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残っていた二つの人形は割れた。
宮中に戻った紅焔らに、鬼通院の淵方士が真っ二つに割れた人形を見せてくれた。これによって、皇帝と春陽妃にかけられた呪いが消失したことが証明された。
園遊会で現れた幽鬼は消えた。淵方士が皇帝に襲いかかる幽鬼を退けた時に、その霊力を大幅に削いでいたためだ。だから蘇凛風を憑代としていることを見破られたことで、幽鬼は力を失って消失した……
と、いうことになっている。
(あの場にいたのは、私と旦那さま、そして商人の彼だけでしたから。それくらいの隠ぺいは、皇帝である旦那さまならばお手の物でしょうね)
早朝の眩い日差しを手で遮り、藍玉は空を見上げて息を吐く。
南宮殿で華劉生を見送ってから、早七日が過ぎた。
宮中に出入りしていた術師たちは鬼通院に引き上げ、天宮城には日常が戻りつつある。日頃から狐の影に怯える王都の者たちは、じきに皇帝を呪った幽鬼のことを忘れるだろう。
だが、記憶から消えないものもある。幽鬼に憑りつかれた娘、蘇凛風のことだ。
蘇家の使用人から話が漏れたに違いない。行方不明となった蘇家の下男が、蘇凛風と想いあっていたこと。幽鬼に憑りつかれた蘇凛風が、下男と自分を引き離した父親を呪い殺したこと。……その直後に蘇凛風が、幽鬼が消えると同時に命を落としたこと。
ひとびとは物語を求める。加えて、蘇凛風は皇帝の妃候補ともされた高名な姫君だ。
想い人を奪われた悲劇の姫君の愛憎譚は、口伝いに民の間にまで広く知られた。
——そうやって、蘇凛風の死は『真実』となった。
「——このまま安陽を発つのですよね」
通行証を手に周光門を抜けて、大通りを少し外れた小径の影。その場所に、胡伯は隠れて待っていた。
南宮殿から戻ってからは、胡伯とは宗と玉を通じてやり取りをした。だから、彼が安陽を離れて長い商いの旅に出ることも聞いていた。
その旅の真の目的が、砂漠を超えた先の小国に蘇凛風を送り届けるためのものだということも。
いつもの通り男装をして見送りにでた藍玉に、すっかり傷の癒えた美しい姿で、胡伯は恭しく首を垂れた。
「春陽妃様に置かれましては、当商会をご愛顧いただき誠にありがとうございました」
「私は何も……。旦那さまのほうがずっと、あなたのことを気にかけていらっしゃると思います」
「なに、しばしのお別れにございます。胡伯は戻って参りますよ。砂漠の向こうの、珍しくも素晴らしい品々を山ほど携えて……。それが、私にできる一番の恩返しですから」
ふっと笑った胡伯の顔には、いつものような芝居臭さはない。そういう顔で笑うと、人心掌握の巧みな妖艶な商人ではなく、ただの親しみやすい美男に見える。
同じように笑みを返してから、藍玉は声を潜めた。
「彼女は——凛風様の様子は、いかがですか?」
胡伯は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせた。けれども結局、少しだけ困ったような笑みで正直に答えた。
「お身体に問題はありません。が、塞いでおられますね。よく外を眺めて物思いにふけっておられます」
蘇凛風は生きている。それを知るのは、ごく限られた人間だけだ。
幽鬼に憑りつかれた結果とはいえ、蘇凛風は皇帝とその唯一の妃を呪った。この瑞国で、凛風が生きながらえる道はない。本来なら、有無を言わさず処刑されるのが妥当だ。
だから紅焔はささやかな嘘を混ぜ込んだ。彼女が幽鬼に憑りつかれたことや、皇帝を含む三人の人間を呪ったことは隠さない。そこに「幽鬼が消えてすぐに、蘇凛風は命を落とした」という結末を付け足した。
もちろんこの処分には、紅焔による温情が多分に含まれている。けれども身分剥奪のうえ国外追放という刑は、決して甘すぎるということはない。
これから蘇凛風は、名前を捨て、過去を捨て、彼女を知る者が誰もいない異国で生きていかなければならない。何より、彼女が愛した俊宇の眠るこの地を踏むことは二度とない。それこそが凛風にとって最も厳しい罰となるだろう。
(……あなたの人生はあなただけのもの、だなんて。いま振り返れば、随分と無神経な言葉を吐いてしまったものですね)
かつて凛風に何気なく告げた言葉が、今更のように重くのしかかってくる。
やはり自分は、人間の世というものをわかっていなかった。凛風はまさに、自分で己の道を選んだのだ。けれどもその結果、俊宇を喪ってしまった。
蘇凛風を生かすのは自分への戒めでもあると、紅焔は話していた。彼はきっと、彼女らを襲った悲劇の根幹にあるもの――国家や一族の利益のためにひとひとりの命を簡単に切り捨てる、この国の意識そのものを変えたいのだろう。
何事も背負いがちなのは紅焔の悪いところだ。だけど今回ばかりは藍玉も、夫の思い描く理想の世が実現することを切に願ってしまう——
袖の中から小さな巾着を取り出すと、藍玉はそれを胡伯に預けた。
「これを凛風様に。印を刻んだ黒琥珀で念珠を作りました。黒琥珀には、死者に祈りを届ける力があるとされています。ですから……」
「承りました」
皆まで聞かず、胡伯は巾着を受け取った。
「凛風様の心をお慰めする助けに、きっとなりましょう」
そう微笑んで、胡伯は旅立っていった。




