い娘を不安にさせないためだったのだろう。
なんども考えた。あれが最後になるとわかっていたなら、きっと自分は母の近くを離れなかった。だけど母は、あれが今生の別れになると知っていたのだ。
華劉生もまた、しばし言葉を失くしていた。それから、強く歯を食いしばった。
“………できません”
“劉生殿?”
“あなたまで兄の後を追ったら、麓姫さまが悲しまれます”
阿美妃の瞳が、初めて揺らいだ。動揺する彼女を見据えて、華劉生は密やかな、それでいて少しの迷いもないまっすぐな声で告げる。
“あなたを必ず逃がします。無理を承知でお願い申し上げます。どうか、私を信じてください”
“でも、どうやって……”
“次の皇帝は私ですよ”
この記憶が始まって初めて、華劉生は笑みを浮かべた。それは苦々しさが混じったものではあったが、思わず漏れてしまったもののようにも見えた。
“手はあります。いえ。必ず道を切り拓いてみせますよ”




