《後編》
「異形」は、音を立てずに、静かに立っていた。
トムは目の端でその動きを捉えた。森の中を滑っていく青白い複数の姿。首を回すと、暗闇の中に一つの白い影がちらりと見た。次の瞬間、そいつは消えた。風に吹かれて木々の枝が緩やかに動き、お互いを引っ掻きあった。トムは下に向かって警告を発しようとしたが、言葉が喉に凍りついてしまったように思われた。たぶん、見間違いだろう。おそらく小鳥か、雪の反射か、月光のいたずらみたいなものに過ぎなかったのだろう。そもそも、何を見たというのか。
「トム、どこにいる?」
ルースが上に向かって呼んだ。
「なにか見えるか?」
彼は急に用心深くなり、剣を手にして、ゆっくり輪を書くように回っていた。トムと同じことを感じたに違いなかった。見えるものは何もなかった。
「答えろ、トム!なぜ、こんなに寒いんだ?」
確かに寒かった。トムは体をガタガタ震わしながらなおもしっかりと哨兵の木にしがみつき、その幹に顔をピッタリと押し付けた。甘くネバネバした樹液が頬につくのがわかった。
森の影から、1つの影が現れた。そいつはルースの前に立った。背が高かった。痩せて、古い骨のように固く、ミルクのように青白い肉体を持っていた。その甲冑のようなものは動く度に色が変わるように見えた。一瞬、新雪のように白かったかと思うと、次の瞬間には影のように黒くなり、いたるところで濃い灰緑色の木立ちに紛れ込んだ。一歩動く度に、その表面は水面に映る月光のように流動した。
サー・ルース・ゴドウィンがふうっと短い音を立てて息を吐くのを、トムは聞いた。
「それ以上、近寄るな」
ルースが警告した。
その声は少年の声のようにひび割れた。彼は戦いに備えて、両手の自由が利くように、黒貂の長いマントを肩の後ろに投げやり、両手で剣を握った。風はやんでいたが、とても寒かった。
「異形」は音も立てず、滑るように進み出た。その手には、トムがこれまでに見たこともないような長剣が握られていた。人間界の金属では、あのような刃を鍛造することはできない。それは月光を受けて、生きているかのように見えた。半透明で、側面から見ると、殆ど見えないほど薄いクリスタルの破片のようだ。それに薄く青白い微光がチラチラとつきまとっており、刃の周囲に鬼火が燃えているように見える。その件はどんな剃刀よりも鋭利だと、トムにはなんとなく分かった。
サー・ルース・ゴドウィンはそいつに勇敢に立ち向かった。
「では、俺と踊れ」
彼は、挑戦的に剣を大上段に振りかぶった。手がその重さで震えた。いや、たぶん震えたのは寒さのせいだったろう。だが、その瞬間、彼はもはや少年ではなく、「冒険者ギルド」の立派な一員だと、トムは思った。
「異形」は立ち止まった。トムはその目を見た。青い。どんな人間の目よりも深く、青い。氷のように冷たく燃える青色。その目が、大上段で震えている長剣を見据え、金属に沿って月光が冷たく流れるのを見つめた。心臓が一拍打つ間、ひょっとしたら、とトムは希望をいだいた。
彼らは森の影から音もなく現れた。最初のやつに続いて2つ、3つ、4つ、5つ…と。
サー・ルースはその冷気を感じたかもしれないが、彼らを見ることも聞くことも決してなかった。トムは声をかけるべきだった。それが彼の義務だった。そして死でもあった。
もし、声をかければ…彼は震え、木にしがみつき、黙っていた。
青白い剣が震えながら空を切った。
サー・ルースは鋼でそれを受けた。両派の刃がぶつかったとき、鋼と鋼のぶつかる音は全くせず、聴力の限界あたりで甲高い微かな音がした。激痛に悲鳴を上げる獣の声のような。二の太刀を受け止め、三の太刀を受け止め、それから一歩後退し、また打ち合い、もう一歩後退した。
彼の後ろにも、右にも、左にも、顔がなく音を立てない観戦者がぐるりと取り巻き、辛抱強く立っていた。彼らのデリケートな甲冑の絶えず変化する表面のために、森の中では彼らの姿は殆ど見えなかった。だが、彼らは手出しをしようとはしなかった。
二人の剣は何度もぶつかりあった。その度に、激痛に泣き叫ぶような不思議な音が響き、しまいにはトムは耳を覆いたくなった。サー・ルース・ゴドウィンは奮闘のために息を弾ませ、その意気が月光の中に流れるのが見えた。彼の剣には白く霜がつき、「異形」は青白い光とともに踊った。
次の瞬間、ルースの受け流しが一拍遅れた。青白い剣が彼の腕の下の環鎧に食い込んだ。リングの間から血が吹き出した。血は寒気に当たって湯気を立て、その雫が雪に触れると火のように赤く見えた。サー・ルース・ゴドウィンは指で脇腹を擦った。手を放すと、土竜の毛皮の手袋は血に染まっていた。
「異形」はトムの知らない言語で何かを言い放った。その声は冬の湖の氷が割れるような音だった。サー・ルースはそれを嘲りの言葉と受け取り、怒り狂った。
「ジェームズ王のために!」
そう叫ぶと、霜に覆われた長剣を振り上げ、唸りを上げて前進し、渾身の力を振るって横に払った。「異形」はまるで面倒くさがってでもいるように、それを受け流した。
刃と刃がぶつかると、鋼鉄が砕けた。
一つの悲鳴が森の闇に谺した。長剣は震えて無数の脆い破片となり、針の雨のように飛び散った。ルースは膝を付き、悲鳴を上げながら目を押さえた。その押さえた指の間から血が噴き出した。
まるで、合図でもあったかのように、観戦者たちが揃って進み出た。何本もの剣が振り上げられ、振り下ろされた。そのすべてが死のような静寂の中で行われた、それは冷たい虐殺だった。青白い刃は環鎧をまるで絹のように切り裂いた。トムは目をつぶった。はるか下に、氷柱のように尖った彼らの声が響いた。
見る勇気が戻ってきたときには、長い時間が経っており、下の尾根には何もなくなっていた。
彼は息をするのも恐ろしい気持ちで、木の上に留まっていた。その間に、月がゆっくりと這うように黒い空を横切っていった。しまいには、筋肉が強張り、寒さのために指の感覚がなくなっていたので、彼は木を下りていった。
ルースの死骸は、片腕を投げ出すようにして、雪の上にうつ伏せに横たわっていた。こうして死んで横たわっていると、彼はいかにも若く見えた。まさに若様だった。
トムは数十センチ先に剣の残骸を見つけた。先端は、雷に打たれた樹木のように砕け、ねじ曲がっていた。彼は膝をつき、警戒しながら周囲を見まわし、それを拾い上げた。この折れた剣が証拠になるだろう。これが何を意味するのか、コーディエなら分かるだろう。もし、彼が駄目だったら、きっと、あの「雪の熟練騎士」アーネスト総帥か、学者オーウェンが謎を解き明かしてくれるだろう、コーディエはまだ馬のところで待っているのだろうか?急がなくては。
トムは立ち上がった。それにのしかかるようにしてサー・ルース・ゴドウィンが立ち上がった。彼の立派だった衣服は、もはやボロボロで、顔はめちゃめちゃになっていた。自分の剣の破片の一つが盲いた左目の白い瞳孔を刺し貫いていた。
右目は開いていた。その瞳孔は青く、氷のように冷たく燃えていた。そして見ていた。
感覚のなくなったトムの指から、折れた剣が落ちた。彼は目をつぶって祈った。長い優雅な手が彼の頬を撫でた。それから、喉を締め上げた。その手は上等の土竜の毛皮の手袋をはめていたが、血でベトベトしていて、触ると氷のように冷たかった。