7-24
* * *
突如として、あたりが漆黒に包まれる。凛風の長い髪が広がり、紅焔の視界を奪ったのだ。
風を切るような音がしたと思った刹那、目の前に藍玉が飛び込んできた。
「防壁展開!」
藍玉が素早く印を結び、光の紋が空中に刻まれる。かと思いきや、凛風の長い髪がまるで鞭のように、藍玉の印にあたって激しく弾かれた。
珍しく苦悶の表情を浮かべる藍玉に、紅焔は我に返って腰を浮かしかけた。
「藍玉!」
「問題ありません! ……それより、旦那さまも、いまの幻影は?」
「……見えた。彼女がなぜ、俺を憎むのかも。華劉生がなぜ、蘇凛風に引き寄せられたのかも」
無表情でこちらを見据える蘇凛風を眺めて、紅焔は顔を顰めた。
華劉生も蘇凛風も、愛する者を奪われた。俊宇を失った蘇凛風の絶望が、華劉生という幽鬼を惹きつけた。華劉生の怒りに引きづられた蘇凛風が、生きながらにして鬼に近づいた。そうして、自らの手で父親を引き裂き、今度は紅焔に刃を向けている。
(とんだとばっちりだな!)
俊宇のことは気の毒に思うし、凛風の悲しみは計り知れない。だが、それにより命まで狙われるのは、いくらなんでもお門違いだ。皇帝も、すべてに責任を取れるわけではない。
だけど。
“人間の世は、女には苦しいですね”
園遊会の日。隣で、寂しげに微笑んだ藍玉の声が、かすかに脳裏によぎる。
大人しく引き裂かれてやるわけにはいかない。だが、たしかに蘇凛風は『皇帝』に人生を振り回された被害者のひとりなのだろう。
――否。ひとひとりを道具のように使い捨てることを良しとする、この国に蔓延るひとびとの意識そのものに、彼女の人生は潰されたのだ。
……まったく。戦がないとしても、この地は課題ばかりだ。父が――自分が目指す太平の世は、いまだほど遠い。
息を吸って、吐いて。紅焔は、藍玉の背中に呼びかけた。
「助けられるか? この娘を」
「いつもの、皇帝としての責任ですか?」
「いいや、戒めだ。俺がこの先、道を違えないための」
藍玉は察したように力強く微笑んだ。
「ご安心を。凛風さまの絶望は、すでに把握しました。彼女の悲しみは、私が祓ってみせましょう!」
苦しい。苦しい。髪を振り乱し、全身を燃やす怒りと憎しみを暴れさせながら、凛風はまるで溺れているようにあえいだ。
どれだけ暴れても、悲しみは晴れなかった。どれだけ叫んでも、憎しみは消えなかった。
四肢をもがれ、物言わなくなった父を前にした時だって、そうだった。父が死んだところで、俊宇が戻ってきてくれるわけでもない。
(手をくだしたのが、あの人だったから?)
自分に取り憑く幽鬼の名を、凛風は知らない。同じように大切な誰かを奪われ、同じように悲しみにとらわれている。凛風にとってはそれがすべてであり、それこそが重要だった。
幽鬼は、凛風の嘆きに応えてくれた。凛風に変わって三人の人間を呪い、そのうちのひとりである父を呪い殺してくれた。
なのに、身のうちに渦巻く憎悪は増すばかりだ。気づけば屋敷を抜け出し、皇帝と春陽妃を求めてしまった。ふたりが真相に迫っていたのは予想外だったが、もはやそんなことはどうでもいい。
ふたりを、俊宇と同じ目にあわせてやりたい。否。俊宇が受けた以上の苦しみと恐怖を、与えてやらねば気が済まない。
それしかもう、考えられなかった。
(本当に?)
浅く激しく空気を求めながら、凛風は長髪を刃のように振り回して、皇帝を守ろうとする二人の子供を攻撃する。
(本当に陛下と春陽妃を殺したら、この息苦しさは治るの?)
子供らは素早く、狡賢く立ち回って、まるで小狐を相手にしているみたいだ。皇帝に攻撃が届かない煩わしさに、視界がチカチカと弾ける心地がした。
――自分はもう戻れないだろう、と。心の底ではとうに理解していた。
自分がなにに怒っていて、誰を憎んでいるのか。それすらもはや、わからなくなってくる。
ただただ、愛する者を奪った世界が憎い。自分から大切なものを奪った人間が憎い。自分を縛り付け、閉じ込めた何もかもが憎かった。
いや、そもそも。
わタシ、ダれを愛シてたんダッけ?
「凛風様!!!!!」
鈴の音のような声に、彼女はとっさに胡乱な目をそちらに向けた。それが誰の名かはわからなかったが、反射的にそちらに顔をむけてしまう強さが、その声にはあった。
そこには、一本の光輝く弓を手に持つ、美しい女の姿があった。
女の姿を目にした途端、自分の中で、これまでとは異なる激情が湧き上がるのを感じた。胸をかきむしるほど苦しくて、頭がぐわんぐわんと痛みを訴えて、彼女は悲鳴のような咆哮をあげた。
彼女の意思そのままに、鋭い刃と化した髪が、女に襲いかかる。しかしながら、凛と立つ女の周りには不思議な文様がいくつも浮かび、刃の猛攻をやすやすと弾いた。
「先ほど見せてくださった幻影のおかげで、あなたという生き霊のことは理解できました。しかし、本当にあれだけですか?」
彼女は叫んだ。頭の中が憎悪で埋め尽くされる中で、頬を熱い涙がつたうのをかすかに感じた。
……それは、彼女が喉から手が出るほどに欲して、指先で崩れ落ちてしまった光景だった。
銀糸の刺繍でこまやかな装飾のなされた紫紺の衣を纏って、堂々と現れた皇帝の唯一の妃。美しく微笑みながら進み出た彼女は、愛おしげな眼差しを向ける皇帝に優しく迎え入れられる。
そこには、幸せがあった。愛し、愛される者が、互いを慈しんで寄り添う幸福があった。
凛風が、俊宇と手にしたかった未来だった。
「ああああああああ!!!!!!」
「少しは正気に戻れたようですね! そのまま、こちらに引き戻してあげましょう!」
春陽妃が弓を持ち上げ、つるを引く。その美しい指先から生まれるようにして、白く輝く矢が姿を現す。その切先に、花が咲くみたいにして不思議な模様が浮かぶ。
薄水色の瞳でまっすぐに凛風を見据えて、春陽妃は弓矢を放った。
(あ…………っ)
放たれた矢は、寸分も狂いなくまっすぐに、凛風の胸を射抜いた。不思議と痛みはなかった。ただ、穿たれた場所から、全身に暖かな光のようなものが巡り、憎悪の火を消していくのを感じた。
「いや……」
凛風はくしゃりと顔を歪めた。溶けていくなにかに、記憶に、震える手を伸ばした。
「いや……!」
俊宇との思い出が、次々と目の前を流れた。
初めて顔を合わせた日のこと。一緒に小鳥の墓を作ったこと。侍女たちに内緒で、お菓子を分け合ったこと。空から舞い落ちる雪の華を、並んでふたりで数えたこと――
「この想いは私のもの。この記憶は私のもの! お願い。どうか、私から奪わないで……!」
「奪いませんよ」
凛風の体を、細い腕が包み込んだ。春陽妃は――香藍玉は、凛風の怒りや悲しみのすべてを守るように抱きしめた。
「あなたには、時間が足りてなかったのです。俊宇さんの死を悼む時間が。……邪魔をする者はいません。弔ってあげてください、あなたの大切なひとを」
その言葉は不思議と、凛風の胸に響いた。
目を閉じなくても、俊宇の不器用な笑顔が目の前に浮かんだ。触れた手の大きさも、優しく包み込む温かさも、なにもかもはっきりと覚えていた。
ぜんぶがぜんぶ、愛おしかった。
「ごめんなさい」
ひくりと喉を引き攣らせて、凛風は膝をついた。大粒の涙が次々に溢れて、地面に大きなシミを作った。
「ごめんなさい。ごめんなさい……!」
わがままを言ったこと。彼に、自分を連れださせたこと。守れなかったこと。痛くて苦しかった時に、そばにいられなかったこと。
謝ったところでどうにもならない。凛風の声は、俊宇にとどかない。それでも、凛風は繰り返した。
何度も何度も、空に叫び続けた。




