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--俺はあとどれくらい、千年の運命に抗えるだろうか。
先導する侍従が持つ灯火がゆらゆらと床を照らすのを眺めながら、瑞国の若く秀麗な皇帝・李紅焔はひとり呟いた。
いまより千年の昔。悪しき大妖狐が大国を滅ぼし、この地に呪いを撒き散らした。以来、人々は平穏を許されず、大地は絶えず憎しみと怒りに覆われるよう定められた。
そんなものは、覆せると思っていた。天下統一さえ成せば、この地は必ず救われる。そう信じて、戦禍の中を駆けてきた。
だが、それこそ驕りだった。束の間の平穏が世を満たしても、一皮めくれば怨讐の種が息を潜めている。それらはふとした瞬間にどす黒い炎として噴き出し、再び人々を焼き尽くす。
身をもってそれを知った紅焔は、どんな卑劣な手を使おうと、いまの仮初の平和を生き永らえさせると誓った。
理解者はいらない。誰に恨まれてもかまわない。この道だけが、大切な者を踏み躙り辱めてきた自分の、たったひとつの「正解」なのだから。
この覚悟の前に、妃などいても邪魔なだけだ。
ちろちろと揺れる灯火が床に影を落とす中。恭しく手を合わせ、静かに頭を垂れて皇帝の呼びかけを待つ女に、紅焔は冷たい眼差しを向ける。
見れば見るほどに美しい娘だ。髪は上質な絹のように細く、橙色の灯りを受ける頬は彫刻のように滑らかだ。鼻も口も腕の良い職人がこさえた人形のように形がよく、伏せられた長い睫毛の奥には、明け方の空を思わせるような、澄んだ薄水色の瞳が覗いている。
少女の名は香藍玉。本日天宮城の後宮に入ったばかりの、紅焔の唯一の妃だ。
(存外、肝は据わっているようだな)
切れ長の目をさらに細めて、紅焔は静かに藍玉を値踏みする。
香家といえば瑞国随一の名家であり、藍玉はその箱入り娘だ。齢は十七と聞いている。
世を知らない者特有の甘えが顔に滲むかと思ったが、端麗な面差しは凪いでおり、実は天界から降りてきた天女なのだと言われても納得してしまうような落ち着きがある。
だが、そんなことは、紅焔が藍玉を歓迎する理由にはならない。
過去には軍師として内乱を治め、今は若き為政者として国の頂点に立つ紅焔は、誰もが息を呑むほどの美男子だ。
肌は雪のように白く、涼やかな目の奥の艶のある深い紅色の瞳は宝石のように美しい。すっと鼻筋の通った横顔は、近寄りがたいほどに静謐で神聖な色香を漂わせる。紅焔を知る者は、眉目秀麗という言葉は彼のために生まれてきたに違いないと、口を揃えて頷くだろう。
そんな色男にも関わらずこれまで妃がいなかったのは、紅焔自身が数多の縁談を退けてきたからだ。藍玉を後宮に迎えたのも、背後にある香家との関係を踏まえて、求婚を無碍にすることができなかったに過ぎない。
「面をあげよ、我が妃」
皮肉を混ぜてそう呼べば、藍玉は素直に顔をあげる。美しい面差しと澄んだ眼差しに、紅焔は呑まれてしまいそうになる。
悟られないように僅かに視線を逸らした時、藍玉の細い指に黄緑の石がはめられた指輪があることに気づいた。
(随分と控えめな石だな)
あれは翡翠だろうか。色合いは鮮やかだが、大きさはかなり小ぶりだ。香家のお嬢様とは思えない慎ましやかな指輪に、紅焔は少しだけ違和感を覚えた。
まあ、そんなことはどうでもいい。指輪のことなどすぐに忘れて、紅焔は再び冷たい眼差しを藍玉に向ける。
「香藍玉。そなたは我が第一の妃として、春陽宮に入った。だが、ここで成すべきことはなにもない」
「……は」
藍玉が短く答える。答えるというより、自然と声が漏れてしまったようだ。大人びた落ち着きとは裏腹に、声は意外にも年相応だ。そんなことを頭の片すみで冷静に分析しながら、紅焔は冷たく告げる。
「私はそなたを愛するつもりはないし、そなたも私を愛する必要はない。いずれ必要に応じて子を成すこともあるかもしれないが、遠い先の、仮定の話だ。なんにせよ、一日でも早く子を成すとか、後宮の女主人の役目を果たすとか、そのようなことは考えぬことだ」
紅焔が最後まで言い放つと、部屋にはしばし沈黙が流れた。泣くでもなく、責めるでもなく。ただ静かにこちらを見上げる薄水色の双眼に、紅焔は居心地の悪さを覚える。
(何も言わない、か)
藍玉は、ひどく落ち着いて見える。正直、彼女には泣かれるか、非難されるかと思っていた。実の兄を処刑し、父から玉座を取り上げて追放した夜叉のような男と恐れられる紅焔だが、五歳も年若い娘に理不尽に当たっている自覚ぐらいはある。
だが、なんだろう。要は「貴様は形ばかりの妃だ」と暴言を吐かれたにもかかわらず、まるで明日の天気のことでも告げられたかのように、藍玉は平然としている。
女とはこんなものだろうか。激情をあらわに泣き喚くのが、彼女らの得意ではなかったか。
沈黙に耐え切れなくなった紅焔は、裾を翻して藍玉に背を向けた。
「今宵は、それだけ伝えにきた」
引き留める言葉はない。突き放しておいてなんだが、このまま紫霄宮にある寝室に戻っても構わないのだろうか。
戸惑いながら襖戸に手を伸ばしたその時、初めて凛とした声が背中に突き刺さった。
「それに触れないほうがよろしいかと」
はっとして、思わず手を引っ込める。
次の瞬間、バン!バン!と何かを打ち付けるような激しい音と共に、血の手形が二つ、襖戸に現れた。